橘玲,2023,世界はなぜ地獄になるのか,小学館.(3.26.24)
(著作権者、および版元の方々へ・・・たいへん有意義な作品をお届けいただき、深くお礼を申し上げます。本ブログでは、とくに印象深かった箇所を引用していますが、これを読んだ方が、それをとおして、このすばらしい内容の本を買って読んでくれるであろうこと、そのことを確信しています。)
うーん、論旨と議論、事例の組み立て方が、巧い。
巧すぎる。
橘さんのいう地獄とは、社会の集団分極化が進行し、言葉や思想をめぐる対話が消滅して、集団、個人間で、気にくわない言説を表す者を排除、追放、失脚させようとする、すなわち、キャンセルカルチャーが蔓延る殺伐とした世界のありようを示す。
キャンセルカルチャー(cancel culture)とは、以下のようなものだ。
特定の人物・団体の反社会的言動を人々が問題視し、追放運動や不買運動などを起こすこと。
[補説]正当な抗議活動としての側面もあるが、SNSで情報を拡散するなどして激しく糾弾し、社会的地位を失わせる行き過ぎた事例も増えており、しばしば問題視される。
(デジタル大辞泉)
キャンセルカルチャーは、言論の萎縮をもたらす。
ポリコレ(ポリティカル・コレクトネス=political correctness)にのっとった、自らがバッシングされないための、偽善的な言葉の言い換えが進むわけである。
こうして、"differently abled(異なる能力をもつ)""uniquely abled(独自の能力をもつ)"otherly abled(別の能力をもつ)"などのポジティブな言い換えが次々と試みられた。"special needs(特別なニーズのあるひと)""challenged(障害にチャレンジしているひと)"のほか、"handicapable〟なる新語も登場した。"handicap(ハンディキャップ)"に"capable(有能な才能がある)"を加えた造語だ。リベラルなメディアは、障害者に言及するとき、"heroic(英雄的)""special(特別)"inspiring(ひとびとを鼓舞する)"などのポジティブな形容詞をつけるようにもなった。
(p.105.)
もちろん、このような言葉のお遊びが横行しても、障がい者の社会的排除の問題が解消されるわけではない。
それでは、ポリコレが猛威をふるうようになった背景には、なにがあったのだろうか。
橘さんは、グローバリゼーションこそが、ポリコレを生み、助長させたとする。
1991年のソ連解体で冷戦が終わると、グローバル化が急速に進み、わたしたちは、異なる国家に所属し、異なる文化や宗教をもち、異なる言葉を話す「他者」と日常的に接するようになった。それに合わせてポリコレが登場するのは偶然ではない。
ドメスティック空間には「俺たちのルール」があり、ものごころついたときから「適切な習慣」が徹底的に教え込まれる。共同体の全員が基本的な約束事を共有していれば、最低限のコミュニケーションで意思疎通ができるだろう(日本では「阿吽の呼吸」と呼ばれる)。
ところがグローバル空間では、それぞれ異なるルールをもつ者たちが出会うのだから、「俺たちのルール」は通用しない。
近代以前は、交易などの限定的な状況を除けば、こうした場面では殺し合いが始まった。それが近代以降、とりわけ第二次世界大戦後にリベラル化がさらに進んだことで暴力は強く忌避されるものになり、「生まれや育ちにかかわらずすべてのひとは平等でなければならない」という価値観が広まった。そうなると、グローバル空間のルールを新たにつくらなければならない。
グローバル空間というのは、人類史的にはせいぜいこの100年ほどで生まれたまったく新しい世界だ。そこでどのように振る舞うかのルールが遺伝子にプログラミングされているわけではないし、孔子も、仏陀も、ソクラテスも、グローバル空間を体験したことはなかった。
ポリコレとは、わたしたちが試行錯誤しながらつくりあげている、グローバル空間のルール・規範のことだ。ところが、誰かがルールを設定すれば、それは別の誰かの「俺たちのルール」を踏みにじったり、既得権を侵すことになる。このようにして、「正しさ」をめぐる政治闘争があちこちで勃発することになった。
(pp.63-64.)
