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小説&時代小説

大江戸美人揃 一之巻 湊屋 おろく

2019-09-09 10:44:20 | 時代小説
一之巻 湊屋 おろく

 九代将軍、家重執政の宝暦二(一七五一)年 桜の咲く頃。
浅草寺地内に湊屋という『ごふく茶屋』を称した水茶屋があった。ここでは湊屋をごふく茶屋と呼ぶことにする。
 ごふくとは、御仏供からきたもので、‘仏前に献茶して仏果を得る’という意味である。
ごふく茶屋には奥座敷が設けられてはいるが、他の店とは違い私娼窟ではない。お茶を飲ませるのを目的としていた。この店では、熱い湯でまず桜湯、麦茶を出した。
浅草寺の鐘が、昼八ツ(午後二時)を打った。ごふく茶屋では、おろくという娘が、客にお茶を運んでいた。
「ありがとう。おろくちゃんの入れてくれるお茶は天下一品だ」
薬問屋の若旦那の田助が言った。
「また、若旦那、冗談がお上手ですね」と、おろくは言いながら他の客にお茶を運んで行った。
「おろくちゃん、相変わらずきれいだね」と、大工の留吉は言った。
「ありがとう」と言って、おろくは外に出た。そして、
「ごふくの茶、参れ、参れ。」と、浅草寺参りの人々に声をかけた。
「松さん、いらっしゃい」
おろくは一人の客を店の中に案内した。棒振の松太郎であった。
そして、勝手場に戻り、おとっつあんが入れた宇治の茶を客たちに運んだ。
一時(二時間)が過ぎ、客たちも帰り店を閉める時間になった。
「おろく、片づけはおとっつあんとおっかさんがやるから湯屋に行っておいで」と、母親のフミが言った。
「早く行ってきな」
父親の太郎も言った。
「おとっつあん、おっかさん、お疲れ。じゃ、湯屋に行ってくるよ」と、湯の道具を持って、弁慶縞の小袖を着流し、おろくは出て行った。
しばらく歩いていると、後ろから、「おろくさん、湯屋へ行くのかね。」と、棒振りの松太郎。
「あら、松太郎さん。こんばんわ」
「おらあも、湯屋へ行くんで、一緒に行こう」
そして、二人は湯屋に入って行った。
松太郎は、烏の行水ですぐに出てきて、二階に駆け上がり、「こんばんは」と、挨拶をした。
隅のほうでは、薬問屋の若旦那の田助が、金物屋の平吉が酒を酌み交わしていた。
「おお、松さんこっちにきて、一局やらないか」と、太助が手招きをした。
「はいよ、若旦那たち、今日は早いですね」
「いや、ちょっと前に来たばかりですよ、ねえ平吉さん」
「そうですよ、ちょっと前に来たばかり」
「松さん、何か嬉しそうじゃないか」と、田助。
「さっき、湯屋へ来る途中、おろくちゃんに会って、一緒にきたもんで」と、松太郎は嬉しそうに二人に言った。
「それはうらやましい」と、田助は松太郎を嫉妬しているように、言った。
この田助も松太郎もおろくに一目ぼれしてしまい、毎日のようにごふく茶屋に通っていた。そして、田助と松太郎は、酒を飲みながら将棋を指し始めた。
半時ほど経った頃、おろくは上がり場で鏡を見ながら髪を結っていた。
今日は、櫛まきに仕上げて小袖を着た。櫛まき髪とは、櫛を逆さまにまき込んだ髪型で粋な髪型である。
(さあ、帰ろうかな)おろくは、出口に向かった。
そばにいた男たちだけでなく、女たちもおろくに見惚れた。
おろくは、ほんのり頬が湯で桃色に染まっていた。
(さっぱりしたわ、早く帰って、おとっつあんとおっかさんも、湯屋に行ってもらわないと)と思いながら、皆に頭を下げて出口に向かった。
着替えている人々は、うっとりしながらおろくを見つめていた。
「おろくちゃんは、相変わらずきれいだね。湯上りは、ますます色っぽくなるね」
「あの髪形、しゃれているね。今度真似してみようかしら」
女たちの囁き声が聞こえてきた。
「おばちゃん、ありがとう」
 番台の女に声をかけて、おろくは湯屋を出た。西の方の山々は、朱色に染まり始めていた。
道に造られた行燈に、すでに灯が入っていた。夜風が、爽やかに柳をなびかせながら、おろくを通り抜けて行った。

