沢藤南湘の本棚

小説&時代小説

苦闘 中大兄皇子 後編

2019-10-14 18:10:27 | 時代小説
第四話。出会い
 依然緊張状態が続きながらも、中大兄は十八歳の正月を迎えた。
(入鹿は、次に我を標的にするであろう)中大兄は、焦っていた。
一方、天皇家の復活を求める男がいた。
 皇極からの神祇伯(かんづかさのみや)の任用を再三固辞した中臣鎌足(なかとみのかまたり)である。
(逆賊の蝦夷や入鹿のいる朝廷に勤めることはできん、何とか、奴らを朝廷から締め出さなければ。早くしないと、皇族たちが危ない。お上には申し訳ないが)
 鎌足は体の具合が悪いと皇極の使者に伝えて、摂津の国三島に引っ越して行った。

 【神祇伯とは、律令官制の二官の一つ神祇官の長官で、職掌は神祇の祭祀,大嘗(だいじょう),祝部(はふりべ),神戸(かんべ),御巫(みかんなぎ),卜兆(ぼくちょう)など司り神祇官を決済する役目を持つ職であった。
 この時代は、既に社〔やしろ〕を設けて神を祀る『はふり』という人々がいたようだ。
祝部は把笏〔はしゃく: 右手にて置笏してある笏尾を少し上げ、左手を差入れ笏頭まですりあげて、右膝頭に笏を直立し、左手は笏の中程まですり下げて左膝頭に置き、持笏の姿勢をとること。〕を許されていた。 職掌は、諸社の祭事、社殿の保全・修理等であった。
祝部は神戸の中から任用された。
神戸は、特定の神社の祭祀を維持するために神社に付属した民戸のこと。
また、御巫は、神祇官に属し、神事に奉仕した女官。
卜兆は、神祇官に仕えた職員で、占いによる吉凶の判断をつかさどった。】

 鎌足は、明哲の主を求め、動いた。
 まず、皇極の弟の軽皇子に近づいたが、線の細さに目が付き、その器ではないことをすぐに看破した。
 月日が経っても、鎌足のめがねにかなった人材は見つからず虚脱感にさいなまれていた。
そのような時に、家来が中大兄の噂を聞き、その話を鎌足に伝えた。

翌日、飛鳥寺で催された打鞠を、多くの観衆の中の一人、鎌足がいた。前列の鎌足は、中大兄から一瞬たりとも目を離さすにいた。
皆が興奮してきたとき、
「あっ」と声が重なって発せられた。
 中大兄の靴が脱げ、鞠とともに鎌足の前に転がった。
 鎌足は、落ち着き払って、恭しく靴を拾い上げ、跪き、近づいて来た中大兄に謹んで差し出した。
「ありがとう」中大兄も跪き、恭しく受け取った。
「私は、中大兄と申す、そなたの名は」
「中臣鎌足と申します」
二人の視線が、一瞬鋭く交差したが、すぐに
中大兄は、目礼をし、靴を履き直し蹴鞠の輪に戻って行った。

中大兄は、蹴鞠が終わったのち館に戻って、近習の者から、中臣鎌足についての報告を受けた。
「殿下、中臣氏は、二流以下の伴造系の氏族で、蘇我大臣家の足元にも及ばぬ家柄でございますが、鎌足殿は、頭脳明晰との誉れが高いようです。宮廷では、鎌足殿の父上の代以来、蝦夷様や入鹿様に地位を脅かされているようでございます。お二人には、個人的な恨みだけでなく、宮廷での二人の専横を何とかしたいと天皇家のお味方を探しているようです」
「そうか、ご苦労であった」

 その後、中大兄と鎌足の関係は、挨拶から日が経つにつれ親密になり、蝦夷と入鹿打倒の策を二人で練るようになった。
「殿下、蘇我一族を内部から分裂させるために、倉山田麻呂殿をお味方にしたらいかがでしょうか。彼は、摩理勢殿が、蝦夷殿と入鹿殿に殺されたことに反発と不安を抱いています。入鹿殿は、それを見透かし、倉山田麻呂殿を疎外するようにしています。倉山田麻呂殿をお味方にすれば千人力です」


数日後、南淵請安の行の帰り道、鎌足が中大兄に言った。
「殿下、この間の倉山田麻呂殿をお味方にする話ですが、彼の娘をお妃として娶って姻戚関係を結んでいただけませんか。その後、倉山田麻呂殿に我々の計画を説明しようかと思っています」
「分かった。そちの方で話を進めてくれ」
 中大兄たちの計画は、現在の国体を唐のような先進的な律令制に変えるために思い切った改革を行うことであった。

 半月ほど経った契りの日、中大兄が倉山田麻呂の屋敷にやって来るほんの少し前に事件が起こった。

「殿様、お嬢様がいらっしゃいません」
 近習の者が、慌てふためいて板戸の前で言った。
「なに、居なくなったと。そんなはずはない、早く探せ」
 倉山田麻呂は怒鳴って娘の部屋に走った。

 部屋には、舎人が呆然と立ちすくんでいたが、倉山田麻呂の大声で我に返って、
「殿様、弟の蘇我臣日向様が、お嬢様を連れ去ったのを見たものが・・」
 倉山田麻呂は、途方に暮れた。

次女の遠智姫(おちのいらつめ)が、部屋に入ってきた。
「お父上様、どうされたのですか?」
 倉山田麻呂は、長女が連れ去られたことを話した。
 しばらくの沈黙を破って、
「お父上様、私を皇子様に進上なさってはいかがですか。遅くはないでしょう」 
 倉山田麻呂は、喜んだ。
中大兄に承知してもらうよう、遠智姫に言って部屋を出た。
中大兄は、遠智姫を気に入り、契りを早々に結んだ。

倉山田麻呂は、蝦夷と入鹿の言動を、逐次、中大兄に伝えた。
その情報を考慮しながら、策は練られていったが、入鹿の目が厳しく、それを避けるように隠密裏に事は進めるのには限界があると、中大兄は苛立った。
「鎌足、これではいつまでたっても、二人を倒すことができないではないか」
「殿下、味方を増やしましょう」
「誰を。心当たりはあるのか」
「宮内警備の佐伯子麻呂と武勇では一番の葛城網田の二人はどうでしょうか」
「任せる」
 
数日後、鎌足は二人を中大兄に引き合わせた。
二人は、緊張していたが、中大兄が酒を振る舞ったことにより、だいぶ多弁になってきた。
葛城網田が、訴えた。
「皇子、蝦夷たちの専横ぶりは頂点に達しています。大臣と入鹿殿が館を甘橿岡(あまかしおか)に建て、畏れ多くも、大臣の館を上の宮屋敷、入鹿殿の館を谷の宮屋敷と呼ばせ、またそれぞれの子達を皇子と言わせています」
 佐伯子麻呂も口を開いた。
「それだけでなく、館の外を固めています。砦の垣を造り、二つの門の近くには、武器庫も造っています」
「殿下、私も大臣について同じような話を聞いています」
 
 その後も、策は、中大兄、鎌足そして、倉山田麻呂の三人で練られた。
「殿下、大臣と入鹿は常に数十人の警固の兵士を引き連れていて、中々二人を討つのは難しいですぞ。二人を討つのではなく、失脚させる方法を考えた方がよろしいのでは」
「あの二人を失脚させる前に、我の命が無いわい。一日も早く彼らを討たねばならぬ」
「彼らに悟られてはまずいので、しばらく、我々はおとなしく機が来るのを待ちましょう」
「殿下、鎌足殿の言われる通りです、彼らは我々を疑い始めています」
「しかし、彼らを倒した後の制度改革については、詰めておかねばならん」
「殿下、それは南淵請安先生の庵で先生たちのお知恵も借りて案を作るようにしましょう。決して、その案を外に持ち出してはなりません」
「鎌足、そういたそう」

請安の屋敷で中大兄と鎌足は、律令の制定内容について、請安や僧旻そして、玄理たちを巻き込んで案の策定を推し進めて行った。
 中大兄は、それ以外に周孔の道(周とは、周公という名前の人間で、西周時期が卓越している政治家、軍事者、思想家、教育家は、儒学は先駆けて、後世の尊が”元聖”とされる。孔は孔子のことです。春秋時期が卓越している思想家、教育家は、儒家学派の創始者は、後世の尊が”至聖”とされています)、唐の制度、仏教および寺院の在り方について学んだ。
翌年(六四五年)六月八日、請安の庵を出て、中大兄が鎌足に言った。
「四日後、三韓の調が朝廷に持たされる。その時、大臣を討つ。倉山田麻呂達を前日、我が館に集めてくれ」
「承知いたしました」

 謀議が行われた。
「倉山田麻呂、そちが三韓の調の上表文をお上の前で読み上げてもらうことになっている。よいな」
「殿下、承知いたしました」
 倉山田麻呂は、震えていた。
「皆の者、これからいうことは、殿下が決められたことである。しかと聞いて、それぞれの役目、違えるでないぞ」
 鎌足は、細かな説明をした。
第五話。改新
当日、十二日の朝、鎌足が、中大兄に鎌足は念を押した。
「殿下、お考えは変わりませんか」
「入鹿を斬るしかない、後世なんと言われようと、今日斬る。渡来人にこの国を牛耳られてたまるものか」
 鎌足たちは、昨日の打ち合わせ通りに大極殿の外に身をひそめた。
入鹿が、剣を携えて、大極殿に入ろうとした時、入口の警備の者が、
「入鹿様、今日はお上の命令で、剣を持った人間は中には入れるなと命ぜられています。入鹿様の剣、お預かりします」
「儂を誰だと思っている、お上は儂が剣を持って入っても許すに違いない」
「そうは言っても、お上の命です。それに従わなければ、私は腹を切らねばなりません」
 と、腹を切るまねをし、苦渋の顔をした。
「分かった、お前に預ける」
 入鹿が、席についてしばらくすると、皇極が供を連れて、大極殿に入ってきた。
 皆が、平伏し、皇極は、玉座に腰を下ろした。
 儀式は始まった。
 儀式の進行を見据えていた中大兄は、衛門府を呼び、十二ある門すべてを閉門し、一人たりとも出入りをさせぬように命じた。
 だれも、中大兄の行動に不信を持つ者はいなかった。
 倉山田石川麻呂が、皇極の前に進み出でて、上表文を代読し始めた。
 鎌足は、大極殿の傍らに弓矢を持って、佐伯子麻呂と葛城網田とともに、潜んでいた。
 そして、持ってきた箱を空けて、二人に剣と槍を授けて言った。
「佐伯殿、葛城殿。油断せずに、不意を突いて斬りつけるのだ」
 佐伯は、今朝の飯は、恐怖のためほとんど吐いてしまい、顔色が悪い。また、葛城は、緊張のあまり、体の震えが止まらない。
「しっかりしろ」
 鎌足は、弓矢を置き、二人の背を推した。

 倉山田石川麻呂は、全身汗だくになり、声が乱れ、身体が震えだしたが、何とか読み終えた。
 近くに座していた入鹿が、不審そうな顔をして尋ねた。
「どうされたのか」
「お上のおそばに近いことが畏れ多く、不覚にも・・・・・」
(佐伯たちは何をやっているのだ、早くしないと入鹿に悟られてしまう)中大兄は、焦った。
「やあっ」
佐伯と葛城が現れ、中大兄の前を通り過ぎようとした時、葛城が槍に足が絡んで転倒した。
その瞬間、中大兄は、笏を懐に収めるや否や、槍を拾い上げ、
「私が、やる、どけ」
 と、素早く走り出で、呆然と立ちすくんでいた佐伯をどけ、入鹿の前に立ちはだかった。
「入鹿、覚悟!」
「中大兄皇子、一体・・」
 入鹿は、恐怖で顔から血の気が引いていた。
「しらばくれるな、お上の地位を奪わんとしていること、知れているぞ」
「畏れ多くも、この私が、お上の地位を奪うなどと。助けて下され」
 入鹿は、笏を片手に持ちながら、後ずさりして、皇極の前まで、助けを求めて行こうとした時、
「ヤーッ」
「ギャッ~。・・・気がふれたか、皇子」
 葛城が、剣を抜いて、猛然とやって来て、背を刺した。
 続いて、佐伯が片足を斬った。
 入鹿の足から血が吹き出し、板の間に飛び散った。
 中大兄たちも、返り血を衣冠束帯に浴びた。
 入鹿は、這って皇極の前になんとか辿り着いた。
「お上・・、皇位に坐すべきは、天の御子です。私に一体何の罪があるというのでしょうか。無念です。よくお調べください」
 中大兄は、さらに入鹿にとどめを刺そうと剣を抜いた。
「皇子、もうやめよ。なぜこのようのむごいことを」
 中大兄は、床に伏して、
「入鹿や一部の蘇我一族は、ことごとく天皇家を滅ぼして、皇位を傾けようとしました。どうして、天孫を渡来人の入鹿たちに代えられるでしょうか」
「よしなに」
 皇極は、席を蹴った。
 周りにいる群臣たちは、壁際で震えながら、皇極を見送った。
「騒がないで下さい。また、この部屋から一歩たりとも出ることを禁じます。わかりましたか」
 鎌足が、群臣たちに向かって言った。
 わずかにどよめいたが、反論する者はだれ一人いなかった。

 霧雨が舞っている中、近習の者が、筵を運んできた。
「上がって、入鹿を運べ」
 葛城が、自分を奮い立たせるように怒鳴った。
 中大兄は、佐伯と葛城達に官吏たちの見張り役として残し、門外に待たせておいた兵を率いて、飛鳥寺に入った。
「殿下、古人大兄皇子様は、既に館に戻って、門を閉め、戦の準備をしているようです」
 鎌足が、報告に来た。
「いつの間に。しばらく、様子を見るように」
 と伝え、すぐに海犬養連を呼び、入鹿の死骸を蝦夷の館に送りつけるよう命じた。
 鎌足たちは、既に寺を砦として防備を固め終わった。
「殿下、大極殿にいた官吏たちが、我々の援軍として、兵を伴ってこちらに向かっているそうです」
 身に甲冑をつけた中大兄が、戦闘態勢に入るよう下知した。

 古人大兄は、息を切って屋敷に戻っていた。
 すぐに、門を兵で固めるよう近習に命じた。
 妻が、白湯を持ってきた。
「皇子、どうされたのですか」
 古人大兄は、甲冑を身に着け終わったところだった。
「あの百済人石川麻呂の奴が、入鹿を殺した。蘇我の内部対立を中大兄が、煽っている。悲しいことだ」
「中大兄様の企みですか。なぜですか」
「政を牛耳っている帰化人たちを排除して、皇位に就くのが目的であろう。我々も危ない。女どもも、準備させよ」
 古人大兄の屋敷内は、戦闘態勢に入った。

 一方、蝦夷は、配下の漢直(あやのあたい)と呼ばれる渡来一族全員を集め、陣を張らせていた。
 お互いに、相手の出方をしばらくの間見守っていた。
「殿下、敵は怯んできたようです。この機を逃さず、敵に降伏するよう使者を送ってはいかがでしょうか」と鎌足が、具申した。
「巨勢臣徳太(こせのおみとくた)を呼べ」
「はっ、承知いたしました」
 鎌足は、近習の者にすぐに巨勢臣を連れてくるよう命じた。

中大兄は、近習に連れて来られた巨勢臣に、中大兄の手勢も連れて、蝦夷の館に説得に行くように伝えた。

巨勢臣は、蝦夷の館前に松明を持った兵で、取り囲み、叫んだ。
「誰か、おらんか。拙者、巨勢臣徳太。無駄な抵抗せずに、門を開けよ。天地開闢より、お上に逆らうは、賊である。この戦、抗戦の挙に出ても、勝てる見込みはない。武器を捨て、門を開けよ。そうすれば、命だけは助けてやる」
しばらくして、門が開き、一人の男が出てきた。
「拙者、大臣の臣下の高向国押と申す。我々の命を救うことに偽りはないな」
「しかと」
「分かった、しばらく待て」

 高向国押は、門の中に戻り、兵たちを集めて言った。
「この戦、たとえ徹底抗戦しても勝ち目はない。俺は、戦わないでここから去る。去る者は、敵は見逃すと言っている。皆のもの好きにしろ」
「蝦夷様は、如何申されているのだ」
「蝦夷様には、言ってはおらん」
 と言って、高向国押は剣を置いて、門に向かった。漢直たちも続々と後に続いた。
 それを知った蝦夷は、もうこれまでと、翌日、館に火を放って、自決した。
 蝦夷の死により、蘇我大臣家宗家は、滅亡した。

中大兄は、皇極に呼ばれた。
「このようなことが起こったのは、残念です。これから、あなたが皇位を継承するのが必然です。頼みます」
 中大兄は予想もしなかったので、返答に詰まった。
「お上、しばらく考えさせてください」
 中大兄は、次第に嬉しさがこみあがってきたが、それを押さえながら大極殿を退去した。
 朝堂の元大臣の部屋に戻って、この度功労のあった重臣たちを集めた。
 そして、皇極から皇位の譲位の話があったことを伝えた。皆喜んでいた中で、鎌足の顔が険しいのに中大兄が気付いた。
 皆が帰った後、中大兄は、鎌足に本意を聞いた。
「殿下、古人大兄様は、殿下の兄上、軽皇子様は、殿下の叔父君であられます。古人大兄様がいらっしゃるのに殿下が天皇に着かれたら、人の弟としての謙遜の心に反することになりましょう。しばらくは、叔父君を立てるのが良いと思います。いかがですか。反旧勢力から、今回の改新が個人的な権勢力欲かと見られるのは、今は避けねばなりません。当分は、計画してきた改新政治に専念するために、軽皇子様に継承させられたら良いでしょう」
 中大兄は、考えた。
「お上が引退したら、‘皇祖母尊’という称号を贈り、殿下は、皇太子になられるのがよろしいかと」
中大兄は、鎌足の具申を受け入れ、皇極に奏上しに大極殿に上った。
「お上、天位に着かれるのにふさわしい人は、軽皇子様でございます。私ではございません」
 中大兄は、皇極に軽皇子を推挙した。

