雑木囃子

自然とは

大晦日を迎えた。
節目に頼る人間界では、最も大きな節目となる。
山の動植物をみていると、節目を気にしているようには見えず、成り行きに委ねて生きている。
成り行きに委ね環境を受け入れる様を自然というのが、自然のそもそも。
自然という言葉は「そのまま・ありのまま」の「様(さま)」を指すのがそもそもである。動植物や山河などありのままな「何か(物)」を自然と呼ぶようになったのはごく最近のことだと知る人は少ない。
山河動植物を指すネイチャーという英語を誰かが自然と訳してから、自然とは山河動植物のこととなったのがその経緯だ。
つまり、自然に思う、自然に感じる、自然にそこにある、という使い方はかつてからあったところ、それに加えて木や草や動物や風や雲や空などの具象を自然と呼ぶようになったわけだ。

西洋では、人間と動植物や気象は隔て線引きされ、自然とは人間が対峙し克服しできる限り征服するもの。
この島国では、人間の暮らしと人間以外の営みの間に壁も線も無かった。外と内の区分けはほとんど無く、せいぜい風雨を避ける程度の雨戸や襖を立てる程度。強い壁があるとしたら防犯や戦争(いくさ)に備えたものだった。
木は木であり、風は風である。それらをまとめて自然と呼び人と分ける文化慣習は無かったのだから、人間以外をまとめて自然と言うこともないのは自然なことだった。

さて、長くキャンプ場というみんなの庭を保つべくやってきたものだから、人といわゆる自然は隔てられないし分けて考えることもできずいつも一緒。そういうところを場という。
場というのは、人間もそれ以外も含めて自然にできてゆくものと思われる。
人がいると場になるのは、人はいろいろな考えや喜びや悲しみを抱き、そういう心をなだめたり鼓舞しようとすると、何かが渦巻き何かが溶け出し滲む。
そうやって人ならではのものも山は抱き込んで含んでくれ、こうやってひとところに何十年も居ると、人々から滲み出た何かをも肥やしにしているのではないかと思う。思いたい。

この節目に整理しきれないそんなことを考えているあたり、なかなかに人間らしい。

間もなく来年になる
山は自然に朝が来る
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