「おろくちゃん~」
もうすぐ家だという所で、声を掛けられた。振りかえると、息を切らした田助が一間ほど後ろにいた。
「あら、若旦那。どうなされたんですか」
「夜道は危ないから、家まで送って行きますよ」
「松太郎さんと一緒じゃないんですか」
「松さんは、平吉さんと未だ二階で飲んでます」
「二人ともお酒好きなんですね」と、おろくは、田助のほうを向いて言った。
田助は、今年は忍が岡の花見に、是非おろくを誘って行きたいとずっと思っていたので、今夜が誘いの機会といつ言おうかと考えていた。
忍が岡は、現在の上野公園界隈である。
おろくの家に近づいた時、田助は心臓が高鳴るのを振り切って、
「おろくちゃん、今度の休みに、‘忍が岡’に花見に行かない?」と、なんとかおろくに聞こえる声で言った。
「うーん、ちょっと考えさせてください。田助さんが今度お店に来た時に、返事します」
「おろくちゃん、じゃ明日お店に行くから」
二人が話に夢中になっているうちに、かおろくの家に着いた。
「ただいま」
「お帰り」
「おっかさん、若旦那に送ってもらちゃった」
 奥から出てきたフミに小声で言った
「若旦那、いつも、いつもありがとうございます」
フミも声を落として言った。
おろくの父、太郎は、おろくに変な虫がつかないか心配で、おろくが連れて来る男にはめっぽう厳しく当たることで有名であった。ましてや、夜酒を飲んでいる太郎はなおさらなのである。そのため、フミは、田助が来たことを太郎に知られないようにしたのであった。
田助も、そのことは十分知っているので、小さな声で
「おやすみなさい」と言って、二人に別れを告げ帰った。
「おーい、誰か来たのか?」
居間から太郎が怒鳴った。
「おろくが帰って来たんですよ」
「おとっつあん、ただいま」
「おー、遅かったな」
「おとっつあんとおっかさん、湯屋へ行ってきたら」

数日後、おろくと田助は、忍が岡にいた。おろくは、腰折れ島田の髷(髷の真ん中の元結で締める所がくぼんでいる髪型)を結って花簪を挿し、青海波(せいかいは)模様の入った小袖に柿色の綸子(りんず:滑らかで光沢がある絹織物。)の帯を吉弥結びにしていた。
吉弥結びは、一丈二尺の帯を後ろで片結びするもので、歌舞伎役者女形の初代上村吉弥の考案によるもののようである。
人混みの中なのに、すれ違う老若男女たちは、おろくの美しさに驚き、見とれていた。
田助は、意識せずにはいられなく、緊張しながらも、誇らしく歩いた。二人が、寛永寺の山門吉祥閣を通り過ぎた時、清水堂の山裾の桜が目の前に広がった。
「桜もきれいだけど、おろくちゃんはもっと綺麗だよ」と、照れながら田助は言った。
半時(一時間)ほど二人は歩いた。
「若旦那、ちょっと休みませんか」と、おろくが疲れた顔で言った。
「疲れましたね」と、田助も言った。
そして、二人は不忍池の畔にある水茶屋に入った。
「いらっしゃいませ・・・」
店の女は言って、おろくをまんじりともせずに見入った。
「あっ、すみません」と言って、水辺に近い席に二人を案内した。
すぐに、女は茶を運んできた。
「おろくちゃん、お腹すいていない」
「ええ、ちょと」
 女が、行こうとする時に、田助が聞いた。
「おねえさん、何か食べるものないですか」
「穴子の天麩羅でめしか蕎麦です」
「おねえさん、天麩羅とめし。あとお酒三合、頼みますよ」
 二人は、食事を取った。 時を忘れて、二人は話しすぎたいつの間にか、茶屋は、夕暮れに包み込まれ始めていた。
田助は、酔いが回った勢いで、奥座敷を頼んだ。
女が来て、二人を部屋に案内した。こんな部屋に通されたことにおろくは、驚き困った。仕事柄、このような場所に案内される人たちは目的が別なところにあることを知っていたが、ここまで来たら、今更、女にどうのこうのとは言えない。田助は黙っているし、おろくは、早く帰ることばかり考えていた。
案内した女は、お茶を取りに出て行った。
それから二人は、しばらく黙って座っていた。変な雰囲気に耐えられずに、
「このお店、きれいですね」と、おろくは言った。
田助は胸の鼓動が高まって来た時、女がお茶を運んできて、二人の前に置いた。
「何か御用があれば、呼んでください」と言って、すぐ部屋を出て行った。