 翌日、皇極は軽皇子、中大兄そして、古人大兄を呼び、軽皇子に皇位を継承するよう求めた。
しかし、軽皇子は、再三固辞し、言った。
「古人大兄皇子は、先の天皇の御子であられます。また、年長者です。よって、古人大兄皇子が、天意に着くのがふさわしいと思います」
 中大兄は、古人大兄を凝視した。
 すると、古人大兄が、座を降りた。
「お上の勅旨に従いましょう。どうして、私に譲ることがありましょうか。私は、出家いたします、そして、仏道を極める所存です」
 と言って、剣を床に置いて、部屋を出て行った。
(これでよい。古人大兄も恐れをなしたか)
中大兄は、生前の入鹿が推挙していた古人大兄を、何としても朝廷から遠ざけておかなければ、自分が計画した改革が思う通り運ぶことができないと危惧していた。

 翌日、軽皇子は、大極殿の壇に上った。
壇の右左には、金の襷をかけた大伴連馬養、犬上健部君が立った。
百官の臣、連、国造、伴造そして、百八十部たちは、列を作って、軽皇子即ち、天皇に即位した孝徳天皇を拝んだ。
式典が終わるや否や、中大兄は、鎌足を伴って、今まで練ってきた新体制を孝徳に上伸した。
孝徳は、今回の蘇我一族を打倒した立役者である中大兄に従わざるを得なかった。
十九日、中大兄は、敵対する反対派を抑え込むために、大極殿の庭に群臣たちを集め、天皇に従順することを約束させた。
そして、皆に告げた。
「帝道は、一つである。しかしながら、末代には人の情けが崩れ、君臣は秩序を失った。天は、我の手を借りて暴虐の徒を誅滅した。今ここに誠心を持って共に誓う。今後、君は二政を行わず、臣は二心を持たない。もしこの盟約に背けば、鬼神や人が誅滅する」
 大化元年の幕開けであった。
 皇極は、中大兄の妹、間人皇女を皇后とし、別に妃二人を娶った。
新政府は中大兄が、政策立案機関と政務執行機関の両方を統轄して走り始めた。
 中大兄と鎌足は、二人の国博士の助言を得ながら、政策を次々と立案し、左右大臣に執行させたが、
立案した政策が民衆にいきわたらないことに焦りを感じていた。
反対派と孝徳が、それを阻んでいるとの噂が中大兄の耳に入った。
 鎌足を呼んで、いかにしたらよいかを尋ねた。
「殿下、右大臣の倉山田石川麻呂殿に、お上の橋渡しをしてもらったらいかがでしょうか」
「よかろう、頼む」
 また、孝徳と左大臣の阿部内麻呂のラインを政略的に朝政の前面に押し立てることにして、鎌足は、その実行に腐心した。
 それでも、鎌足は不安であった。
「殿下、まだまだ、新政府は盤石でありません。反政府派や地方豪族を一日も早く押し込む必要があります」
「名案はあるか」
「はい、一石二鳥の策があります。名門の大夫を選んで東国の国宰(くにのみこともち)に任命したらいかがでしょうか。これで、宮廷の臣や連たちは改新派になびくでしょう」
「そうだな、東国には、屯倉、子代や名代が多いから早く手を打った方が良いな。早く我々の基盤を磐石にしなければならん」
 大和朝廷に服属しなかった地方豪族に対しては、土地を奪い「屯倉」(大和朝廷の直轄地)を設け、そこで働く農民集団(部)を田部といいます。部の構成員を部民といい、
 他方、国造という姓を与えた氏からは、部曲の一部を割いて、大王家やその一族の生活の資を後納する農民集団である部を設定しました。これを「名代」「子代」「品部」という。
 この方法を発展させ、中央集権的に地方支配を拡大していったのが、屯倉の管理者であった蘇我氏であったが、蘇我氏滅亡により管理者不在であった。
八月、東国に向かう国宰たちに左大臣は、まず国造(くにのみやっこ)に新政府の基本方針を伝え、そして、造籍と田畑の実測をさせることを命じた。また、大化改新以前の「国」を治める世襲の首長の国造は、倭王権に服属して任じられた職で、軍事・裁判権などを保持しており、その権限を侵さぬよう訓示した。
 国宰となった大夫たちが、それぞれの国へ旅立った。

中大兄の計画が着実に進み始めた頃、鎌足から中大兄に古人大兄に謀反の噂が伝えられた。
「殿下、その噂、吉備笠臣垂(きびのかさのおみたる)が持って参りました」
「吉備笠臣垂から石川麻呂にその噂を伝えさせよ」

鎌足から命を受けた吉備笠臣垂が、朝堂で執務を取っていた石川麻呂を訪ねた。
「右大臣、古人大兄様が、新政府を転覆させようと企んでいるようです、お気をつけなされ」
「何っ、それは本当か」
「噂だけかもしれませんが、火のないところに煙は立たないと申します」
「吉野に行って、調べてまいれ」
 倉山田石川麻呂は、吉野にいる古人大兄の様子を探るよう命じた。
 吉備笠臣垂は、朝堂を辞退して鎌足の館を訪ねた。
鎌足は既に吉野に使者を送っていた。
その内容を誇張して、吉備笠臣垂に伝えた。
「そちは、吉野に行かずにこのことを右大臣に伝えよ」
翌日の昼。吉備笠臣垂は、石川麻呂に会った。
「右大臣、蘇我田口臣川堀、物部エノイノ連シカや漢直たちが古人大兄皇子を担ぎだそうとしているようです」
「また、漢直たちか」
「はっ」
「苦労であった、下がってよい」
 倉山田石川麻呂は、孝徳に急ぎ伝えた。
 孝徳は、中大兄を呼んで古人大兄の謀反のことを話した。
「お上、早くしないとお命が危のうござります」
 孝徳は、しばし目を閉じた。
「早く吉野へ兵を送って、討ってでよ」
「承知いたしました」
 中大兄は、館に戻って、吉備笠臣垂を呼んで、古人大兄の討伐の将軍を命じた。
 吉備笠臣垂が、立ち上がろうとすると、中大兄が言った。
「ちょっと、待て」
「はつ」
 吉備笠臣垂は、座りなおした。
「我の兵も連れて行け」
「ありがとう存じます」
 中大兄は、近習の者に、兵を集めるよう命じた。
翌日、朝。吉備笠臣垂は、六百の兵を従え吉野に向かった。
二刻ほどで、吉野に入った。
「皆の者、敵は古人大兄様のみぞ。ぬかるでない、攻めろ」
「オー」

 一方、古人大兄の館では、使者が古人大兄に非常事態を伝えた。
「古人様、吉備笠臣垂が攻めてきました」
「なに、奴め、謀ったな」
 古人大兄は、すぐに甲冑を身にまとった。
「古人様、すでに敵に取り囲まれています」
 古人大兄は、一人自分の部屋に入って、自決した。

 中大兄は、気の許せない敵手であった古人大兄を葬って、ほくそ笑んだ。
(これで、改革をさらに推し進めるのに邪魔が一人減った)
 朝堂に僧旻を呼んで、今後のことについて相談した。まずは、地方にいる反対派を抑えるために孝徳に国宰への詔を発することにして、その案を僧旻に命じた。
 翌日、
「古より、天皇の御世ごとに、名代の民を置いて、御世にその名を伝えた。臣、連、国造たちは、自分の民を置いて欲しいままに使ってきた。また、山海、林野、池、田を自分の財産としてきた。今後は、臣、連、国造たちは、まず自らの分を収め取り、それから民に分けることにする。今後は、『上を敬い、下を益す制度を守り、民を傷つけないこと。今なお、貧しい人民に、勢力のあるものは、田畑を貸し与え、搾取してはならない。そして、勝手に主人となって、人民を支配してはならない』以上、くれぐれもこのことを守るべし」と書かれた天皇の詔を持って、諸国に使者が走った。
 諸国の民たちは、喜んだ。
「さすが、今度のお上は今までと違う」
「いや、中大兄皇子様だ、蘇我氏を滅ぼしただけの御器量があるのさ」
 明日は、正月元日という切羽詰まった年の暮れ、中大兄の館では、朝から鎌足、左大臣の阿倍仲麻呂、右大臣の蘇我倉山田石川麻呂、国博士の旻法師そして、高向玄理が集まって、明日発する詔について、打ち合せていた。
 外が闇に包まれ始めた。
「私が、お上に奏上したのちに、右大臣にこの詔を読み上げていただきたい」
「殿下、承知いたしました」
 
翌日、大化二年(六四六)正月元日。
朝廷では、恙なく賀正の礼を終えると、直ちに昨日完成した「改新の詔」を群臣たちの前で、石川麻呂が読み上げた。
「改新の詔でございます。その一、屯倉や臣・連・国造の所有している田や田を廃止する。
・・・・・・・・・」

 二月中ごろ、孝徳は、中大兄が奏上したことを、右大臣に告げた。
「私が聞くところでは、明哲な治政とは、人民の苦しみを理解し、家を往来に造って道行く人の誹謗を聞くことである。そのため、困った人や、諌言する人が上表文を櫃に投げ込めるよう鐘をかけ櫃を設ける。
そして、上表文を回収し、私が読み、群臣に調査させる。ただし、名を記した分のみ上表せよ。もし、群臣たちが怠けて、丁寧な対応をしなかったり、片方だけにおもねって味方したり、また私が諌言を聞き入れない場合には、困って訴えようと思う人は、鐘を打てばよい。良いか、くれぐれも公平、平等を先にせよ」
 半年が過ぎた。
 中大兄は、鎌足を呼んで聞いた。
「鐘櫃の訴えは、何かあったか」
「はい、民は、飢えで疲弊しているのに、雑役をやらされていることに不満と訴えてきている者が多ございます」
 鎌足は、干ばつで、農作物が昨年より六割ほどの収穫で民たちは食物が手に入りにくく、飢える民が全国に多くいることを詳しく説明した。
「分かった。すぐに雑役をやめさせるよう左大臣に命じよう」
 中大兄の行動は、早かった。
 
そして、大化四年(六四八)。中大兄は、二十二歳になっていた。
 中大兄は、従来の冠位十二階を改訂し、従来冠位外とされていた大臣(おおおみ)の大紫冠を冠位に組み込んだもので、冠位十三階とした。
 改革が進んでくると、反対派は危機感を募り、いろいろな画策を講じてきた。
 そのような時、左大臣阿倍仲麻呂がこの世を去った。
 中大兄は、未だ仲麻呂の死を嘆いていた時、
「殿下、右大臣が、謀反を起こそうと企んでおります。殿下が海に遊行に行かれる時、殺害を計画しております。十分お気を付け下さい」
 倉山田石川麻呂の異母の弟にあたる蘇我日向が、言って来た。
「何を申す、倉山田石川麻呂が、謀反を起こすわけがない。下がれ」
 中大兄は、日向が帰った後、しばらく考え込んだ。
(使者を送って、真意を確かめてみよう)
 
 使者が、倉山田石川麻呂の伝言を持って、戻ってきた。
「石川麻呂様は、ご質問の返答はお上の前で直接申し上げますと言われました」
 中大兄は、怒った。
(なぜ、私に言えないのだ。この私にたてつく気か。やはり、蘇我一族は、天皇家に再び食い込もうとしているのか。いや、一族の葛藤か。どちらにしても、この機会に、蘇我一族の長である倉山田石川麻呂を叩いてしまおう)
翌日、中大兄は、孝徳の面前にて、倉山田石川麻呂謀反ありと伝えた。
「中大兄、倉山田石川麻呂を征伐しなさい」
 孝徳は、命じた。
 中大兄は、大伴狛連を大将軍に命じ、将軍に蘇我日向を命じた。
 大軍が、倉山田石川麻呂の館を包囲した。
 石川麻呂は、我が子二人を連れて、裏山から逃げ長男の興志(こごし)の館に向かった。

「なに、父上が皇子の手に追われていると!」
 興志は、山田寺を造っていた館で使者を迎えた。
「すぐに父上を迎えに参るぞ、軍を起こせ」
 近習の者に伝えた。
 陽が山際に、かかり始めていた。
「父上の弟、蘇我日向殿が将軍ですぞ。姉君まで奪い取って。人でなしめが」
 石川麻呂の唇は震えていた。
「父上、なぜ皇子が父上を討たなければならないのですか?そんな無体なことを。私が、日向の軍を迎え討ちましょう」
「興志、もういいのだ。皇子は、儂が邪魔になったのだ」
「父上、悔しいです」
 興志は、涙した。
 石川麻呂は、興志を説得して、完成に近い山田寺に入った。
 山田寺は、舒明天皇十三年(六四一)より、整地工事を始め、二年後の皇極天皇二年(六四三年)には金堂の建立が始まっている。そして、今は、石川麻呂の一族によって、仕上げの工事が行われた。
 石川麻呂は、金堂に僧たちを集めた。
「私がここに来たのは、最期は安らかに迎えんためである。決してお上を恨むものではない」
 そして、僧たちを外に出して、蘇我倉山田石川麻呂一族は、自害した。

 中大兄の妃、遠智姫(おちのいらつめ)は石川麻呂たちの最期を聞き、号泣した。
「殿下、なぜ父上を攻めたのですか。兄弟までも自害してしまったとは」
「妃、石川麻呂は、私の命を狙っていたのだ。やらなければ、やられていた」
「そんな、父上が、殿下のお命を狙うなんて、嘘です」

 遠智姫は、悲しみに明け暮れとうとう傷心がいやされること無く、この世を去った。
 そして、白雉元年(六五〇)二月九日。
 穴戸の国宰が、群臣たちが見守る中、孝徳に白雉を献上しに大極殿に参上した。
 厳かに、献上の儀は終わった。
旻法師が、孝徳の前に進み出て、礼をして言った。
「王者の治政が四方にあまねくゆきわたると白雉が現れるのです。お上は人徳があり聖人である証なのでございます。おめでたいことでございます」
 孝徳は、白雉と年号を改元した。

 白雉二年(六五一)、十二月晦日。
 孝徳は、難波長柄の新宮、味経宮((あじみのみや)に遷った。
その五日後、孝徳は、宮に二千人余りの僧尼を招請して、庭に三千の灯火をともし経を読ませた。
中大兄、鎌足そして、国博士は、一年をかけて、戸籍と班田収授の法を作り始めていた。


  そして、白雉三年の夏。
 雨が降り続き、川は氾濫し、田は水浸し、崖は崩れ、家々はつぶされ、人馬が死んで行った。
 このような時期に、中大兄は、孝徳に戸籍法を上申した。
「お上、この法は、五十戸を里とし、里ごとに長一人を置きます。戸主にはすべて家長をあてます。戸はすべて五家で隣保を作り、一人を長として互いに見張らすのです。これによって、安定した国が作れます。」
「皇子、国宰に使者を使わそう。下がってよい」
 孝徳は、腹が立ってきた。
(私は、中大兄皇子の言いなりではないか)

 一方、中大兄は、大化の詔から七年、やっと苦労が実ったと喜んでいた。
 その後も、中大兄は、独断で政を推し進めて行った。
 
白雉四年(六五三)五月、孝徳と中大兄は、安曇の寺で床に臥せっている旻法師を見舞った。
「お上、皇子。わざわざ来ていただき・・・・」旻法師は、起き上がろうとした。
 中大兄は、それを押さえて、
「もしお前が今日死ねば、私も法師に従い明日死ぬであろう」
 と言って、旻法師の手を取りながら涙した。
 一か月後、旻法師は、他界した。
中大兄は、海外から学ぶことも無くなったので、難波から飛鳥への遷宮を考え始めた。
「皇子、飛鳥へ行くことは許さんぞ。もし、行くならば私は、皇位を去る」
 孝徳は、意地でも難波の地で政を行うと主張した。
「お上、何を仰せになるのですか」
 中大兄は、説得を試みたが、孝徳が承知しなかったので、孝徳の反対を押し切り皇極、孝徳の妻間人皇后や多くの群臣を引き連れて、飛鳥に勝手に移った。
 孝徳は、それを知って激怒したが、中大兄の専横に対しては、なすすべはなかった。
 翌年、孝徳は、心身の苦労のため、難波で寂しく息を引き取った。

