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げわ(1)今朝は、原子力について考えてみたい。2011年3月11日の東日本大震災、そして福島第一原発事故のあと、原発についてさまざまな議論が行われてきた。そんな中で、私自身も、折りに触れて発言してきたが、このところあまり発言しなかったのは、正直言って「わからない」からである。
げわ(2)たとえば、原発と、核兵器の関係。核燃料のサイクルは、核兵器保有国においては核兵器と深く結びついており、日本においても、核兵器保有の潜在的能力との関連性が指摘されている。つまり、原発の問題は、核兵器の問題と切り離して考えることができそうもない。
げわ(3)それはつまり国家主権の問題となる。スノーデン氏やマニング氏、アサンジ氏が指摘するように、国家というものは、たとえそれが民主主義的な国であっても、ほのぐらい秘密を隠している。だから、原発の問題について考えることは、国家主権について考えることと殆どイコールである。
げわ(4)つまり、原発の問題は、技術論や、エネルギーの観点だけで論じることは、間違っているとはいわないものの、不十分そうだ。そんな考えもあって、ツイッター上で交わされているさまざまな議論に、私としてはどちらにもコミットする気持ちになれないまま、時が進んでしまっている。
げわ(5)そんな中、一つ確信に近い思いもあって、それは、原子力は人を分けるということである。ツイッターを見ていると、原子力推進派、反対派、それぞれの思いがあり、自分の議論が正しいという確信がある。このように、原子力は、人々の間に、圧倒的な非対称性をもたらすようだ。
げわ(6)スイスの村での有名な研究がある。核廃棄物処理の候補地となったこの村の住人は、当初は賛成だった。ところが、国家が補償するというニュースが流れたとき、賛成する人の割合が減った。自分たちは公共心で賛成していたのに、経済問題にされたというので、賛成派が減ったのである。
げわ(7)この話には続きがある。やがて、住民の間に、家を改築する時に、一部屋増やしたりとか、生活が派手になるとか、つまりは補償金を当てにして生活する者が現れ始めた。やがて、一度は減った賛成派が再び増えて、その村は、核廃棄物処理を受け入れることになったのである。
げわ(8)原発の立地と消費地。この間には大きな非対称性がある。補償金は、その非対称性をやわらげる一つの装置だろう。同じことは、核兵器にも言える。保有国と非保有国の非対称性。ボタンを押すものと、瞬時に抹殺される者の非対称性。核エネルギーの大きさはそのまま非対称性の大きさにつながる。
げわ(9)以上の議論を、私は、原発に賛成する立場からやっているのでも、反対する立場からやっているのでもない。冒頭に申し上げた通り、正直、よくわからないのである。ただ、原子力が、その解放するエネルギーの大きさに見合った非対称性を人間社会にもたらしていることは、事実だと考える。