毎日、おろくは目が回るくらい忙しかったが、あれから田助とは、目立たないように逢瀬を重ねた。
数か月後、おろくの体調に変化が出てきた。
「おろく、最近食べ物に好き嫌いを言うようになってきたけど、どうしたんだね」
「いや、そんなことはないわ」
 おろくは、ドキリとした。

田助に、そのことを伝えそして、
「もしかして、若旦那の子供ができたかもしれないわ」
「子供ができたって」と、田助は驚き、しばらくして我に返って、喜んだ。
「若旦那とあたしの子供だよ」
「そうだ、はやく親に言わないと」
「早く祝言も挙げないと。今日帰って、おとっつあんとおっかさんに言うよ」
「私も、言う。きっと許してくれると思うよ」
田助は帰って、両親におろくと結婚すると話した。
「水茶屋の娘だと、絶対許さん」と、田助の父、仁吉は言った。
「許してくれないなら、俺は家を出る」と、わめいた。
「ばかなことを言うな、家を出てどうするんだ。お前に何ができるんだ」
田助の母、お吉はただ泣いているだけだった。

おろくは、母親のフミに田助の子供ができたことを伝えた。
「なんだって、おろく。冗談を言いでないよ。若旦那の子供だって」
「おっかさん、本当なんだよ」
「こんなこと、おとっつあんに言ったら勘当されちまうよ。相手先とは月とすっぽんなんだから」
「おっかさん、どうしよう。」と、泣きながらおろくは言った。
「いいよ、おとっつあんにはあたしから言ってみるよ」
夜も更けて、行灯の灯も、消えそうになってきた。
「おろくのお腹に、薬問屋の若旦那の子ができたんだって」と、フミが言った。
「なんだって、そんなバカな」
「本当なんですよ」
「おっかあ、どうしたらいい」
「あんた、おろくにはかわいそうだけど、私の実家にあずけましょう。ほとぼりが冷めるまで。子には罪が無いからね」
翌日、おろくは、フミの祖父母オタカと直助の家のある川越にフミと一緒に行った。
フミは、川越の実家について、お茶一杯飲んでから江戸へ引き返した。

おろくがいなくなった‘ごふく茶屋 湊屋’は日を追うごとに客が減った。田助は、あれから姿を一度も見せなくなった。金物屋の息子の平吉、大工の留吉そして、棒手振りの 松太郎は毎日のように来て、おろくのことをフミに聞いた。
「おろくちゃん、どこに行ったんですか」
フミはただ笑顔を作るだけだった。

今日も留吉が店を閉めるまで茶を飲んでいた。フミは、留吉のところに数杯めのお茶を運んだ。
「おろくちゃん元気にしていますか。一体どこに行ったんですか」
「留吉さん、おろくのこと心配してくれてありがとう。おろくは若旦那の子を孕んでしまったの。でも、田助さんとおろくの結婚は、あちらさんもこっちも大反対だったんですよ。だから、おろくを実家に行かせたんです」
「おろくちゃん、かわいそう」
「おろくちゃんのお母さん、おろくちゃんのいるところを教えてください。お願いします」留吉は頭を下げた。
フミも根負けした。