 中大兄は、孝徳の死を知り、皇極に再度皇位についてもらうよう上申した。
 皇極は、中大兄が皇位を継承するのが順当であると固辞していたが、再三にわたる中大兄の説得で白雉六年(六五五)、皇極は、名を代え斉明として即位した。
 半年後、飛鳥の岡本に宮殿が完成し、斉明はそこに移った。
 斉明は、これをはじめにいろいろな土木工事に手を出した。
まずは、香具山から石上山まで溝を掘らせ、それに水を通し、舟二百隻に石上山の石を運ばせて、岡本宮の石垣を造らせた。
 多くの民たちは、
「お上は、気が狂ったようだ。疲弊した我々十万人を使役させた」
 石垣の完成から間もなく、斉明の岡本宮が炎上した。
「誰が火付したのか、皇子、徹底的に探しなさい」
「お上、承知しました」
(改新の詔の意味が無くなってしまう)
 中大兄は、斉明が自分の気持ちを察してくれないことを苦々しく思っていた。
 そして、斉明が行った。
「皇子、新しく吉野に宮を作るから手配をしてください」

 中大兄は、斉明にこの四年間振り回され続けていた。
政争に巻き込まれるのを避けるために心の病を装い、療養と称して牟婁の湯に行っていた孝徳天皇の子、有間皇子は飛鳥に帰って来た。そして、吉野宮を訪れた。
「お上、おかげさまで病気が完治しました」と斉明に伝えた。
「よく来てくれました」
有馬は、療養していた牟婁の湯の素晴らしさを話して聞かせた。
中大兄は、有馬が戻ってきたことを聞き、危機感を持った。
(有馬皇子が、政に口を出すに違いない。このままいくと、お上は、皇子に皇位を継承させるかもしれない。何とか早く手を打たねば)
 中大兄は、蘇我赤兄を呼び、有馬の失墜させるよう命じた。

中大兄は、斉明のお供で、牟婁の湯に行った。
一方、命を受けた蘇我赤兄は、飛鳥に残っていた有間皇子に近付き、斉明天皇や中大兄皇子の失政を指摘し、自分は有馬の味方である事を伝えた。
「皇子、お上の政事に三つの過ちがあります。民の財産をいやおうなしに造った蔵に集めたことが一つです。二つ目は、あまり必要もない長大な溝を作らせて、三つ目は、それを利用して多くの石を舟で運ばせ石垣を作らせたことにより、より民を疲弊させました。このような狂ったことをこれ以上させてはいけません。私もお味方いたしますので、是非お立ちあがり下さい」
有馬は喜んだ。
「赤兄分かった。良く言ってくれた」
有馬は、赤兄に斉明天皇と中大兄皇子を打倒するという自らの意思を明らかにした。
有間は、確信した。
(母の小足媛の実家の阿部氏の水軍をもって、お上達を急襲すれば絶対に勝てる)
赤兄は、すぐに中大兄に有馬の謀反を文にして送った。
中大兄は、すぐにその文を斉明に見せた。
二日後、有馬は、天空に光が走ったのを見て、不吉な予感を感じたため、謀事を中止することを館に呼んだ赤兄に伝えた。
赤兄が帰った後、有馬は寝入った。
夜の静けさを破る近習たちの大声で、有馬は目を覚ました。
「何事だ」
「皇子を捕縛しに赤兄が、館を兵で取り囲んでいます。さあ、御仕度を」
「ばた、ばた」
「おとなしくしろ」
「お前たちの目的はなんだ」
「静かにしてください、謀反の疑いです」
 有馬は、中大兄に尋問されたが、
「全ては天と赤兄だけが知っている。私は何も知らぬ。ぬれぎぬだ」
  と答えて、後は黙しているのみであった。
  二日後、一番重刑の晒し首にされた。

ほっとする暇もなく、中大兄は国宰から沿海州の外敵が、蝦夷の地に侵攻してきたとの報告を受けた。
「阿倍比羅夫を呼べ」
 宮殿に来た阿倍比羅夫に、外敵の討伐を命じた。
「比羅夫、日本海側に設けてあるヌタリノ柵、イワフネノ柵に越後国守として参って、外敵を討伐しろ」
「殿下、承知いたしました」
 
 比羅夫は、舟軍二百艘を率いて、秋田、能代まで進んで、外敵を殲滅させた。

 一方、中大兄が、国内問題に振り回されている間、中国、朝鮮半島情勢は進展していた。
翌年、斉明は、遣唐使を派遣したところ、唐は東征の準備に入っており、その遣唐使たちは
長安に抑留されてしまった。
その後、百済は、唐と新羅の軍によって、挟撃された。
斉明に百済の使者が、支援を求めに宮殿を訪れた。
 水時計(漏刻と呼ばれていた)を造ろうと屋外にいた時、
「殿下、お上がお呼びです」
 近習の者が、走って来て伝えた。
 大極殿に中大兄は、急いだ。

 斉明が、朝鮮半島の情勢を説明して、
「皇子、出兵しますぞ。準備せよ」と、命じた。
「お上、承知いたしました」
 中大兄は、大規模な動員に一年余り準備を要し、そして、斉明と伴に、筑紫の朝倉宮に軍を進めた。
 しかし、斉明は、旅の疲れから病を患い、床に臥せった。
「皇子、私はもうだめです。後を頼みます」
 斉明の顔は、やつれて生気を失っていた。
「気をしっかりお持ちください。ごゆっくりお休みになればお元気になります」
 中大兄は、斉明の命がもう長くはないことを悟った。
それから毎日、祈祷師が、斉明の平癒を祈り続けたが、その甲斐も空しく、五日後、斉明は崩御した。
中大兄は、皇位を選ばずまた自身は、称制という形で実権を握って政治を代行することにし、まず、博多湾岸に長津宮を造営し、そこで大本営として指揮を執った。
中大兄は、大錦中安曇連を大将軍に命じ、百七十隻の大軍を朝鮮半島に送るとともに、日本に人質として来ていた豊璋を再建した百済の王とした。
第六話。惨敗

 六六一年正月、ついに中大兄は、皇位についた。天智の誕生であった。
 しかし、朝鮮半島では、風雲急を告げる状況であった。
三月、百済は、新羅軍に攻められ苦戦をし、日本に援軍を求めてきたので、将軍に任命された阿倍比羅夫は、二万七千人の兵を率いて出発した。
百済では、豊璋が福信と対立しこれを斬る事件を起こしたものの、日本国の援軍を得た百済復興軍は、百済南部に侵入した新羅軍を駆逐することに成功した。
百済の再起に対して唐は増援の水軍七千の兵を派遣した。唐・新羅連合軍は、水陸併進して、日本国・百済連合軍を一挙に撃滅することに決めた。百七十隻の水軍は、熊津江に沿って下り、陸上部隊と会合して日本国軍を挟撃した。比羅夫は、中大兄に援軍を要請するために使者を日本に送った。
 中大兄は、要請に応え、廬原君(いおりはらきみ)を将軍として、一万の兵を送った。
日本国と百済連合軍は、白村江への到着が十日遅れたが、皆相手を飲んでいた。
唐軍は、既に船軍の配置を終えていた。
その状況を知っていたにもかかわらず、
「我等先を争はば、敵自づから退くべし」と比羅夫は、号令を発し、
唐・新羅連合軍のいる白村江河口に対して突撃した。
しかし、日本国軍は三軍編成をとり四度攻撃したが、干潮の時間差などにより、六六三年、唐・新羅水軍に大敗した。
百済復興勢力は崩壊した。白村江に集結した千隻余りの日本国船のうち四百隻余りが炎上した。九州の豪族である筑紫君薩夜麻も唐軍に捕らえられた。白村江で大敗北した日本国水軍は、各地で転戦中の日本国軍および亡命を望む百済遺民を船に乗せ、唐水軍に追われる中、やっとのことで帰国した。 
六六三年もう暮れの時、中大兄は、白村江の敗戦を聞いて愕然とした。
(奴らは、勢いに乗って、攻めて来る。何とか、防がなければ、皆殺しに会うぞ)
唐・新羅の侵攻を怖れて、北部九州の大宰府の水城(みずき)や瀬戸内海を主とする西日本各地に古代山城などの防衛砦を築いた。また北部九州沿岸には、防人(さきもり)を配備した。
次々と、百済から亡命の民が、舟でやって来た。
「鎌足、唐が攻めて来るぞ。ここでは危ない。都を内陸の近江に遷都しよう」
「殿下、ここで逃げては民の信を得られません。ここにとどまって下さい。」
 鎌足が引きとめるのを、振り切って近江に遷都した。
 遷都を願わない民たちの火付と言う暴挙が、あちらこちらで起こった。
 それには構わず、中大兄は、近江宮の防備に三年間専念した。
近江も落ち着きを取り戻した頃、
「殿下、この機に即位したらいかがでしょうか」
鎌足が、具申した。
「万民も落ち着いてきたようだ、そう致そう」
 六六七年正月、中大兄は天皇に即位し、天智と名のった。
 天智天皇、四十三歳であった。
  この年、天智の弟、大海人の妻の額田王が、十市皇女を産んだ。
 それを知って、天智は、お祝いに行ったところ、額田王に一目惚れしてしまった。
 ふっくらした頬、穏やかな目、情熱的な唇そして、知的な鼻筋、天智は、数日後に、額田王を閨に誘い、そのまま、宮中で働かせた。
 天智には、この時、古人大兄の娘を皇后として他に九人の妻がいたのだが。
 数日後、浜楼で天智は宴を催した。
天智は、機嫌よく酒を飲んでいた。その時、大海人が、槍を持って天智の前に立った。
「お上、人の妻をなんと心得る。人としてあるまじきことを」
槍を振り回し、床を刺し抜いた。天智は、盃を落とし、驚き床を這いつくばって逃げようとした。
「皇子、お待ちください。今日はめでたい宴席、お静まりなされ」
 鎌足が、大海人の腕を掴んで言った。
 しばらくもめたが、腕力の強い鎌足に槍を取り上げられ、大海人は、悔し涙を見せて部屋を出て行った。
(お上は、石川麻呂の姫君の事件より、おかしくなりあそばれた。だんだんひどくなってきた)
 鎌足は、自責の念にとらわれた。
 この事を、額田はすぐに知った。
(大海人様は、それほどまでに私を思って下さったのか)
額田は、天智の目を盗んで、大海人と逢瀬を楽しんだ。大海人の館で人目を憚ることなく、酒宴に出るようになっていた。
天智は、額田の行動に気づき、鎌足を呼んだ。
「額田の行動を逐次見張って、一部始終、私に知らせるよう」
命じた。
「お上、承知いたしました」
(お上の嫉妬心にはいささかまいる。いつか、大海人皇子の怨みから、お上に何かなければよいが)
 鎌足は、心配になった。
 数日後、天智に鎌足が宮中に報告に来た。
「お上、大海人様と額田王は、ただ会って、酒を飲んでいるだけのようです。そのようなたわいもない時を過ごして、歌を互いに詠んでいました」
「どんな歌を詠んでいたのだ」
「はい。‘あかねさす 紫野行き 標野(しめの)行き 野守(のもり)は見ずや 君が袖振る’それに大海人様応えて‘紫の にほへる妹(いも)を 憎くあらば 人妻故に われ恋ひめやも’と詠われました」
「なんと、それは二人の愛を確かめ合っているのではないか」
「お上、お気に召されるな。天皇は、寛容な心をお持ちのはずです」
第七話。無念
 六六九年十月庚申の日(十五日)
 天智は、昨月病に倒れた中臣鎌足を見舞った。
 鎌足が憔悴していたのに、驚いた。
「鎌足、気をしっかり持て。天道は、仁徳を備えた者を助けるものだ。善行を積み重ねた者には、幸福が持たされるものだ。何か必要なことがあれば、すぐに申し出るがよい」
 鎌足の手を取って、言った。
「私は、全くの愚か者です。申し上げることなど何もありません。ただ、葬儀は簡素にしてください。存命中、国の軍事に責務を果たしておりませんのに、死去に際してまで、お上を煩わすことはできません」
 鎌足は、天智から顔をそむけた。
「もういい、静かに休め」
 天智の頬に一筋の涙が流れた。
 翌日、天智は鎌足に藤原の姓と大臣の位を授けるため、鎌足の館に使者を出した。
 
 その五日後、妻の鏡王女(かがみのおおきみ)や息子の不比等たちに見守られて、鎌足は五十六歳の生涯を閉じた。
 不比等は、一日中泣きじゃくっていた。
「不比等、いつまでも泣くではない。早く、お上に伝えてくるのです」
 鏡王女は、しっかりと不比等に命じた。
不比等は、下僕に馬を引かせ宮に行った。
 
「天はなぜ、鎌足をもう少しこの世に残さなかったのか、哀しいことだ」
 天智は、不比等から話を聞き、嘆いた。
(お上は、本当に父上を信頼していたのだ)と、不比等は、父鎌足に嫉妬するとともに、父親への尊敬の念を持った。
「不比等、父上に負けず、勤めに励めよ」
「有り難きお言葉、承知いたしました」
 不比等は、天智が部屋を出るまで、笏を両手に低頭し続けた。
 
 翌年、天智は、鎌足と作り続けていた庚午年籍を施行し、国宰に盗賊と浮浪者を取り締まるよう使者を各地に送った。
 六七〇年四月の末、雷雲から、光を発するや否や、雷鳴とともに法隆寺から火柱が立った。
 天智は、蚊帳に入って雷鳴が遠ざかるのを待った。
しばらくして、あっという間に、寺は、半焼したと、使者が天智に報告に来た。
 その後、大雨が降り、地震が起こりよからぬことが続いた。
 天智は、大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄を左大臣、そして右大臣を中臣金連と人臣の一新を図った。
 
六七一年、近江令を施行したのち、天智は病に倒れた。
 床に臥せった天智は、近習の者に大海人を呼んで来るようにと命じた。
「兄上様、いかがいたしましたか」と息を切らせてやってきた大海人がいった。
「私はもう長くはない。後事をお前に託したい。頼む」
 大海人は、天智の真意を読み取り、天智のさらに近づいていった。
「私も病です。大友皇子に託してください。私は、お上の平癒を祈念するために、出家いたします」
(ここは、大友に譲らないと、何をされるかわからない。もうしばらく待てば、奴にとって代わることができる)
「そうか、分かった。大友を頼んだ」
 と言って、目を閉じた。

 天智は、弟の大海人が、息子の大友より権謀術策に優れていることが心配の種であった。
 大友皇子は、皇位継承して、弘文天皇となったのを天智は見届けたが、
十二月三日、翌年の壬申の乱によって、大海人が弘文を破って勝利し、天武天皇となることを知らずに、天智天皇は四十六歳の一生を閉じたのであった。

苦闘 中大兄皇子 前編

2019-10-14 18:00:27 | 時代小説
第一話。推古の苦悩
 今から千五百年ほど前、日本の礎を築いた人々の物語である。

推古三十年(六百二十二年)、二月五日夜半、斑鳩の里にて、聖徳太子は、四十九年の短い人生の幕を閉じた。
太子の晩年、推古天皇のもと、天皇家中心の国家を目指していることに、用明・崇峻・推古の三代にわたり大臣職を務めていた蘇我馬子は、危機感を持った。馬子との意見の対立が、事あるたびに起きた。
巷では、崇峻天皇の暗殺のように、太子も暗殺されるのではないかとの噂が飛び交った。
身の危険を感じた太子は、斑鳩の里に住居を移し、政務には一切関わらず、ひたすら仏教に帰依していた。
そして、太子の死後から一年も過ぎずに、女帝推古の苦悩は、始まった。

推古三十一年、朝鮮半島では新羅が任那を攻めていた。小墾田宮(こはりだぐう)の大殿の広間では、大和に応援を求めてきた任那の使者に接見した推古は、大臣の蘇我馬子と貴族たちを集めて、どう対処するか会議を開いた。
「皆の者、我は応援を出す時ではないと思うがいかがであろうか」推古が自分の意見を述べた。
席が、ざわめいた。
すぐに応援を出すべきだと主張する馬子が、意見を述べた。
それに対して、敵地に行って負けたらこの国までやられてしまうと、反対する者たち、意見が真っ二つに分かれた。
結論が出ずに、五日が過ぎたその朝、推古は、付き人に起こされた。

「お上、大変でござる。朝堂から、境部臣雄摩侶(さかいのべのおみおまろ)と中臣連国(なかとみむらじくに)が大将になって、新羅に向かったと報告してきました」
「なに、すぐに、使者を鶴の間に通せ」

 使者が、板の間に頭を擦り付けるように、平伏した。
「境部臣と中臣が、新羅に向かったとな、兵をどのくらい連れていったのです」
「はい、数万と見られます」
 使者は、その姿勢で言った。
「分かった、下がれ」
「すぐに、大臣を呼んできなさい」
 推古が、付き人に言った。
 
蘇我馬子は、大殿の客の間で待たされた。
しばらくして、推古が現れた。
「お上、何用でございますか」
「大臣、あなたは私の叔父にあたるが、私の命に従わずに勝手なことをしてはなりません」
「お上、なんと申された」
「おとぼけにならないで下さい。勝手に、新羅に軍をおくったではありませんか」
「お上、お言葉ではございますが・・」
(任那が我が国へ援軍を早く出してほしいと言っているのに、毎日会議ばかりで時をつぶしているだけではないか)心の中で思ったが、
「出兵は、境部臣雄摩侶と中臣連国の二人の大将が勝手にやったのです。誓って、私は関係しておりません」
「では明日の朝礼後、大殿の広間に臣たちを招集してください」
「承知つかまつりました」

父親の蘇我稲目とその子の馬子が、天皇家に食い込むために、自分の子弟を天皇家に嫁がせた。その結果、馬子は、我が物顔で、政務を進めるようになったことを推古は、歯がゆく思っていた。