秋も深まって来たある日、留吉は、やっと棟梁から許しを得て、三日間休みを取った。
七ツ刻(朝四時)、川越街道を北に向かった。江戸~川越まで十一里(約四十四キロメートル)、留吉は、板橋宿、上板橋宿、下練馬宿、白子宿、膝折宿、大和田宿、大井宿と通り過ぎ、川越宿に入った。陽が暮れ始めていたのにもかかわらず、人の多さに驚いた。
(此処まで来れば、もうすぐ会えるぞ。ここでゆっくりして、明日早くから探してみるか)
 留吉が、ほっとした時、
「おにいさん、泊まっていってよ」
 客引きの女が、留吉の左袖をつかんだ。
 向かいの店の女が、走ってきて、右腕をつかんだ。
「うちに泊まってよ」
「はなせよ」留吉は、大声で言った。
「おにいさん、早く決めてよ」
「分かった。お前のところにするぜ」
 左袖をつかんだ女に言った。
女は、留吉を店の上り框に座らせ、タライを持ってきて留吉の足を洗った。洗い終わると、座敷にいた女が
「こちらへどうぞ」
 と言って、留吉を部屋に案内した。
「お客さんです。よろしくお願いします」
女は、障子をあけて、すでに泊り客のいる部屋に留吉を促した。浪人風の男と商人の二人が、なんやら話をしているところであった。
「よろしくおねがいします」
 留吉は、軽く会釈をして、座った。
「職人さんかい」
 商人の男が言った。
「へい、家職人の留吉と申します」
「大工か」
 浪人風の男が、口をはさんだ。
「某、城崎又の助と申す。よろしく」
「あたしは、酒屋問屋の太助といいます」
「留吉さん、これからどうされるんで」
「どうするって、なんですか」
「あたしたちは、これから川越の夜を満喫するために出かけるんですよ」
「おぬしも、一緒に行かぬか?」
「いや、あたしは明日朝が早いもんで。申し訳ありません」
「そうか、じゃ悪いが出かけてくる」
 二人は、いそいそと出かけて行った。
 しばらくすると、女がやってきて、風呂にするか飯にするかと聞いてきた。 留吉は、風呂に入って、飯を食べた。
「お客さん、食べ終わったらどう」
 女が、色目を使った。
 飯盛り女、と言われる類の女であった。行燈の淡い暗さが、女を引き立てていた。
 一瞬、留吉は戸惑った。旅の恥はかき捨てと思う一方、おろく会いたさにやってきた気持ちと留吉の心は、葛藤した。
「いや、今日は疲れているんで」
 と断った。
朝六ツ半(七時)に留吉は、朝陽が障子を白く映し出し時に目が覚めた。部屋は、酒臭かった。二人は、まだ寝ていた。
留吉は、一階に下りて、飯を持ってくるように女中に頼んだ。粟飯と具が茸の味噌汁そして香の物を食べて、 五ツ(八時)に、宿を出た。
そして、二刻(四時間)ほどかかってやっと、宿場はずれの村のおろくのいる家の前に着いた。
(やっとついたな、ここか)
 留吉が、垣根越しに家を覗いた。おろくが、庭先で洗い物を干していた。
春信風島田を結い、麻の葉小紋に赤い襷を掛けた姿は、秋の日差しを受けて留吉の目には、おろくが観音様のように輝いて見えた。
おろくが、留吉に気がついた。
「留吉さん、留吉さんじゃないの」
「おろくちゃん、元気そうじゃねえか。良かった、良かった」
涙が、出そうになった。
「おろく、だれか来たのか?」と、祖母のオタカが出て来て、おろくに言った。
「おばあちゃん、留吉さん。江戸から来てくれたんだ」
嬉しそうにおろくは、オタカに紹介した。
「おお、ごくろうなことじゃ、上がってお茶でも飲んでくれ。おろく、後でいいから留吉さんとやらにお茶を入れてあげな」