 大殿で、会議が開かれた。
「お上、新羅に送った使者から連絡が来ました」
「田中臣、報告を」
「先ほど戻ってきた使者によりますと、新羅は戦を避けて、日本に降伏し、貢物の準備に取り掛かっているのを見て、使者が帰ろうと港で船に乗ろうとした時、日本の軍船が目の前に現れ、新羅を目指して押し寄せて来たとのことです。
新羅は、この事態に怒り、この交渉を破棄すると伝えてきました」
「田中臣、ほかに申すことはないか」
 田中臣は、低頭した。
だれが、新羅へ軍をおくったのかを究明すべきだとの意見が多く出てきた。
(ちと、早まりすぎたようだ。どいつもこいつも、俺の仕業だと思っていやがる)馬子は、心穏やかではなかったが、
「お上、この度の軍事は、いろいろ調べましたところ、新羅の陰謀でございます。まんまと我々は、その陰謀に引っ掛かってしまったのです。最初に騙された境部臣と中臣連国が悪いことに、変わりは有りませんが、お上に良かれと出兵したとのこと、二人に御慈悲を」
 馬子が低頭した。

 それから、会議が続いたが、馬子の権勢に押され、馬子に同意するものが多くなった。
(大臣め、覚えていなさい)
「大臣、二人の処分を任せます」
と言って、推古は、席を立った。

(馬子めが。太子が生きていたら)と思はない日はなかった。
 推古の心と裏腹に、飛鳥の空は、春の青さが眩しかった。

 簡単に食事をした後に、推古は近習に命じた。
「明日、法隆寺に釈迦三尊を見に行きますので、よろしく頼みます」
「お上、寺に準備させるよう、使者をすぐ送ります」
 
 昨日と同様に飛鳥は、青空が広がっていた。
鳳輦(ほうれん:屋根の上に鳳凰を載せた天皇のみが乗れる輿)に推古は、揺られながら、叔父馬子とのこれからの対応をどうすべきか考えていた。
鳳輦が、止まって道におろされた。
「お上、お着きになりました」
 従者によって上げられた御簾から、推古は出た。
 朱と青丹に塗られた南門から中門まで、黄衣をまとった僧たちが両脇に低頭していた。
 住職が、推古の前でひざまづいた。
「お上、ようこそいらっしゃいました。金堂にご案内いたします」
 回廊の連子から、日差しが幻想的に土間を照らしていた。それを通り過ぎると、左手には、塔が青空を突くかのようにそびえ立っていた。
 推古たちは金色に輝く金堂の前に立った。
「お上、この男が、像をつくった鞍作止利と申す仏師でございます」
 男は、地に頭をこすりつけていた。
「面を上げなさい。案内せよ」
 推古は、珍しく声をかけた。

 推古は、金堂に入った。
 何本ものろうそくの炎が、火炎と忍冬唐草の文様を施した舟形光背を背にした面長の顔つき、人の心を抱擁するような優しい目、そして口元に笑みを浮かべている釈迦如来、その両脇を右に薬上菩薩、左の薬王菩薩を浮かび上がらせていた。。
(太子、成仏してください)
 推古は、手を合わせながら、人に悟られまいと、涙を拭きとった。
 
 金堂から出て、推古は近習に言った。
「仏師に褒美を与えよ」
 法隆寺に夕陽が照らし始めた頃、推古は鳳輦に乗って、寺を後にした。

 月日が過ぎ、夏になった。
 推古が宮で政務をとっていると、
「お上、大臣がお会いしたいと言って来ていますが、いかがいたしましょうか」
「通しなさい」
 馬子が部屋に入って来て低頭した。
「お上、お健やかで何よりです」
「大臣、何か用ですか」
「実は、お願いに上がったのです」
 推古は、嫌な予感がした。
「葛城県(かつらぎあがた)ですが、あそこは私が昔住んでいたところですので、未来永劫、葛城県を私に賜りたいのです」
「大臣。私は蘇我の出身で、大臣は私の叔父、大臣の言うことはほとんど聞いてきましたが、このことは承知できません。これを承知したら、後世の天皇から女の天皇だからこのような大事なことを勝手に決めたと誹謗されてしまいます。大臣も、誹りを受けることになるでしょう。そこは、六御県の一つで天皇家代々の直轄地です。絶対に承知できません」
 馬子は、平身低頭し、むっとした顔をして退去した。
 *
 推古は、欽明天皇の皇女(むすめ)で、母は、蘇我稲目の娘で、馬子は、稲目の息子で、推古の母と兄弟であった。
今から三十二年前の十一月、馬子の命を受けた男により、崇峻天皇が暗殺され、その後継として、推古が飛鳥の豊浦で女帝として即位した。
崇峻も、稲目の娘と欽明天皇の間に生まれた子で、蘇我の血を継いでいたが、馬子の横暴に対して敵対したため、暗殺された。

 推古は、近習に大殿と大門の警備を強化することと馬子の動静を探るよう命じた。

日の出とともに、宮門が開かれた。馬子や官人は、門の警固のための舎人の多さに驚いた。
 朝堂に挟まれた庭で、馬子は朝礼を行ってから、東側の朝堂にある大臣部屋に入ったところ、一人の文官が入って来て挨拶を述べた後に、
「大臣、昨日ですが、僧が斧を持って祖父を殴ったという事件が起こったとの知らせが
ありました」
「なに、僧が祖父を殴っただと。出家したものは、ひたすら仏道に帰依して、戒法を守るのが当たり前なのに、仏門を穢しおって。お上に報告してくる」
 馬子は、推古に報告した。
「仏に仕える身で、悪逆な行為を犯すなんて、とんでもないことです。太子が、苦労して取りいれた仏教を。それが事実かどうか、大臣、諸寺の僧尼に尋問せよ。事実であれば、連帯責任を取ってもらいます」
「お上、承知しました」
 馬子は、朝堂に戻って、文官たちに、調査を命じた。

観勒が、庵でこのことを知った。
(これは大変なことになるぞ、大臣に会って何とか連帯責任の罪を回避していただければな)
観勒は、推古十年(六百二年)に渡来し、天文、暦本、陰陽道を伝えた百済の僧で、推古の命で、これらのことを数人の書生に教授した。
数日後、観勒が‘僧が斧で殴った件’で、馬子に会いに朝堂を訪れた。
 客間に通された観勒は、
「大臣、お忙しいところ、愚僧にお会いしていただきありがとうございます」
「観勒、述べよ」
馬子に、上表文を読み上げた。
「仏法は、西国から漢に渡って、三百年が経ち、そして百済国に来て百年しかたっておりません。我が国の王は日本の天皇が賢哲であられると聞き、仏像と経典を献上いたしました。それから何年もたっておりません。それ故、日本の僧尼が未だ法に習熟していないことにより、軽率にその僧が悪辣な罪を犯してしまったのです。どうか、悪逆者を除いて他の僧尼には皆罪を問わないようお願いします。このようにすることは、大きな功徳となりましょう」
「あい、分かった。お上に伝えよう」
 観勒は、馬子が退去するまで、畳に頭を擦り付けていた。

 それから十日後、推古は、大殿の広間に大臣以下を招集し、皆に向かって言った。
「僧でさえ法を犯すのならば、一体どのようにして俗人を教化すれば良いのか。今後は、まず僧尼を教化する為に、僧侶を統轄する僧正と僧都を任命し、取り仕切ってもらう。よいと思う者を推薦せよ」
 官吏からいろいろ名が出たが、馬子が推薦した観勒が僧正、鞍部徳積(くらくりのとくしゃく)が僧都と決まった。
「阿曇連(あずみのむらじ)、このこと、二人に伝えよ」
 推古は、法頭の阿曇連に言って退席した。

それから半年過ぎて、飛鳥には秋風が吹き始めていた。
そんなある日、阿曇連が推古、大臣、臣たちに大殿に来て、報告した。
「お上、寺四六か所、僧八一六人、尼五六九人合わせて、一三八五人を調べました。この書状には、寺の由来、僧尼の入門の動機そして得度日をしたためています」
 阿曇連が、推古に平伏して、書状を渡した。
 馬子は今日も、体調がすぐれず、宮には参内していなかった。
「蝦夷、もう俺はそんなに長くはない。これからお前の時代だ。何とか蘇我氏の権力をしかと握れ。分かったな」
「何を、父上。気をしっかりお持ちください」

 推古三十四年(六二六年)五月二十日、飛鳥川のほとりの桃源に構えた嶋の家で大臣馬子は、息を引き取った。

馬子の葬儀は、盛大にとり進められ桃源の墓に葬られた。
 推古は、今更ながら、馬子の軍略や人の議論を見極める才能を惜しみつつ、それとは別に安堵する自分に気が付いた。
 一方、父田村皇子の妻、宝皇女が、将来大化の改新の中心となる中大兄を出産した。
 この年は、夏に雪が降り、その後は長雨が続き、国中が大飢饉となった。
 老人は、草の根を食べて、道端で生き倒れ、幼児は、乳を含んだまま、母子とともに死んでいった。また、強盗、窃盗も頻繁に起こった。
 推古は、神に天下泰平を毎日祈念していたが、なかなか好転せず、とうとう病に臥せってしまった。
 推古三十六年(六二八)三月六日、昼、陽が隠れた。
床に臥せった推古は、田村皇子を呼ぶよう近習の者に命じた。
「お上、御具合はいかがでしょうか」
 推古は、田村を近くに来いと手招きをした。
「これからいうことは肝に銘じて守りなさい。天皇になって、大業の基礎を治め整え、国政を統御して人民を養うことは、安易なことではなく、重大なことです。それ故、お前は慎重に考え、軽々しいことを言ってはなりません。いいですね」
 推古が下がってよいと手を振った。
 そして次の日、推古は山背大兄を呼んで言った。
「お前は、未熟者です。もし、心に望むことがあっても、あれこれ言ってはなりません。必ず官吏たちの言葉を待って、それに従いなさい」
 推古は、後継をどちらにするのか、明言しなかったため、二人に期待を持たせてしまった。

第二話。継承争い
数日後、推古は官吏たちを呼んで、
「近年、五穀が実らず人民が飢えています。私のために陵を造って厚く葬ることは止めよ。竹田皇子の陵に葬りなさい。」
と命じ、瞼を永遠に閉じた。

 推古の葬儀を終えるや否や、推古の後の皇位継承で、もめはじめた。
 
聖徳太子の嫡子の山背大兄が、
「我は、推古天皇から後継と指名されているのだ。皇位継承するのは、我である。」
 と、皆にしきりに主張した。
それに対抗して、大臣の蘇我蝦夷は、古人王子に目をつけ、その父田村皇子を擁立しようと画策に走った。
春の風が飛鳥に吹き始めたある日、蝦夷は官吏たちを屋敷に呼び、饗応した。
「叔父殿、皇位継承は、田村皇子でいかがかな」
「何を仰せか、山背大兄王子が妥当であります」
 蝦夷の叔父の摩理勢が、むきになって行った。
「倉麻呂は、どうじゃな。我が妹の法提郎媛(ほてのいちつのひめ)が嫁いでいる田村皇子が良いとは思わんか。」
「どちらが、よろしいかな」
従兄弟の倉麻呂は、中立の立場を守り続けるつもりであった。 
息子の入鹿は、叔父や従兄弟も抑え込むことができない蝦夷を見て、苛立った。

斑鳩の里には、桜が咲き始めていた。
摩理勢からの書状を山背大兄は読んで、三国王と桜井臣の二人を呼び、対応を相談した。
「皇子、まずは、大臣の真意を直接に確かめたらいかがでしょうか。」
 三国王の助言を聞き、山背はそれを文にしたため、二人を蝦夷のもとに行かせた。

 朝堂の客間で、しばらく、三国王たちは待たされた。
 蝦夷が、付き人を一人伴って部屋に入って来て、床に座った。
「ご苦労様です、それで何用でしょうか。」
「大臣、皇子からこれを預かってまいりました。」
 三国王が差し出した文を、蝦夷は一読して、
「しばらくここでお待ちください。」
 と言って、蝦夷は部屋を出て行った。
(専横の誹りを免れるために、ここは、官吏に文の内容を聞かせておこう。)
 そして、大臣の部屋に戻ると近習の者に入鹿と官吏の人間を大広間に集めよと命じた。

 近習の者が、広間に官吏たちが集まったと、蝦夷に伝えに戻って来たので、すぐに広間に入った。
そして、蝦夷は、山背大兄の文を読み上げ、
「ここに集まった官吏の大夫は、田村皇子が、後継の筆頭であることには意義はないな。」
 と、言って官吏たちの顔を一人一人、見まわした。
「紀臣と大伴連、供に斑鳩宮に参上し山背大兄皇子に謹んで次のように申しあげよ。
『臣下の一人である蘇我蝦夷が、軽々しく、天皇の後継を定めたりしましょうか。ただ、田村皇子が後継であるとの天皇の遺詔を官吏たちに告げただけで、これに対しまして誰も異議は申し出ておりません。仮に、私自身の考えがあるとしても、人伝えに畏れ多く申し上げることはできません。お目にかかったうえで、私の口から直接に申し述べましょう。』と、分かったな。決して余計なことを言うではないぞ。」

三国王、桜井臣、紀臣と大伴連たちが、斑鳩の里に入った時には、もう既に陽が落ちていた。桜井臣が、松明に火を灯し、宮に先導した。
斑鳩の宮の客間に通され、紀臣は山背大兄に蝦夷の言葉を伝えた。
 山背大兄は、訝しげに言った。
「天皇が後継者は、田村皇子と言ったと聞いた者は誰かいるのか。」
 紀臣と大伴連の二人は、顔を見合わせた。
「私たちは、存じません。」紀臣は、言った。
 さらに、山背大兄は詰問し続けたが、二人は知らぬ、存ぜぬを通した。
「紀臣、正しく天皇の遺詔を知りたいと山背が言っていたと大臣に伝えて欲しい。」と言い、そして、桜井臣に二人をもてなすよう命じ、席を立った。
 女が、盆にかぶと生姜の酢の物、胡瓜の塩漬け、心太(寒天)、蘇(チーズのようなもの)を乗せて三人の前に置いた。そして、桜井臣や女たちの勧めで、二人は濁り酒を何杯も飲んだ。
 二人は、桜井臣に、大臣の本心を聞こうと探りを何度となく入れられたが、知らないと、何度も答えた。
 桜井臣は、不機嫌な顔をしながら酒を煽って言った。
「山背大兄様は、聖徳太子の御子であります。お世継ぎは皇子様しかおりませぬ。」
「桜井殿、そろそろ明日も早いので、この辺で失礼させていただきたいのですが。」
 紀臣は、頭を下げて言った。
 二人は、女に客間に案内された。
「紀臣様、寝て下さい。私は眠らずに見張っています。」
 大伴連が、剣を抱いて壁にもたれた。

  翌日、陽が昇るとすぐに、紀臣と大伴連は、山背大兄に挨拶を述べ、斑鳩の宮を後にした。
「大伴殿、山背大兄王子様は、ちょっとやそっとでは、諦めそうもないな。大臣は、難儀をするぞ。」
 紀臣は、困った顔をして言った。
 二人は昼ごろ、宮に着き、そして朝堂の大臣の部屋で蝦夷に山背大兄との話を伝えた。 (皇子め、太子の霊に憑りつかれおって。)蝦夷は、危機感を持った。

その翌日、なんとか、田村皇子を皇位継承の同意を得るために、蝦夷は、大夫や官吏たちを嶋の家で饗応した。
「境部臣(弟の摩理勢)が、来ていないではないか」
 蝦夷が、入鹿に怒鳴るように言った。
「父上、叔父上のことなど気にせぬことです」
「何を言うか、あいつを何とか承知させなくては。」
 入鹿は、祖父馬子が築いた蘇我家の権威を気の弱い蝦夷が、崩していくのが悔しかった。
 それでも、蝦夷の奮闘により、阿部臣と中臣連は、田村皇子の継承に翻った。
 まだ宴は続いていたが、蝦夷は、入鹿のところに行って、
「摩理勢に会って、再度、次期天皇は誰が良いか聞いて参れ。阿部臣を伴に連れて行け」
 入鹿は、渋々と阿部臣を連れて摩理勢屋敷の屋敷に行った。
「叔父上、如何でしょうか」
 入鹿は、蝦夷の言葉を伝え、返事を待った。
「この前、大臣自身が問われた時、私はすでに申し上げております。今またどうして、このような大事なことを人伝えにお返事しなくてはならないのか。大臣に帰ってそうお伝えせよ」怒りを露わにして、部屋を出て行った。
 入鹿は、ここまで蝦夷の権威が落ちているに愕然とし、
(何とか、名門蘇我宗家を立て直せねば)と心に誓った。

  桃源(現在の石舞台古墳の場所)に、馬子の墓を造るために蘇我一族が皆集まって、それぞれ仮の住まいに寝泊まりしていた。
摩理勢もそこで皆と一緒に墓を造っていたが、毎日、毎日蝦夷の執拗な要請うんざりした。
「大臣は、一体何を考えているんだ。もうこんなところにはおれん」
と怒って、蘆を打ち壊し、斑鳩にいる山背大兄の異母弟の泊瀬王(はつせのみこ)の宮に移り住んでしまった。
 それを阿部臣が、蝦夷に報告した。
「勝手なことをしおって、どこまでも逆らう気か」
 怒り心頭、顔を真っ赤にして近習の者を大声で呼びつけ、書状をしたためさせた。
「阿部臣、この文を山背大兄皇子に届けろ。いいか、言うことを聞かないとどうなるか、脅して来い」
 さすがの阿部臣も、皇子に対する蝦夷の態度に嫌悪感を持った。

 山背大兄は、阿部臣から渡された蝦夷の文を読んだ。
「何、摩理勢を渡せと」
 しばらく、山背大兄は黙って文を見続けてから、
「阿部臣、摩理勢はしばらくの間、静養のために滞在しているだけで、どうして、大臣に背いたりするであろうか。どうか、咎めないでいただくよう、大臣に伝えよ」
「皇子様、それでよろしいですか。皇子様までを巻き添えにするのは、なんとも忍びないのです。御熟考下さい」
 阿部臣は、板の間に頭を擦り付けた。
「五日間待ってくれ」
「承知いたしました。大臣に伝えます」
 阿部臣は、ほっとして斑鳩を後にした。山々の緑の深さに気づくも、道を急いだ。

山背大兄は、摩理勢を屋敷に呼んだ。
「摩理勢、大臣に背くことは絶対に許さない。早く、大臣に詫びを入れなさい」
「皇子、そのような弱気でいらっしゃると、とてもお上にはなれませんぞ。しっかりしてください」
「お前は、前皇の御思を忘れずによくやってくれて有り難く思っている。しかし、お前一人のことで、国が乱れようとしている。私はそれを許すわけにはいかない。心を改めよ」
 摩理勢は、涙を流しながら低頭し、宮を去った。

 それから十日後、泊瀬王が、夕食の後急に苦しみ出した。そして、摩理勢が、王の部屋に入った時には、もう既に息を引き取っていた。突然の死であった。
「泊瀬王様・・・。蝦夷の仕業か」
 摩理勢は、蝦夷たちを迎え撃つために、陣を設営する準備に取り掛かった。

山背大兄の使者が、蝦夷に泊瀬王の死を知らせた。
 近習に呼びにやらせた巨勢徳陀臣(こせとこだのおみ)が、大臣の部屋にやって来た。
 巨勢徳陀は、蝦夷の前に座って、低頭した。
「お前を摩理勢討伐の大将軍に任ずる。準備にかかれ」
 巨勢徳陀臣は、蝦夷の命により、蘇我氏に代々仕えてきた漢直(あやのあたい:帰化系氏族)を集め、甲冑を身に着けさせ剣を持たせ斑鳩に向け、出発した。

 摩理勢の軍勢は五百、それに対して蝦夷の送った二千の大軍。迎え討った摩理勢軍はあっけなく、敗戦に追い込まれた。
摩理勢は畝傍山に逃げようとした。
「摩理勢が、いたぞ」巨勢徳陀臣の率いる軍の兵士が大声を上げた。
あっという間に、摩理勢は敵に囲まれた。
「やっちまえ」数人が、摩理勢に飛びかかり、撲殺した。
 摩理勢の長子、毛津(けつ)が後ろを見た時、摩理勢の首がはねられた。
(父上・・・。)山頂に辿り着いた時は、毛津一人であった。

「父上、母上、無念でございます」
 剣で喉を突き刺した。
 
蝦夷と摩理勢の蘇我一族の勢力争いは、あっけなく蝦夷に軍配が上がった。

第三話。蘇我氏の台頭
舒明元年(六二九)正月四日、蝦夷は田村皇子に天皇の御印を献上したが、
「国家に仕えることは、重大な仕事なので私のような拙い人間にその任に当たれようか」
 と言って、辞去した。
 蝦夷は伏して、
「皇子は、先の天皇の愛を一身に受け、神も庶民も心を寄せています。是非、天皇を継承され、民に君臨すべきです」と、切に願ったところ、
「あい、分かった」と、田村皇子は承諾し、その日に天皇の位についた。
舒明天皇の誕生であった。
舒明は、蝦夷に飛鳥岡に宮を作るよう命じた。

舒明二年(六三十)。
中大兄は、四歳になった。
「利発そうな子じゃな、岡本宮に移っても大丈夫だろう。学問をするには、あちらのがよいぞ」
 舒明は、宝に言った。
「そうですね。お上の言われる通りかもしれません」
 宝は、舒明の器に酒を注ぎながら答えた。

中大兄は、舒明に連れられて、宝と弟の大海人そして、妹の間人と、飛鳥寺の正面に造られた岡本宮に遷った。
 
三月、高句麗と百済の使者が、舒明の即位の祝いに飛鳥にやって来た。
「お上、是非、日本の使者を唐に送って下され。沢山の貢物を渡して、唐の太宗のご機嫌を取っておいた方が、良いかと存じます。また、唐が我らを攻めて来たときは、是非援軍を出していただきたい」
(太宗の出方を探っておかなければなるまい、大国の唐が南下して来たら、朝鮮半島は一年ももつまい。)


 飛鳥に秋風が吹き始めた。
 舒明は、大極殿に犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と薬師恵日(すしのえにち)を呼んだ。
「犬上御田鍬、薬師恵日。唐に行って来てくれ。御田鍬、お前を大使で、薬師恵日は、副使を命ずる。よいか、太宗の動静を探って、逐次、知らせてくれ。唐は、高句麗を討ち、新羅、百済を攻め、我が国に攻め寄せてくるやもしれん。くれぐれも、悟られないように。詳細は、大臣と相談するがよい。」
 
それから一か月後、御田鍬たちは、難波港にいた。
 御田鍬は感慨深かった。
(これが、俺の最後の渡航だ。)
長さ二十間、幅五間、帆柱2本の平底箱型の派手に朱に塗られた船二艘が、真っ青な空と海にくっきりと浮かび上がって、穏やかな波に揺れていた。
御田鍬は、知乗船事(ちじょうせんじ、船団管理者)に聞いた。
「総勢何名か」
「はい、二百名ほどになります」と言って、船長、船大工、操舵手、書記官、通訳,神主、医師、陰陽師,天文観測、占い師、 留学生、学問僧、楽師、ガラス工人、鍛冶鍛金工、鋳物師、大工らであると答えた。
(と言って、内訳が、船師(船長)、船匠(船大工)、柁師(かじし、操舵長)、挟抄(かじとり、操舵手)、水手長(かこおさ)、史生(ししょう、書記官)、雑使(ぞうし)、傔人(けんじん、使節の従者)、訳語(やくご、通訳)、新羅・奄美等訳語、主神(神主)、医師、陰陽師(易占、天文観測)、卜部(うらべ、占い師)、射手(いて)、音声長(おんじょうちょう、楽長)、 留学生(るがくしょう、長期留学生)、学問僧(長期留学僧)、請益生(しょうやくしょう、短期留学生)、還学僧(げんがくそう、短期留学僧)、音声生(おんじょうしょう、楽師)、玉生(ぎょくしょう、ガラス工人)、鍛生(たんしょう、鍛冶鍛金工)、鋳生(ちゅうしょう、鋳物師)、細工生(さいくしょう、木工工人)であると説明した。)
 次第に見送りの人々たちの数が増えてきた。
「大使、出航の準備が整いました」
 薬師恵日が来て、御田鍬に伝えた。
「分かった」
 御田鍬たちが乗った船は、出港した。
筑紫~壱岐~対馬~朝鮮半島西岸北上~渤海湾横断し、山東半島上陸まで、危険を伴う長旅に。


 御田鍬たちが唐に向かって出航してから一年数か月が過ぎた、舒明四年(六三二)。
 中大兄(改新までは葛城皇子と呼ばれていたようだが、ここではすべてこの名で呼ぶことにする)は、六歳になった。
 父の舒明は、今までの天皇と違い、神教よりも仏教に心酔していた。
舒明の勧めで、中大兄と弟の大海人は飛鳥寺で学問を学ぶことになった。

初夏の朝、従者を伴って、二人は、飛鳥寺に行った。
「兄上、大きなお寺ですね」
「この寺は、大臣の父上、蘇我馬子殿が建立を発願された寺だ」
「皇子様、お待ちしておりました」
 僧たちが、門前で二人を出迎えた。
 座主と言った僧が、二人の前に出て説明しながら、歩き始めた。
「この寺は、五八八年に百済から仏舎利が献じられたことにより,蘇我馬子様が寺院建立を発願し,五九六年に創建された寺院です。今も、蝦夷様や入鹿様が時々、来られます。ご覧ください、塔を中心に東・西・北の三方に金堂を配し,その外側に回廊をめぐらした伽藍で、東西二町、南北三町の広さの境内です」
 中大兄は、蘇我一族の権勢に改めて驚いた。
「北の金堂には、推古天皇が止利仏師に造らせた釈迦如来像が安置されています。御案内いたしましょう」
 青空に飛び立つかのような五重塔の傍を通り抜けると、高いだけでなく、堂々とした建物の前に来た。北の金堂であった。
「さあ、中へどうぞ」
 座主が、二人を促した。
 金堂に入ると、涼しさとともに荘厳さが、二人を包み込んだ。
 丈六(約五メートル)の金銅で造られた釈迦如来像が、ろうそくの炎に輝きながら浮かび上がっていた。
(なんと大きなこと)中大兄と大海人は、肝をつぶした。
 仏は、優しく遠くを見やって眼、毅然とした心を口元に表し、物静かに座していた。
 二人は、仏の前で合掌し、それぞれの思いを祈念した。
 

 中大兄たちは、飛鳥寺で基本の文字、算術を一か月で学び、そして、初歩的な仏典を二か月目で習得した。

そして、今日から四書五経を学びに、寺に行った。
 学問所で、二人を座主が迎えた。
「今日は、四書五経とは何かをまずわたくしの方から説明します。四書とは、『孔子の論語』、『覇道政治を否定し、王道政治を提唱した孟子の言行録』、『大学という儒教の入門的な読みやすい書物』、『孔子の孫の子思が著述した深遠な世界の摂理を説いた中庸』を四書と言います。次に五経ですが、『歴史書であります書経』、『孔子が編纂したと伝えられる中国最古の詩集である詩経』、『陰陽説を汲んだ周王朝期の占いに関する書物である易経』、『礼について形式だけでなく、理論化した礼記』、『孔子が作成編纂したと伝えられる、中国古代・魯国の歴史書、春秋』の五つになります。量が多いのでしっかりと勉強してください」
 
中大兄と大海人は、四書五経を学ぶのが楽しみになった。
 
座主が、部屋から出て行ってからしばらくして、四書の専門の僧が、入ってきて講義が始まった。

昨年発った御田鍬たちが、唐から帰ってきて、岡本宮に舒明を訪ねた。
「お上、ただ今戻りました」
 御田鍬と薬師恵は、平伏した。
「ご苦労であった。面を上げえ。唐はどうであったか」
 御田鍬が答えた。
「お上、太宗は、朝鮮三国を攻める準備をしています」
「我が国を攻めてくるのは、二年後くらいか。大臣に九州の防備を固めるよう命じる」
「薬師恵、どうであったか」
 舒明は、薬師恵には唐の文化や技術を問うた。
「唐では、陰陽道(おんみょうどう)が盛んになっています。僧や仏師を連れてまいりましたので、いろいろお聞きなさるとよいかと思います」
「我は陰陽道についてよく知らんのだが」
「陰陽道は、古代中国で生まれた自然哲学思想で、陰陽五行説を起源としています。陰陽五行説とは、木、火、土、金、水、の五行にそれぞれ陰陽二つずつ配します。甲、乙、丙、丁、戊、己、庚、辛、壬、癸、は訓読みにすると、きのえ、きのと、ひのえ、ひのと、つちのえ、つちのと、かのえ、かのと、みずのえ、みずのと、となり、五行が明解になります。陰陽は語尾の‘え’が陽、‘と’が陰です。天文、暦数、時刻、易の学問、占術とあわさって、自然界の瑞祥・災厄を判断し、人間界の吉凶を占う技術として受け入れられております。このような技術は、わが国では漢文の読み書きに通じた渡来人の僧侶によって担われております」
「よく分かった。御田鍬、薬師恵、連れてきた者たちの面倒を見てやってくれ。僧については、寺を建立するのでそれまで頼む」
 薬師恵は、低頭した。
「下がってよい」


 百済寺が建立され、薬師恵が連れてきた僧たちは、寺に入った。
そして、中大兄と大海人は、飛鳥寺から百済寺に変え、二人は、唐の最新の陰陽道を学んだ。
 中大兄たち二人の理解の早さには、僧たちも驚いた。
 舒明も喜んだ。

 中大兄と大海人は、暑い夏も毎日、朝は百済寺で講義を受け、昼は、屋敷で武術を学んだ。
 二人の成長は早かった。
十月末日朝、舒明は、中大兄と大伴連馬養(おおとものむらじうまがい)を大極殿に呼んだ。
「明日、唐からの使者 高表仁が朕(わたし)に唐の宰相太宗が璽書を渡すために難波津に来るそうだ。そこで、中大兄に接待知ることを命ずる。そして、大伴連、お前たちは、中大兄の補佐をするよう頼む」
 二人は、大極殿を辞去し準備にかかり、そして昼近くに、難波津に向かった。
 
 夕暮れ時に、難波津鴻臚館に到着した。
「殿下、ここに今日は泊まります。お食事をして、湯に入りごゆっくりしてください。明日は、くれぐれも、よろしくお願いします」
 大伴連馬養は、中大兄に言った。
 
 中大兄は、すぐに床に就いたが、あまりの緊張のため、一睡もできずに、朝を迎えた。

「おはようございます」
 大伴連馬養が、朝の挨拶に来た。
「皇子様、よく寝れましたか」
「よく寝たぞ」
 馬養は、中大兄の顔を見て、寝不足の表情を読み取っていた。
 朝飯を取って、中大兄たちは、交渉の策を練った。
 そして、大伴連馬養たちは、高表仁を出迎えに館を出て行った。

 高表仁たちは、大伴連馬養に案内され、鴻臚館に到着した。
 迎賓の間で、中大兄が迎えた。
 簡単な挨拶を終え、宮での儀式について、打ち合わせが始まった。
 高表仁がすぐに、提案した。
「日本(倭)の天皇は、太宗の臣なので九三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)を以って、太宗天王からの国書を受けよ」
中大兄は、毅然とした態度で言った。
「日本の天皇は、太宗の臣ではない。唐で行われる太宗の前で、臣下が行う儀式は行わない。日本の儀式で、お前が、天皇の前で膝間づき国書を渡せ」
「話にならん。大伴連馬養殿は、如何」
「殿下と同じです」
「覚悟しておけ」
 椅子を蹴って、高表仁は去った。

 この話は、岡本宮にいる舒明と大臣たちにすぐ伝わった。
 皆このことを聞いて、震撼した。
「なんてことをしたのだ」
 蝦夷は、怒り狂った。
「大臣、お上がお呼びです。」
 近習が、来て言った。
「分かった」

大極殿に入ると、蝦夷は客間に通された。
「大臣、高表仁が怒って帰って行ったことは、知っているだろう」
「はい、お上。存じております」
「唐が、これ機会に我が国を攻めてくるやもしれん。それに対抗するために、九州を防備するよう策を立て、実行せよ」
「承知いたしました」
 蝦夷は、蝦夷は怒りを抑えて、大極殿を後にした。


 舒明は、大伴連馬養から中大兄の高表仁に対した行動を聞き、驚いた。
(息子には、もっともっと学問をさせ、我の後継者として育てよう)

 閨で、舒明は妻の宝に言った。
「この間唐から帰ってきた霊雲に学問を、息子たちに教えさせようと思うが、どうであろう。霊雲は、吉蔵に三論を学んだそうだ。今、元興寺に入っている」
「そうですね。飛鳥寺の学問僧は、蝦夷にくみしていますので、そろそろ代わった方がよいと思います。また、最近の唐の知識を学ばせることは、きっと役に立つでしょう」
「元興寺も蘇我の息がかかっているだろうから、霊雲に屋敷を与え、そこに通わせよう」
 中大兄は喜んで、毎日通った。

 飛鳥は、夏になった。
百済の使者が、やって来た。
舒明は、大極殿の接待の間で歓待した。
 舒明から唐のことを聞かれたので、使者の一人が、答えた。
「お上、唐が日本を攻めると決めたようです」
「太宗が攻めてくるか」
「この間、中大兄皇子様が、高表仁に対して軽んじたことに怒り心頭したようです」
「いつ頃になりそうか」
「太宗は、その前に、高句麗、新羅そして我が百済を手に入れなければと言っているようです」

百済の使者が帰ったのちに、舒明は大極殿の広間に官吏たちを集め、唐が朝鮮三国を攻め、そして日本を攻めるであろうとのこと話した。
「お前たちの意見を述べよ」
「お上、太宗に貢物を献上し、今回の件について、詫びをいれるのが常套かと思われます」
 田中臣が、言った。
「田中臣、何を仰る。我が国が唐の属国になってもよいというのか。お上、ここは、百済に援軍を送って、唐の軍を朝鮮半島から一掃いたすことが、肝要かと思います。今回の件、太宗が我が国の出方を試したのです。ここまで来たら、徹底抗戦しかありません」
 蝦夷が反論した。
「大臣、勝算は、あるのか」
「朝鮮三国と組むことができれば、勝てます。万が一のことを考え、九州に砦を作り、兵士を送り込みましょう」
  蝦夷が答えた。
「お上、太宗に詫びを入れるなんてとんでもありません、中大兄皇子を人質に出せと言い出すかもしれません。任那を復興して、唐の攻撃の楯にしてはいかがでしょうか」
 大伴連馬養が答えた。
「お上、早く兵を集める御命じ下さい」
 蝦夷が、逸った。