「はい、留吉さん、上がって待っていて」
おろくは走って、家の中に入って行った。
「おばあさん、この子はおろくちゃんの子供ですか?」
留吉は、オタカが抱いている子を見て言った。
「そうだよ、かわいいだろう」
おろくに似て、目元がすっきりして利発そうな顔をした女の子であった。
「どうぞ、遠慮せずに中に入って下せい」
オタカは留吉を家の中に案内した。
留吉は、おろくに会える日を一日千秋の思いで待っていたのだが、おろくの子を見たら急に心に迷いが生じた。
「早く上がりなせい」と、催促の声がかかったので、留吉は迷いを払しょくして床に上がった。
囲炉裏に近づくと、おろくの祖父の直助が会釈をした。
「よく、来なさったな。まあゆっくりしろや」
複雑な顔をして言った。
「おじゃまします」
留吉は、腰を下ろした。
「わざわざ、江戸からおろくに会いに来てくれたそうだな」
「はい、おろくちゃんが急にいなくなったもんで、心配で」
「留吉さんとやら、今日はゆっくりしていけるのか?」
直助は留吉の顔を覗き込むようにして言った。
「いや、はい。今日と明日は仕事が休みなもんで、今日はこの辺の旅籠に泊まって明日帰ります」と、一瞬戸惑いながら答えた。
「そうか、それはよかった。ばあさんや、留吉さんと一杯やるから酒を」
勝手場に向かって、大きな声で言った。障子が、いつの間にか夕日で、薄赤く染まっていた。
直助が、行燈に灯を入れた。そして、煙管に葉煙草を詰め、火をつけた。
「留吉さんは、どんな仕事してるんじゃ?」
「しがない家職人(やじょくにん)でさ」と、留吉は照れて言った。
この時代は、江戸では大工のことを家職人とも言っていた。
「留吉さん、おろくのことどう思っているんだ。どこかの若旦那の子持ちだが」
さびしそうに直助が言った。
「はい、今でも好きです。おろくちゃんはどう思っているか分かりませんが」
留吉は、自信なさそうに言った。
おろくとオタカが、酒と膳を運んできた。オタカとおろくの膳も運んできた。膳には、粟飯と香の物、卵そして、川魚が載っていた。 そして、囲炉裏の自在鉤に山菜や猪の肉が入った鍋を掛けた。
「卵は、うちのだ。魚と猪は、爺さんが捕って来たんだ。召し上がれ」
 オタカが、勧めた。暮れ七ツを打つ鐘の音が、近くの寺から聞こえてきた。
「おじいちゃん、今日は十五夜だよ。おばあちゃんが朝、すすきを取ってきてくれたんだ。縁側に生けたよ!」とおろくが、直助に嬉しそうに言った。
「だんごはどうした?」と、直助はオタカに聞いた。
「朝から、おろくと作りましたよ。もう供えましたから」と、オタカ。
この時代は十五夜の供え物は、すすきが十五本または、五本と米粉の団子か饅頭が決まりだったようだ。
 留吉は、そんなおろくを見て、愛おしさが胸にこみ上げてきた。
「そう言えば、今日は深川の富岡八万様のお祭りだな」と、やっとの思いで話に入った。
「そう、深川のお祭り、賑わっているんでしょうね」
おろくは懐かしそうに留吉のほうを向いた。
食事も終わり、オタカとおろくが片づけを始めた。オタカが、留吉の膳を片付けるとき、
「留吉さん、今日はうちへ泊まっていきな」と言った。
「・・・・・・・・・・・」
「留めさん、好きなようにしとけ、俺はもう寝るだ、お先に」言いながら、直助は部屋を出て行った。
オタカも片づけが終わって、
「おらも、寝るゆっくりしていって下さいよ」と言って、部屋を出て行った。