「分かった、大臣。思う存分集め、九州に送り込め。また、百済にいつでも援軍を出せるよう、多くの船を準備いたせ」


 舒明八年(六三六)、中大兄は、九歳になった。
 飛鳥に蝉がけたたましく鳴いている朝、百済の使者が、舒明を訪ねて来て、
「お上、太宗は、高句麗を攻めるも攻略できず、撤退しました」と伝えた。
 舒明たちは、安堵し、この時より防備を怠るようになった。
 また、宮中では、宮人たちが、地方の豪族がその娘を天皇家に献上した采女(うねめ)たちを奸していた。
このような荒んだ状況に我慢できず、中大兄は、宮中の秩序を守るためにも、舒明に采女を奸した人間は断罪にすべきと進言した。
「皇子、分かった。すぐに処分致そう」
 舒明は、大臣を呼び、宮人をすべて調べ上げ、采女を奸したものは、皆晒し首にせよと命じた。
 処分は、一斉に行われ、宮中の規律が元に戻った五月ごろから長雨が続き、各所で川が氾濫し、民たちの多くは、家や畑を失った。
 
雨も収まった六月十五日の夜、
「火事だ、火事だ」大殿で叫び声が聞こえた。
 近習の者が、息を切らせて、舒明の褥にやって来た。
「お上、東の朝堂から火が出ています」
「何、早く宝や皇子たちを安全な場所に避難させよ」
  中大兄は、妹の間人の手をしっかりと握っていた。その後を大海人が続いた。
「兄上、怖い」
「間人、泣くな」
 中大兄たちは、岡本宮が燃え盛るのを見て涙した。
 半時ほどで、火は岡本宮を燃え尽くした。
舒明たちは命からがら、岡本宮を後にした。
「お上、付け火です。しばらくは、我慢してください」
 近習の者が、申し訳なさそうに頭を下げた。
「火をつけたのは、一体、何奴。しっかり調べよ」

 半月後、蝦夷の住んでいる豊浦宮西北近くに、宮として、田中宮が作られ、舒明たちは移り住んだ。

 数日後、舒明は大臣を呼んで、命じた。
「大臣、ここに移ってから、官吏の中で参朝に遅れる者が多い。綱紀粛正、明日から皆、卯刻(午前五時)に参朝させ、そして、巳刻(午前九時)退朝せよ。それを鐘で知らせ守らせるのだ」
「承知いたしました」
 蝦夷は、言った。しかし、蝦夷は、いつまでもこのことを実行せず、舒明の命を無視し続けた。
 舒明は、高句麗と百済を支援することに、蝦夷は、反対していた。

 蝦夷は、四月に入った頃から、参朝しなくなった。
「いよいよ、蝦夷が、乱を起こそうとしている」との百姓、町民たちのもっぱらの噂でもちきりになっていた。 


舒明は、上野毛君形名(かみつけのきみかたな)を大殿に呼んだ。
「そなたを蝦夷追討の将軍に命ずる、しかと、討って来い」
(やはりそうか。なんでこの儂が、蝦夷は手強いから、気をつけねば)上野毛君形名は、床に頭をつけ、
「承知しました」と言った。

 数日間、上野毛君形名は準備して蝦夷の館を攻めた。
「攻めよ。蝦夷を逃がすな」
 上野毛君形名は、焦った。蝦夷の軍が、上野毛君形名の軍を押し返してきた。
「引き返せ」 上野毛君形名は、一目散に逃げた。
 上野毛君形名の妻が嘆いた。
「殿、情けない。忌々しいことですね。蝦夷に負けるなんて。殿の先祖は、海外の政権を平定するという後世に名をのこしたのに、こんなことでは、後世の人たちに笑われます」
 酒を夫に飲ませ、自ら剣を帯び女人たちに弓を取らせて、蝦夷の軍に立ち向かった。
 今度は完勝した。
蝦夷は、逃げた。

 それから何事もなく、四季は流れ、舒明十二年(六四〇)、中大兄、十五歳の秋。
 十月十一日、唐に留学していた学問僧の南淵清安と高向 玄理(たかむこのくろまろ)が、百済と新羅の使者を伴って帰国し、舒明に挨拶した。
「ご苦労であった。清安と玄理、そちたちは、来月から、ここに居る中大兄と大海人に最近の唐のことを教えてやってくれ。今月中に、百済宮が完成するので、そこで頼む」
「お上、光栄に存じます。皇子様にお教えいたします」

十月末日、舒明は、宝、中大兄たちを連れて、百済宮に移った。
宮前には、百済寺が建立されていた。
「父上、あれは、九重塔ですか」
 中大兄が、立ち止まって、指さした。
「そうだ、日本で一番高いであろう」

 舒明は、清安と玄理を宮に呼びつけて言った。
「おぬし達は、共に百済寺を運営してくれ。留学帰りの僧たちをこの寺に受け入れるのだ」
「有り難き幸せ」
 舒明は、仏教を受容した初めての天皇であった。

 それに対して、任那復興、対新羅強硬路線とる、死んだと思われていたが蝦夷と入鹿父子は、舒明に敵対した。

蝦夷は、入鹿の館でしばらくの間おとなしくしていたのであった。

舒明十三年(六四一)十月九日、百済宮で、宝、山背大兄、古人大兄たちに看取られ、陽が昇ると同時に、舒明は、息を引き取った。
宝の落ち込みは、尋常ではなかった。 蝦夷にとって代わって実力者となった息子の入鹿は、舒明の葬儀を恐れながらも差配したいと宝たちに伝えたが、中大兄は、直径の自分が舒明の葬儀を取り仕切ると入鹿の申し出を断った。
 宝もそれを聞いて、
「中大兄、よろしく頼みます」と、涙を拭きながら言った。

また、入鹿は、舒明の後継として、馬子の娘、蘇我法堤郎媛(ほほてのいらつめ)が生んだ古人大兄の擁立を企てた。入鹿は、深慮遠謀、蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子を推した。
しかし、宝や、中大兄たちは、蘇我一族に染まることを懸念して、真っ向から反対した。
一年もの間、舒明の後継がなかなか決まらずにいたため、中大兄たちは、入鹿の妥協案をやむなく取り入れ、
六四二年正月、宝が皇位についた。皇極天皇誕生であった。
入鹿は、皇極を中継ぎとして、次に古人大兄を皇位に付けることを狙っていた。
「お上、大臣の息子入鹿殿が、政に口を出す機会が増えてきて、皆困っております」
 群臣の一人が、さっそく、皇極に注進したが、皇極は、何も答えなかった。
大臣の蝦夷より子の入鹿が、国の政治を執るようになり、その権勢は、父親を勝るようになった。それだけでなく、大臣の蝦夷と入鹿の専横ぶりに皆なにも反対できなくなった。
さらに、息子の入鹿は、国中の民を徴発し、大臣の墓を大陵、自分の墓を小陵と言って、葛城の高台に造らせた。そして、そこで八つらの舞を演じさせた。八つらの舞とは、天子のみに許された八列六十四人による舞のことである。
それを知った中大兄は、蘇我氏が天皇家に取って代わろうとする野心を露わにしたものと、激怒した。
中大兄は、大極殿に参じた。
「お上、蘇我一族は、天皇家を乗っ取ろうとしています。早く対処すべきかと」
 中大兄は、目がつりあがっていた。
「皇子、宮を移ることにした。入鹿たちから遠ざかるのだ」皇極は苦々しく言った。
二か月後、皇極たちは、小墾田宮に移った。

この一連の皇位継承問題で、天皇家と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
 
 十月、入鹿は各国へ派遣される国司たちを朝堂で饗応した。
そして、最後に大夫の筆頭頭、阿部内麻呂が壇に立った。
「お前たち、これから任じられたところへ行き、気を引き締めて土地を治めよ」
「おう」

それから数日後、蝦夷は床に臥せって、参朝することができなかった。
近習の者を呼んで、
「入鹿を連れて来い」と命じた。
入鹿がやって来た。
「父上、何か御用ですか」
「もう儂も長くない。これをお前に引き継いてもらう。皇子たちには気をつけろ。」
 と言って、置かれていた紫冠を与えた。
「父上、このようなことを勝手にやっては、まずいのではありませんか」
「お上には、儂から書状をしたためておくので、心配するでない」
 
 上宮の王たちは、威光があるという評判に、入鹿は憎々しげに思っていた。
(上宮の王たちを廃し、古人大兄を跡継ぎにしないと我々は危ない)
入鹿は、軽皇子と安倍内麻呂を呼んで、斑鳩にいる山背大兄を攻め滅ぼす策を練った。

十一月、入鹿は、巨勢徳太臣を大将軍にして山背大兄を攻めさせた。
 山背の数十人の舎人が、迎え撃ったが、多勢に無勢であった。
 山背は、生駒山に妃と一族を率いて、逃げた。

 しかし、数日後。
「皇子、これから東国に逃げましょう。東国を本拠にして、再起を掛けましょうぞ」
三輪文屋君(みわのふみやのきみ)が、山背の前に出て言った。
「お前が言う通り、そうすればきっと勝てるであろう。しかし、我一人のために、万民を苦しめ、煩わせることが出来ようか。我のせいで、父母を亡くしたなどと言われたくない。ここは、身を捨てて国を固めるのが、一番だ」

 山背たちは、山を下りて、法隆寺に入った。
 
それを知った入鹿は、兵を館に集めた。
「今度こそ、山背の首を取るぞ」
 入鹿は、兵一千で法隆寺を囲んで銅鑼と鐘を鳴らした。
「山背大兄様、お出ましなされ」
金堂では、山背が三輪文屋君に、将たちに伝えるよう命じた。
「我が兵を起こして、入鹿を討伐すれば勝つこと必定である。しかし、我一身のため人民を殺傷させたくない。我が身一つを入鹿に与えよう」
「皇子、それはなりませぬ」

 山背たちは、あっけなく滅ぼされた。

「大臣、入鹿様が山背大兄様を討ったそうです」
 蝦夷の近習の者が、息を切らせて報告した。
「何、入鹿の愚か者めが、お前もいつかは討たれるぞ」
 蝦夷は、愕然とした。
 蝦夷は、入鹿が戻って来たら、すぐ来るように家来に命じた。

「入鹿、なんてことをしでかした。天皇家たちの報復を受ける覚悟はあるのだな」
「父上、蘇我家の権威が失墜してしまうことが心配で、山背大兄様を討ち取りました。父上に怒られる筋合いはございません」
「もう済んだことは仕方がない。いつ攻められても受けて立つことができるよう警護を固めよう、分かったな」
 蝦夷と入鹿は、攻められても十分持ち堪えることができる場所として、飛鳥の甘樫岡を選んだ。
そして、家来や民を総動員させ、‘上の宮門’と‘谷の宮門’と呼ばせた館を並べて建てさせた。
 そして、周りに堀を掘って、水を貯め、館を城柵で囲い、武器庫を数か所設けた。

大江戸美人揃 二之巻 笠森 お仙

2019-09-20 17:30:32 | 時代小説

 時は明和五(一七六八)年秋、江戸の外れ谷中の笠森稲荷の水茶屋’鍵屋’に一人の武士が一休みするために入って行った。
 茶を運んできた娘に、
(なんて美しい娘なんだろう)と、武士が見とれてしまった。
この武士、太田南畝と言い、当時十九歳で幕臣として勘定役を務めていた。
 独学で和漢の故事典則を学び、江戸風俗に通じまた、狂歌にも長じていた。
 南畝は、この年になってはじめて一目ぼれをした自分に苦笑してしまった。
 茶を飲み終わって、店を出て知り合いの浮世絵師鈴木春信(四十四歳)の住んでいる神田白壁町の家に行って、水茶屋の娘の話をした。
 春信は役者の錦絵を主に描いていたが、その娘の話を聞いて興味を持ち、翌日さっそく笠森稲荷に出かけて行った。
 茶屋は繁盛していた。
 縁台に座ると、しばらくしてから茶を娘が運んできた。
 春信は一目見て、その娘に魅かれてしまった。
「娘御、名前は?」と、春信は居てもたってもいられずに聞いた。
「お仙と、申します。」と、その娘は鈴を転がしたような声で答えた。
 お仙、十八歳であった。

 お仙は色白で、うりざね顔そして、涼しげな眼をしたしなやかな体つきをしていた。
 燈籠鬢・島田髷を結って、大小あられの小紋の小袖が良く似合っていた。
 今日は、ひとまず春信は帰ることにして、茶代を払った。
 春信は、家に帰ってもお仙のことが頭から離れない、なんとか絵にできないかと考えていたときに、同じ町内に住んでいる平賀源内(四十歳)が訪ねてきた。

 平賀源内、享保十三(一七二八)年、讃岐の高松藩下級武士の家に生まれた。若き頃より本草学を学ぶとともに、長崎でオランダの科学も学んだ。そして、今から十一年前に江戸に来たのだが、主家から暇を出され浪人の生活を送っていた。
 この時代は十代将軍徳川家治の執政の元、田沼意次が積極的な経済政策を推し進めており、江戸は文化も栄え、活気に溢れていた。
 学問では、蘭学が興り、文学方面では、川柳、狂歌、黄表紙、洒落本などの風俗や人情を書きつづった大衆小説も盛んになっていた。
 また、芸能面では歌舞伎においては二代目瀬川菊之丞が女形で人気を集めた。また、江戸浄瑠璃も流行った。
 美術の世界、特に浮世絵では、二、三色摺りによる木版画紅摺絵を何色も重ね摺る東錦絵へと飛躍した。この時、中核にいたのが源内で、彼の周辺には南畝や春信らの多くの文化人が集まっていた。

 春信は、「源内さん、笠森稲荷の水茶屋にお仙という娘がいるんだが、めっぽう美人で驚いたよ。」と言った。
源 内は翌日、笠森稲荷に行って、お仙を見てきて、
春信の家に昼ごろ訪ねた。
「春信さん、お仙さんに一目ぼれだよ。」と嬉しそうに言った。

 しばらくすると、南畝もやって来た。
「源内さん、この間発明した‘タルモメートル(寒暖計)’売れましたか。」と、早速南畝は聞いた。
「まったく、皆信用してないのか、不思議そうに見るだけで買い手がつかないんだよ。」と、苦笑いした。
「今、源内さんと、美人の娘さんを江戸町民に売り込もうかと話をしているのだが、誰がよいかと悩んでいるんだ。今候補に挙がっているのは、浅草の茶屋蔦谷のお芳さん、浅草寺裏の楊枝売りの本柳屋仁平次の娘お藤さんそして、南畝さんが見つけてきた笠森稲荷の水茶屋鍵屋五兵衛の娘お仙さんの三人なんだが。」と、春信はいっきに話した。
南畝は、「お仙さんは磨かずしてきれいに容をつくらずして美人です、また、お藤さんは玉のような生娘とはこの方を言うのです。」と、南畝は二人を誉めあげた。
「南畝さん、それではどちらの娘さんにするか決まりませんね。」と、源内は笑いながら南畝を見た。
しばらくして、春信が「お藤さんは外見を飾って美しく見せているが、お仙さんは地で美しいのでお仙さんを私は描きたいのだが、どうだろうか。」と、二人に言った。
「お仙さんに決まりだ。」と、源内は言った。
「では、私はお仙さんの登場する作品を書いてみます。また、源内さんすみませんけど、去年の‘寝惚先生文集’と同様に序文を書いていただけませんか。」と、南畝は源内のほうに向かって頭を下げた。
「承知した。春信さんにお願いだが、南畝さんの作品にお仙さんの錦絵を挿絵として入れてもらえませんか。」と、今度は、源内は春信に向かって言った。
源内は、気鋭新進作家の太田南畝の将来を期待していたので、なんとか自分も力になってやりたいと常々考えていた。
南畝は一瞬驚いたが、すぐに春信に向かってそして、源内にも頭を下げた。
それから、十日間ぐらいの間、三人はそれぞれお仙のところに足繁く通った。

最初に行ったのは、春信でその翌日に行った。
相変わらず鍵屋は混んでいた。
そしてしばらくして、席が空いたので縁台に腰をかけた。
すぐに、お仙が茶を運んできた。
春信はここぞと、お仙に声をかけた。
「お仙ちゃん、私は、浮世絵師の鈴木春信という絵描です。」とそして、春信はお仙を絵に載せたいと、言ったが、
「おとっつあんと、おっかさんに相談してみます。」と、お仙は顔を赤らめ答えた。
その日は返事をもらえなかったので、春信は諦めて帰った。

その二日後、春信は昼過ぎにお仙に会いに行ったところ、お仙は奥に春信を連れて行った。
すると、お仙の父親五兵衛が出て来て、
「春信様、お仙をよろしくお願いしますだ。」と、頭を下げて頼んだ。
春信も「こちらこそよろしくお願いします。」と、丁重に頭を下げた。
それから、店が混んでいるので、細かい話は翌日の朝空いている時に来るからと言って、春信は茶屋を後にした。
そして、春信は、そのまま源内の家に行った。
源内の家には、南畝も来ていた。
さっそく、二人に、お仙たち一家が、喜んで話を承知してくれたことそして、細かい話は明日する予定であることも伝えた。
「春信さん、良かったですね。これから忙しくなりますよ。私も、お仙さんに会っていろいろ話を聞いて文を書きます。」と、南畝が嬉しそうに言った。
「春信さん、最初はどのような絵の構成にしますか。」と、源内は嬉しそうに聞いた。
「今、大店のご主人から見立絵を頼まれていますので、見立絵にしたいと思うのですが、どんな見立絵がよいのか悩んでいます。」