 おろくは、縁側に出て、月を見ていた。留吉も縁側の後ろに座った。おろくの横顔を見ているだけで、切なくなってきた。留吉は、間を持たせるために、懐から、煙管入れを出した。そして、煙管に葉煙草を詰めて、煙草盆の火をつけた
おろくは、留吉に気付かずに、ずっと月を見ていた。
(若旦那、元気にやっているかな・・・・)
月に雲がかかり始めた時に、おろくの頬に一筋の光った涙が流れた。
留吉は、しばらくしてから、おろくに話しかけた。
「おろくちゃん、月がとっても綺麗だね」
「留吉さん、今日はありがとう」
二人はそれぞれ何かを言わなければと思いながらも、ただ二人は黙って月を見続けていた。
「若旦那、どうしているかしら」
「田助さんは先月、金物屋の平吉さんの妹と結婚したよ」
おろくは、留吉に悟られないよう声を抑えたが、涙は止めどもなく流れた。
留吉はなすすべもなく、そっと、おろくから離れた。おろくは、半刻(一時間)ほど、泣き崩れていた。
月の明かりが、その間照らし続けていた。

留吉は、朝六刻(六時)目を覚まし、顔を洗いに井戸に出た。
「おはようございます」
 オタカが、大根を洗っていた。
「寝むれたかね」
「はい」
 顔を洗って、留吉は居間に行った。
 直助が、炉辺で煙草を吸っていた。
「おはよう、寝れたかね」
 直助は、煙管を手に持って言った。
 留吉も挨拶を済ませて、直助の横に座った。
「留吉さん、おはよう」
 おろくが、煮えきった鍋を囲炉裏の自在鉤にかけた。そして、オタカが、膳を運んできた。
「召し上がれ」
 大根の入った鍋から椀によそって、留吉に渡した。
 目をはらしたおろくは、こまめに留吉の膳の世話をした。
「留吉さん、汁のおかわりはいかが」と、無理矢理、おかわりをさせた。
おろくは、これが留吉との最後の別れになるかと思うと、居てもたってもいられずになんとか、留吉の出立を延ばすよう振舞った。
留吉は、おろくはまだ田助のことを思い続けているのだと思い込んでいたので、諦めて、一時も早く江戸に帰りたかった。
その二人の様子を見ていて、直助もオタカも痛々しく感じていた。
「留さん、もう帰るかね」と、直助は寂しそうに言った。
「仕方がないね、留吉さんにも仕事があるんだから」と、オタカは肩を落として、残念そうにおろくの目を見て言った。
「おろくの両親に、おろくと子は元気だと伝えてくれや。留さん」と、直助は元気を振り絞って言った。
「承知しました。では、これで失礼しやす」
直助、オタカそして、おろくに挨拶をして留吉は、江戸に向かって歩き出した。明け六ツ(朝六時)頃であった。
留吉は元気なく四半刻(三十分)ほど歩いた時、留吉さんと言っている声が聞こえた。
後ろを向くと、子を背負ったおろくが手を振っていた。そばにいたオタカが、背中に篭を背負って、土産だと言って留吉に向かって歩いてきた。留吉もオタカの方に行った。
「あんた、この篭しょって行って。大した土産じゃないが」
 留吉は、大根や葱が入った篭を背負ってオタカに礼を言った。
 おろくもいつの間にかそばに来ていた。
「おろくちゃん、元気で」
「留吉も」
留吉は、おろくとオタカに頭を下げて、二人に背を向けた。
「おろく、これでいいのかい」
「・・・・・」
「自分に正直にしな」
 オタカが、おろくの背を押した。
「留吉さ~ん」
 オタカの目がかすんだ。
 青く澄んだ空に、おろくの声がひびきわたった。二羽の鳶が、啼くのをやめて旋回していた。
 オタカは、いつまでもおろくたちを見送っていた。
(完)















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