 見立絵とは、簡単に言うと、古典的な画類を当世風に描いたもので‘雅’から‘俗’への変容を表す言葉である。

春信は謡曲の内容と関わりある絵の構成について、二人に相談した。
源内が「‘蟻通(ありとおし)’でどうですか。」と言った。
「どういう謡曲なんですか。」と、南畝が聞いた。
「話はこうです。紀貫之(平安前期の歌人で、古今和歌集の撰者として有名。また、『土佐日記』の作者、)が玉津島参詣のため蟻通神社まで来ると、俄に日が暮れて大雨となり、乗馬さえ倒れてしまいます。途方に暮れていると、年老いた宮人が現われ、この処は物咎めをする蟻通明神の境内であるから、そうと知って馬を乗り入れたのであれば、命がないと言われます。貫之が名を告げると、それでは和歌を詠じて神慮を慰めなさいと言われ、そこで‘雨雲の立ち重なれる夜半なればありとほしとも思ふべきかは’と詠じると、宮人は感心し自分が蟻通明神である由を告げる。・・・という謡曲です。
 和歌の徳を讃えるのを目的とした曲です。また、シテの宮人が傘と燈籠を持って現われるのも珍しいと言われています。」と、源内はいっきに説明した。

 この中に出てくる蟻通神社は、現在大阪府泉佐野市に現存しているが、筆者は残念ながら行ったことが無い(単身赴任で大阪にいた時に行っておけばよかったと思ったが、良く考えてみるとその時はこの話を残念ながら、全く知らなかったのである。
話を戻そう。

「源内さん、それで行きましょう。下絵を考えてみます。またできたら来ます。」と喜んで、春信は帰って行った。

 春信からお仙たちとの細かい話の内容について聞いた後に、南畝はお仙に会いに行った。
その後、南畝はひたすらお仙について書き続けていた。
源内は、ただお仙を見に行くだけだった。
この頃、源内は田沼意次に自分を売り込むのに忙しかった。

 十月の初旬、春信は源内の長屋に下書きを持って行った。
その下書きは、激しい風雨に細い体をしならせて、宮へと向かっている絵である。鳥居を背景に、お仙が傘を掲げ、提灯を持っている。雨の夜、宮の前を通り過ぎようとした紀貫之を呼びとめた宮人をお仙の姿に置き換えたものであった。
「春信さん、なかなか良いですね。お仙さんの目をもう少し切れ長にしたらどうでしょうか。」と、源内は指でさした。

 この時代の美人のあり様は、もう少し先に出る‘都風俗化粧伝’にこのように書かれている。
(目は顔の中央にありて、顔の恰好を引き立てる第一は凛と強きがよい。然れどもあまり大き過ぎたるは見苦し。無理に細き眼にせんとて、目を狭めるのはよくない。・・・)と、現在とはちょっと違うようである。

春信と源内がしばらく話していると、南畝がやって来た。
「南畝さん、できましたよ。」と、春信は源内の意見を取り入れた下書きを見せた。
「素晴らしいですね。春信さん、さすがです。」
この下書きを本摺りすることが決まった。

 十日後、春信は摺りあがった錦絵を持って、源内の長屋を訪ねた。
「春信さん、美しく摺りあがりましたね。これはすごい。是非南畝さんにも見せないと。
一枚いただけませんか。」
「源内さんと南畝さんの分です。」
と、源内に二枚渡した。

 春信は翌日、笠森のお仙に出来上がった錦絵を持って行った。
今日のお仙の髪は、髱(たぼ)と鬢(びん)を大きく張り出させて、生え際や襟足が引き立ち華やいで、また、青い縦縞の小袖に赤い前だれを掛けて、なお一層体がすらりと見え魅力的であった。

 髱(たぼ)とは日本髪を結った際の後頭部の部分の髪をまた、鬢(びん)は頭髪の左右側面の部分を指す。

「わあ、すごく綺麗。春信さん、ありがとうございます。おとっつあんとおっかさんに見せてくる。」と言って、奥に入って行った。
しばらくすると、父親の五兵衛と母親のタエが出て来て春信に何度も頭を下げて礼を言った。
しばらく、奥で話をしていたが店のほうから客の声がしたので、春信は鍵屋を後にした。
そして、この錦絵を頼んできた大店の主人の所にこの絵を渡しに行った。
「春信さん、これはよくできている。本当に綺麗にできている。」と、大満足のようであった。
春信は早々に、大店を後にして源内の家に行った。
春信は、次に出す錦絵の下絵を源内に見せた。
「春信さん、今度は江戸の町人に売れますね。これも良いです。」と源内がほめた時に、南畝の声がして、部屋に入って来た。
「南畝さん、春信さんが挿絵を描いてくれましたよ。」と源内は嬉しそうに言って、下絵を南畝の前に置いた。
「これですか、すばらしいじゃないですか。」と南畝は驚いたように言った。
この絵は‘団子を持つ笠森お仙’と名付けられた。
後ろに鳥居、茶の縦縞の小袖を着たお仙が、右手に団子を持ち、体をやや左側に反らしひざ下から素足が覗いている姿が描かれていた。
「南畝さん、‘売飴土平伝’の序文を書きました。」と源内はその原稿を南畝に渡した。
この三人のなじみの版元から一ヶ月後戯作‘売飴土平伝’が売り出された。
当初予想していたよりも、順調に売れていた。
その後しばらくして、錦絵‘団子を持つ笠森お仙’も売り出されたが摺られていた二百枚は一日のうちに飛ぶように売れてしまった。
お仙の評判は湯屋で広まり、男だけでなく町娘もお仙の恰好に夢中になった。
一躍、お仙は今で言う‘江戸のファッションリーダー’にもなってしまったのである。

春信は引き続き、お仙を描きたいが良い案が浮かばないので、源内に相談を持ちかけた。
「春信さん、今歌舞伎が流行しており、また、最も人気ある役者は女形の瀬川菊之丞です。
この菊之丞をお仙さんと一緒に絵がいたらどうだろうか。人気がこれ以上出るのは間違いないと思いますよ。」と、源内は言った。
「なるほど、お仙さんと歌舞伎役者か。それは良い案です。」
そして、数日後春信は、出来た下絵を持って源内に評価を仰いだ。
‘笠森お仙と団扇売り’という題の絵が出来上がった。
その絵の構成は、背景には赤い鳥居、お仙は当代一の人気歌舞伎役者瀬川菊之丞の定紋が描かれている団扇を手にしている。
売り物の団扇には勝川春幸や一筆斎文調の役者絵をはったものを置いた。
また、菊之丞を団扇売りとして描いたものであった。
この錦絵も売り出したら爆発的に売れた。
これによりお仙の人気も確固たるものとなり、お仙の絵は草双紙(挿絵がついたかな書きの読み物)、双六(すごろく)、読売(瓦版のこと)にのるだけでなく、手拭いにも染められた。
また、森田座ではお仙の狂言を歌舞伎役者の初代中村松江が演じ大当たりした。

巷では、(向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげてざっと拝んでお仙の茶屋へ腰を掛けたら渋茶を出した。・・・)と唄われた。

春信は礼を言いに、源内の家を訪れた。
「春信さんが描いた絵、町では大評判ですよ。良かったですね。」と源内は嬉しそうに言った。
「源内さんのおかげで、もう版元は増刷でてんてこ舞いです。これ、些少ですけれど。」といって、源内の前に金子を差し出した。
源内は未だ浪人のため定期の収入が無く春信の好意に感謝した。
一方、お仙は相も変わらず鍵屋はお仙見たさで毎日、客が詰め掛けていたため、その応対に忙しかった。
お仙はあちらこちらから声をかけられるものの、身持ちがよく浮いた話は一つもなかった。
春信は仕事が一段落したところで、お仙の顔を見に笠森に行った。
「お仙さんの人気、すごいですね。よかったですね。」と、お仙に言ったところ、
「春信さん、人気が出たのは嬉しいですけれど、町に出ると皆がじろじろ見たり、声をかけたりで落ち着いて買い物も出来なくなってしまいました。」
春信は困った。

評判になってしまったら、役者と同じに見られるのはいたしかたないと春信は思うのだが、まだ若いお仙にとっては、いたたまれないことかもしれない。
春信は時間が経てば、評判になる前の生活に戻るようになると話をして、鍵屋を後にした。
それから、春信はずうっとお仙の言った言葉を忘れることができなかった。
(俺がお仙ちゃんに迷惑をかけたんだ。もしかして、取り返しがつかなくなったらどうしよう。)
そして、翌年の明和六(一七六九)年夏から仕事と精神的な疲れから寝込んでしまった。
その頃、源内は風来山人の作家名で‘放屁論’という評論を書き終わったころであった。
放屁論の原文の出だしはこうだ。
【人参呑で縊る癡漢あれば。河豚汁喰ふて長寿する男もあり。一度で父なし子孕む下女あれば。毎晩夜鷹買ふて鼻の無事なる奴あり。大そふなれど嗚呼天歟命歟。又。物の流行と不流行も時の仕合不仕合歟。・・・・・(訳)にんじんを飲んで養生しながら、首をくくると言った馬鹿者もあれば、ふぐを食って長生きをする男もいる。たった一度のことで父なし子をはらむ下女がいるかと思えば、毎晩・・・・・】

九月になって、源内は春信を見舞った。
「春信さん、御加減はいかがですか。仕事が忙しかったから疲れが出たんでしょう。この薬草を煎じて飲んで下さい、きっと元気になりますよ。」
「源内さん、ありがとう。」
「実は幕府から依頼されて、来月からオランダ語の翻訳をしに、長崎に行くことになりました。当分会えなくなります。」
「それは良かった。で、どのくらい行かれるのですか。」
「一年半ぐらいかと思います。」
源内の長崎行きは、田沼意次の世話で決まったようであったが、源内はやっと幕府に食い込めてうれしくてしょうがなかった。


そして、翌月源内は長崎に旅立って行った。
一方、源内の友人の杉田玄白に診てもらっているが、
春信の容態はいっこうに良くならずに明和七年になった。
二月になったある日、南畝が見舞いに来て、
「笠森稲荷の鍵屋のお仙が見えなくなったそうですよ。読売では、【とんだ茶釜(お仙のこと)が薬かん(禿げた父親)に化けた。】
と書かれていました。」と寂しそうに言った。
「南畝さん、私悪いことをお仙さんにしてしまったんです。悩んでいたんでしょうね。」
「いや、そんなことはないと思います。」
春信のやつれた姿が痛々しかった。

数日後、南畝は鍵屋をのぞいた。
客はわずかだった。
床几に座って、茶を持ってきたお仙の父親に聞いたがただ笑っているばかりであった。

 そして、三か月後、南畝や玄白たちの介護もむなしく、明和七年六月十五日春信は鬼籍に入った。

 その直後、南畝は春信を偲んで、『東錦絵を詠ず』という狂詩で【忽ち東錦絵と移ってより、一枚の紅摺枯れざる時、鳥居は何ぞ敢て春信にはかなわん。男女写しなす当世の姿】と詠った。

お仙がなぜいなくなったか、いろいろなうわさで江戸は騒がしかった。
ある者は、静かな所へ失踪したんだとか、ある者は横恋慕にあって、殺されたとか、
また、無理心中の噂も出ていた。
歴史は幕府旗本お庭番倉地政之助へ仮親の馬場善五兵衛の家から嫁いだことを伝えている。

大江戸美人揃 一之巻 湊屋 おろく

2019-09-09 10:44:20 | 時代小説
一之巻 湊屋 おろく

 九代将軍、家重執政の宝暦二(一七五一)年 桜の咲く頃。
浅草寺地内に湊屋という『ごふく茶屋』を称した水茶屋があった。ここでは湊屋をごふく茶屋と呼ぶことにする。
 ごふくとは、御仏供からきたもので、‘仏前に献茶して仏果を得る’という意味である。
ごふく茶屋には奥座敷が設けられてはいるが、他の店とは違い私娼窟ではない。お茶を飲ませるのを目的としていた。この店では、熱い湯でまず桜湯、麦茶を出した。
浅草寺の鐘が、昼八ツ(午後二時)を打った。ごふく茶屋では、おろくという娘が、客にお茶を運んでいた。
「ありがとう。おろくちゃんの入れてくれるお茶は天下一品だ」
薬問屋の若旦那の田助が言った。
「また、若旦那、冗談がお上手ですね」と、おろくは言いながら他の客にお茶を運んで行った。
「おろくちゃん、相変わらずきれいだね」と、大工の留吉は言った。
「ありがとう」と言って、おろくは外に出た。そして、
「ごふくの茶、参れ、参れ。」と、浅草寺参りの人々に声をかけた。
「松さん、いらっしゃい」
おろくは一人の客を店の中に案内した。棒振の松太郎であった。
そして、勝手場に戻り、おとっつあんが入れた宇治の茶を客たちに運んだ。
一時(二時間)が過ぎ、客たちも帰り店を閉める時間になった。
「おろく、片づけはおとっつあんとおっかさんがやるから湯屋に行っておいで」と、母親のフミが言った。
「早く行ってきな」
父親の太郎も言った。
「おとっつあん、おっかさん、お疲れ。じゃ、湯屋に行ってくるよ」と、湯の道具を持って、弁慶縞の小袖を着流し、おろくは出て行った。
しばらく歩いていると、後ろから、「おろくさん、湯屋へ行くのかね。」と、棒振りの松太郎。
「あら、松太郎さん。こんばんわ」
「おらあも、湯屋へ行くんで、一緒に行こう」
そして、二人は湯屋に入って行った。
松太郎は、烏の行水ですぐに出てきて、二階に駆け上がり、「こんばんは」と、挨拶をした。
隅のほうでは、薬問屋の若旦那の田助が、金物屋の平吉が酒を酌み交わしていた。
「おお、松さんこっちにきて、一局やらないか」と、太助が手招きをした。
「はいよ、若旦那たち、今日は早いですね」
「いや、ちょっと前に来たばかりですよ、ねえ平吉さん」
「そうですよ、ちょっと前に来たばかり」
「松さん、何か嬉しそうじゃないか」と、田助。
「さっき、湯屋へ来る途中、おろくちゃんに会って、一緒にきたもんで」と、松太郎は嬉しそうに二人に言った。
「それはうらやましい」と、田助は松太郎を嫉妬しているように、言った。
この田助も松太郎もおろくに一目ぼれしてしまい、毎日のようにごふく茶屋に通っていた。そして、田助と松太郎は、酒を飲みながら将棋を指し始めた。
半時ほど経った頃、おろくは上がり場で鏡を見ながら髪を結っていた。
今日は、櫛まきに仕上げて小袖を着た。櫛まき髪とは、櫛を逆さまにまき込んだ髪型で粋な髪型である。
(さあ、帰ろうかな)おろくは、出口に向かった。
そばにいた男たちだけでなく、女たちもおろくに見惚れた。
おろくは、ほんのり頬が湯で桃色に染まっていた。
(さっぱりしたわ、早く帰って、おとっつあんとおっかさんも、湯屋に行ってもらわないと)と思いながら、皆に頭を下げて出口に向かった。
着替えている人々は、うっとりしながらおろくを見つめていた。
「おろくちゃんは、相変わらずきれいだね。湯上りは、ますます色っぽくなるね」
「あの髪形、しゃれているね。今度真似してみようかしら」
女たちの囁き声が聞こえてきた。
「おばちゃん、ありがとう」
 番台の女に声をかけて、おろくは湯屋を出た。西の方の山々は、朱色に染まり始めていた。
道に造られた行燈に、すでに灯が入っていた。夜風が、爽やかに柳をなびかせながら、おろくを通り抜けて行った。

「おろくちゃん~」
もうすぐ家だという所で、声を掛けられた。振りかえると、息を切らした田助が一間ほど後ろにいた。
「あら、若旦那。どうなされたんですか」
「夜道は危ないから、家まで送って行きますよ」
「松太郎さんと一緒じゃないんですか」
「松さんは、平吉さんと未だ二階で飲んでます」
「二人ともお酒好きなんですね」と、おろくは、田助のほうを向いて言った。
田助は、今年は忍が岡の花見に、是非おろくを誘って行きたいとずっと思っていたので、今夜が誘いの機会といつ言おうかと考えていた。
忍が岡は、現在の上野公園界隈である。
おろくの家に近づいた時、田助は心臓が高鳴るのを振り切って、
「おろくちゃん、今度の休みに、‘忍が岡’に花見に行かない?」と、なんとかおろくに聞こえる声で言った。
「うーん、ちょっと考えさせてください。田助さんが今度お店に来た時に、返事します」
「おろくちゃん、じゃ明日お店に行くから」
二人が話に夢中になっているうちに、かおろくの家に着いた。
「ただいま」
「お帰り」
「おっかさん、若旦那に送ってもらちゃった」
 奥から出てきたフミに小声で言った
「若旦那、いつも、いつもありがとうございます」
フミも声を落として言った。
おろくの父、太郎は、おろくに変な虫がつかないか心配で、おろくが連れて来る男にはめっぽう厳しく当たることで有名であった。ましてや、夜酒を飲んでいる太郎はなおさらなのである。そのため、フミは、田助が来たことを太郎に知られないようにしたのであった。
田助も、そのことは十分知っているので、小さな声で
「おやすみなさい」と言って、二人に別れを告げ帰った。
「おーい、誰か来たのか?」
居間から太郎が怒鳴った。
「おろくが帰って来たんですよ」
「おとっつあん、ただいま」
「おー、遅かったな」
「おとっつあんとおっかさん、湯屋へ行ってきたら」

数日後、おろくと田助は、忍が岡にいた。おろくは、腰折れ島田の髷(髷の真ん中の元結で締める所がくぼんでいる髪型)を結って花簪を挿し、青海波(せいかいは)模様の入った小袖に柿色の綸子(りんず:滑らかで光沢がある絹織物。)の帯を吉弥結びにしていた。
吉弥結びは、一丈二尺の帯を後ろで片結びするもので、歌舞伎役者女形の初代上村吉弥の考案によるもののようである。
人混みの中なのに、すれ違う老若男女たちは、おろくの美しさに驚き、見とれていた。
田助は、意識せずにはいられなく、緊張しながらも、誇らしく歩いた。二人が、寛永寺の山門吉祥閣を通り過ぎた時、清水堂の山裾の桜が目の前に広がった。
「桜もきれいだけど、おろくちゃんはもっと綺麗だよ」と、照れながら田助は言った。
半時(一時間)ほど二人は歩いた。
「若旦那、ちょっと休みませんか」と、おろくが疲れた顔で言った。
「疲れましたね」と、田助も言った。
そして、二人は不忍池の畔にある水茶屋に入った。
「いらっしゃいませ・・・」
店の女は言って、おろくをまんじりともせずに見入った。
「あっ、すみません」と言って、水辺に近い席に二人を案内した。
すぐに、女は茶を運んできた。
「おろくちゃん、お腹すいていない」
「ええ、ちょと」
 女が、行こうとする時に、田助が聞いた。
「おねえさん、何か食べるものないですか」
「穴子の天麩羅でめしか蕎麦です」
「おねえさん、天麩羅とめし。あとお酒三合、頼みますよ」
 二人は、食事を取った。 時を忘れて、二人は話しすぎたいつの間にか、茶屋は、夕暮れに包み込まれ始めていた。
田助は、酔いが回った勢いで、奥座敷を頼んだ。
女が来て、二人を部屋に案内した。こんな部屋に通されたことにおろくは、驚き困った。仕事柄、このような場所に案内される人たちは目的が別なところにあることを知っていたが、ここまで来たら、今更、女にどうのこうのとは言えない。田助は黙っているし、おろくは、早く帰ることばかり考えていた。
案内した女は、お茶を取りに出て行った。
それから二人は、しばらく黙って座っていた。変な雰囲気に耐えられずに、
「このお店、きれいですね」と、おろくは言った。
田助は胸の鼓動が高まって来た時、女がお茶を運んできて、二人の前に置いた。
「何か御用があれば、呼んでください」と言って、すぐ部屋を出て行った。

毎日、おろくは目が回るくらい忙しかったが、あれから田助とは、目立たないように逢瀬を重ねた。
数か月後、おろくの体調に変化が出てきた。
「おろく、最近食べ物に好き嫌いを言うようになってきたけど、どうしたんだね」
「いや、そんなことはないわ」
 おろくは、ドキリとした。

田助に、そのことを伝えそして、
「もしかして、若旦那の子供ができたかもしれないわ」
「子供ができたって」と、田助は驚き、しばらくして我に返って、喜んだ。
「若旦那とあたしの子供だよ」
「そうだ、はやく親に言わないと」
「早く祝言も挙げないと。今日帰って、おとっつあんとおっかさんに言うよ」
「私も、言う。きっと許してくれると思うよ」
田助は帰って、両親におろくと結婚すると話した。
「水茶屋の娘だと、絶対許さん」と、田助の父、仁吉は言った。
「許してくれないなら、俺は家を出る」と、わめいた。
「ばかなことを言うな、家を出てどうするんだ。お前に何ができるんだ」
田助の母、お吉はただ泣いているだけだった。

おろくは、母親のフミに田助の子供ができたことを伝えた。
「なんだって、おろく。冗談を言いでないよ。若旦那の子供だって」
「おっかさん、本当なんだよ」
「こんなこと、おとっつあんに言ったら勘当されちまうよ。相手先とは月とすっぽんなんだから」
「おっかさん、どうしよう。」と、泣きながらおろくは言った。
「いいよ、おとっつあんにはあたしから言ってみるよ」
夜も更けて、行灯の灯も、消えそうになってきた。
「おろくのお腹に、薬問屋の若旦那の子ができたんだって」と、フミが言った。
「なんだって、そんなバカな」
「本当なんですよ」
「おっかあ、どうしたらいい」
「あんた、おろくにはかわいそうだけど、私の実家にあずけましょう。ほとぼりが冷めるまで。子には罪が無いからね」
翌日、おろくは、フミの祖父母オタカと直助の家のある川越にフミと一緒に行った。
フミは、川越の実家について、お茶一杯飲んでから江戸へ引き返した。

おろくがいなくなった‘ごふく茶屋 湊屋’は日を追うごとに客が減った。田助は、あれから姿を一度も見せなくなった。金物屋の息子の平吉、大工の留吉そして、棒手振りの 松太郎は毎日のように来て、おろくのことをフミに聞いた。
「おろくちゃん、どこに行ったんですか」
フミはただ笑顔を作るだけだった。

今日も留吉が店を閉めるまで茶を飲んでいた。フミは、留吉のところに数杯めのお茶を運んだ。
「おろくちゃん元気にしていますか。一体どこに行ったんですか」
「留吉さん、おろくのこと心配してくれてありがとう。おろくは若旦那の子を孕んでしまったの。でも、田助さんとおろくの結婚は、あちらさんもこっちも大反対だったんですよ。だから、おろくを実家に行かせたんです」
「おろくちゃん、かわいそう」
「おろくちゃんのお母さん、おろくちゃんのいるところを教えてください。お願いします」留吉は頭を下げた。
フミも根負けした。

秋も深まって来たある日、留吉は、やっと棟梁から許しを得て、三日間休みを取った。
七ツ刻(朝四時)、川越街道を北に向かった。江戸~川越まで十一里(約四十四キロメートル)、留吉は、板橋宿、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿と通り過ぎ、川越宿に入った。陽が暮れ始めていたのにもかかわらず、人の多さに驚いた。
(此処まで来れば、もうすぐ会えるぞ。ここでゆっくりして、明日早くから探してみるか)
 留吉が、ほっとした時、
「おにいさん、泊まっていってよ」
 客引きの女が、留吉の左袖をつかんだ。
 向かいの店の女が、走ってきて、右腕をつかんだ。
「うちに泊まってよ」
「はなせよ」留吉は、大声で言った。
「おにいさん、早く決めてよ」
「分かった。お前のところにするぜ」
 左袖をつかんだ女に言った。
女は、留吉を店の上り框に座らせ、タライを持ってきて留吉の足を洗った。洗い終わると、座敷にいた女が
「こちらへどうぞ」
 と言って、留吉を部屋に案内した。
「お客さんです。よろしくお願いします」
女は、障子をあけて、すでに泊り客のいる部屋に留吉を促した。浪人風の男と商人の二人が、なんやら話をしているところであった。
「よろしくおねがいします」
 留吉は、軽く会釈をして、座った。
「職人さんかい」
 商人の男が言った。
「へい、家職人の留吉と申します」
「大工か」
 浪人風の男が、口をはさんだ。
「某、城崎又の助と申す。よろしく」
「あたしは、酒屋問屋の太助といいます」
「留吉さん、これからどうされるんで」
「どうするって、なんですか」
「あたしたちは、これから川越の夜を満喫するために出かけるんですよ」
「おぬしも、一緒に行かぬか?」
「いや、あたしは明日朝が早いもんで。申し訳ありません」
「そうか、じゃ悪いが出かけてくる」
 二人は、いそいそと出かけて行った。
 しばらくすると、女がやってきて、風呂にするか飯にするかと聞いてきた。 留吉は、風呂に入って、飯を食べた。
「お客さん、食べ終わったらどう」
 女が、色目を使った。
 飯盛り女、と言われる類の女であった。行燈の淡い暗さが、女を引き立てていた。
 一瞬、留吉は戸惑った。旅の恥はかき捨てと思う一方、おろく会いたさにやってきた気持ちと留吉の心は、葛藤した。
「いや、今日は疲れているんで」
 と断った。
朝六ツ半(七時)に留吉は、朝陽が障子を白く映し出し時に目が覚めた。部屋は、酒臭かった。二人は、まだ寝ていた。
留吉は、一階に下りて、飯を持ってくるように女中に頼んだ。粟飯と具が茸の味噌汁そして香の物を食べて、 五ツ(八時)に、宿を出た。
そして、二刻(四時間)ほどかかってやっと、宿場はずれの村のおろくのいる家の前に着いた。
(やっとついたな、ここか)
 留吉が、垣根越しに家を覗いた。おろくが、庭先で洗い物を干していた。
春信風島田を結い、麻の葉小紋に赤い襷を掛けた姿は、秋の日差しを受けて留吉の目には、おろくが観音様のように輝いて見えた。
おろくが、留吉に気がついた。
「留吉さん、留吉さんじゃないの」
「おろくちゃん、元気そうじゃねえか。良かった、良かった」
涙が、出そうになった。
「おろく、だれか来たのか?」と、祖母のオタカが出て来て、おろくに言った。
「おばあちゃん、留吉さん。江戸から来てくれたんだ」
嬉しそうにおろくは、オタカに紹介した。
「おお、ごくろうなことじゃ、上がってお茶でも飲んでくれ。おろく、後でいいから留吉さんとやらにお茶を入れてあげな」
「はい、留吉さん、上がって待っていて」
おろくは走って、家の中に入って行った。
「おばあさん、この子はおろくちゃんの子供ですか?」
留吉は、オタカが抱いている子を見て言った。
「そうだよ、かわいいだろう」
おろくに似て、目元がすっきりして利発そうな顔をした女の子であった。
「どうぞ、遠慮せずに中に入って下せい」
オタカは留吉を家の中に案内した。
留吉は、おろくに会える日を一日千秋の思いで待っていたのだが、おろくの子を見たら急に心に迷いが生じた。
「早く上がりなせい」と、催促の声がかかったので、留吉は迷いを払しょくして床に上がった。
囲炉裏に近づくと、おろくの祖父の直助が会釈をした。
「よく、来なさったな。まあゆっくりしろや」
複雑な顔をして言った。
「おじゃまします」
留吉は、腰を下ろした。
「わざわざ、江戸からおろくに会いに来てくれたそうだな」
「はい、おろくちゃんが急にいなくなったもんで、心配で」
「留吉さんとやら、今日はゆっくりしていけるのか?」
直助は留吉の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、はい。今日と明日は仕事が休みなもんで、今日はこの辺の旅籠に泊まって明日帰ります」と、一瞬戸惑いながら答えた。
「そうか、それはよかった。ばあさんや、留吉さんと一杯やるから酒を」
勝手場に向かって、大きな声で言った。障子が、いつの間にか夕日で、薄赤く染まっていた。
直助が、行燈に灯を入れた。そして、煙管に葉煙草を詰め、火をつけた。
「留吉さんは、どんな仕事してるんじゃ?」
「しがない家職人(やじょくにん)でさ」と、留吉は照れて言った。
この時代は、江戸では大工のことを家職人とも言っていた。
「留吉さん、おろくのことどう思っているんだ。どこかの若旦那の子持ちだが」
さびしそうに直助が言った。
「はい、今でも好きです。おろくちゃんはどう思っているか分かりませんが」
留吉は、自信なさそうに言った。
おろくとオタカが、酒と膳を運んできた。オタカとおろくの膳も運んできた。膳には、粟飯と香の物、卵そして、川魚が載っていた。 そして、囲炉裏の自在鉤に山菜や猪の肉が入った鍋を掛けた。
「卵は、うちのだ。魚と猪は、爺さんが捕って来たんだ。召し上がれ」
 オタカが、勧めた。暮れ七ツを打つ鐘の音が、近くの寺から聞こえてきた。
「おじいちゃん、今日は十五夜だよ。おばあちゃんが朝、すすきを取ってきてくれたんだ。縁側に生けたよ!」とおろくが、直助に嬉しそうに言った。
「だんごはどうした?」と、直助はオタカに聞いた。
「朝から、おろくと作りましたよ。もう供えましたから」と、オタカ。
この時代は十五夜の供え物は、すすきが十五本または、五本と米粉の団子か饅頭が決まりだったようだ。
 留吉は、そんなおろくを見て、愛おしさが胸にこみ上げてきた。
「そう言えば、今日は深川の富岡八万様のお祭りだな」と、やっとの思いで話に入った。
「そう、深川のお祭り、賑わっているんでしょうね」
おろくは懐かしそうに留吉のほうを向いた。
食事も終わり、オタカとおろくが片づけを始めた。オタカが、留吉の膳を片付けるとき、
「留吉さん、今日はうちへ泊まっていきな」と言った。
「・・・・・・・・・・・」
「留めさん、好きなようにしとけ、俺はもう寝るだ、お先に」言いながら、直助は部屋を出て行った。
オタカも片づけが終わって、
「おらも、寝るゆっくりしていって下さいよ」と言って、部屋を出て行った。

 おろくは、縁側に出て、月を見ていた。留吉も縁側の後ろに座った。おろくの横顔を見ているだけで、切なくなってきた。留吉は、間を持たせるために、懐から、煙管入れを出した。そして、煙管に葉煙草を詰めて、煙草盆の火をつけた
おろくは、留吉に気付かずに、ずっと月を見ていた。
(若旦那、元気にやっているかな・・・・)
月に雲がかかり始めた時に、おろくの頬に一筋の光った涙が流れた。
留吉は、しばらくしてから、おろくに話しかけた。
「おろくちゃん、月がとっても綺麗だね」
「留吉さん、今日はありがとう」
二人はそれぞれ何かを言わなければと思いながらも、ただ二人は黙って月を見続けていた。
「若旦那、どうしているかしら」
「田助さんは先月、金物屋の平吉さんの妹と結婚したよ」
おろくは、留吉に悟られないよう声を抑えたが、涙は止めどもなく流れた。
留吉はなすすべもなく、そっと、おろくから離れた。おろくは、半刻(一時間)ほど、泣き崩れていた。
月の明かりが、その間照らし続けていた。

留吉は、朝六刻(六時)目を覚まし、顔を洗いに井戸に出た。
「おはようございます」
 オタカが、大根を洗っていた。
「寝むれたかね」
「はい」
 顔を洗って、留吉は居間に行った。
 直助が、炉辺で煙草を吸っていた。
「おはよう、寝れたかね」
 直助は、煙管を手に持って言った。
 留吉も挨拶を済ませて、直助の横に座った。
「留吉さん、おはよう」
 おろくが、煮えきった鍋を囲炉裏の自在鉤にかけた。そして、オタカが、膳を運んできた。
「召し上がれ」
 大根の入った鍋から椀によそって、留吉に渡した。
 目をはらしたおろくは、こまめに留吉の膳の世話をした。
「留吉さん、汁のおかわりはいかが」と、無理矢理、おかわりをさせた。
おろくは、これが留吉との最後の別れになるかと思うと、居てもたってもいられずになんとか、留吉の出立を延ばすよう振舞った。
留吉は、おろくはまだ田助のことを思い続けているのだと思い込んでいたので、諦めて、一時も早く江戸に帰りたかった。
その二人の様子を見ていて、直助もオタカも痛々しく感じていた。
「留さん、もう帰るかね」と、直助は寂しそうに言った。
「仕方がないね、留吉さんにも仕事があるんだから」と、オタカは肩を落として、残念そうにおろくの目を見て言った。
「おろくの両親に、おろくと子は元気だと伝えてくれや。留さん」と、直助は元気を振り絞って言った。
「承知しました。では、これで失礼しやす」
直助、オタカそして、おろくに挨拶をして留吉は、江戸に向かって歩き出した。明け六ツ(朝六時)頃であった。
留吉は元気なく四半刻(三十分)ほど歩いた時、留吉さんと言っている声が聞こえた。
後ろを向くと、子を背負ったおろくが手を振っていた。そばにいたオタカが、背中に篭を背負って、土産だと言って留吉に向かって歩いてきた。留吉もオタカの方に行った。
「あんた、この篭しょって行って。大した土産じゃないが」
 留吉は、大根や葱が入った篭を背負ってオタカに礼を言った。
 おろくもいつの間にかそばに来ていた。
「おろくちゃん、元気で」
「留吉も」
留吉は、おろくとオタカに頭を下げて、二人に背を向けた。
「おろく、これでいいのかい」
「・・・・・」
「自分に正直にしな」
 オタカが、おろくの背を押した。
「留吉さ~ん」
 オタカの目がかすんだ。
 青く澄んだ空に、おろくの声がひびきわたった。二羽の鳶が、啼くのをやめて旋回していた。
 オタカは、いつまでもおろくたちを見送っていた。
(完)