けだし、炯眼であろう。
異論はない。
キャンセルカルチャーの主犯は、社会経済的弱者である。
ところが美徳ゲームにはもうひとつ、もっと簡単で効果的な戦略がある。不道徳な者を探し出し、「正義」を振りかざして叩くことで、自分の道徳的地位を相対的に引き上げ、美徳を誇示する戦略だ。
近年の脳科学が発見した不都合な事実のひとつは、不道徳な者を罰すると報酬系が刺激されて快感を得るように脳がプログラムされていることだ。警察も法律もなかった人類史の大半において、巧妙な進化は、共同体の全員を「道徳警察」にすることで秩序を維持するという卓抜な手法を編み出した。不道徳な者はたちまち集団で吊るし上げられ、子孫を残すことなく遺伝子のプールから消えていっただろう。
このようにして、成功ゲームや支配ゲームをうまくプレイできない(その多くはステイタスの低い)者たちが、大挙して美徳ゲームになだれ込んでくるようになった。自らを「被害者」と位置づけ、正義の名の下に他者を糾弾することは、社会的・経済的な地位に関係なく誰でもできるし、SNSはそれを匿名かつローコスト(ただ)で行なうことを可能にした。これで、「正義というエンタテインメント」を存分に楽しめる。
キャンセルカルチャーの社会的・生物学的な背景は、このようにまとめることができるだろう。
(pp.150-151.)
これも、見事な分析だ。
さしずめ、ネオフランクフルト学派による新たな大衆社会論といったところか。
この観点は、理論化していく価値があると思うので、機会があれば、論文に書きたい。
でも、わたしにかぎっては、「成功」したり、他者を「支配」したり、自らの「美徳」を誇示して快感を得るような、そんな心性は、希薄である。
トランス女性とそのアライ、レズビアンのフェミニストとのあいだの対立も、キャンセルカルチャーの主戦場だ。
トランスキッド(ピンクボーイのトランス女性)は、性的指向が男性(異性愛者)なので女性への脅威にはならない。ところがオートガイネフィリアのトランス女性は、性的指向が女性(同性愛者)である可能性がある。女性用更衣室や公衆トイレをトランス女性にも利用させるのか、という議論が(日本以上に)欧米で大問題になっているのはこのためだ。
(p.229.)
ちなみに、ピンクボーイとは、「女っぽい男の子」の意味で、オートガイネフィリアとは、ジェンダー移行前は異性愛者、つまり性愛対象は女性で、移行後も性的指向が女性に向かう「同性愛者のトランス女性」を意味する。
いつ、キャンセルカルチャーの餌食になるかわからない世界のなかで、わたしたちは、どうすればいいのだろうか?
SNSのテクノロジーによって、こうした“正義の怒り”があちこちで噴出するように
なったが、一方的に攻撃される側からすれば、それは「大衆の狂気」以外のなにものでもないだろう。
道を歩いているだけで、いつ誰から殴りかかられるかわからないような世界はものすごく不安にちがいない。だからこそ人類は、さまざまな方法で暴力を管理・抑制しようとしてきた。
だが皮肉なことに、それによってわたしたちは、いつ「加害者」と名指しされ、バッシングされるかわからない世界を生きることになった。言葉の暴力は、客観的には身体的な暴力よりずっとマシだろうが、主観的には、不安の程度はほとんど変わらない(脳は身体的な暴力と言葉の暴力を区別できない)。
双方が合意できる基準がない以上、「加害者」と糾弾された者は、自分のことを理不尽な暴力(大衆の狂気)にさらされた「被害者」だと訴えるだろう。このようにして、双方の憎悪だけが高まっていく。
それに対して、家族や友人との狭い世界(親密な空間)であれば、どんな発言をしようと責められることはなく、リラックスした時間を楽しむことができる。キャンセルカルチャーが広がれば、多くのひとは他者とのコミュニケーションを避け、社会から撤退していくのではないだろうか。これは一般に保守的な態度とされるが、人種や宗教、政治イデオロギーのような面倒な話題を避けるのはリベラルも同じだ。
「そんなことでは差別はなくならないではないか」という反論はあるだろう。だがその場合は、リベラル・リテラシーがさほど高くない(私を含む)大半のひとたちが、どのようにこの事態に対処すればいいのかを具体的に示す必要がある。
(pp.248-249.)
常識的な見解だろう。
わたしたちは、他のクルマに煽られても、相手にせず、やり過ごすだろう。
それと同じことだ。
対話と合意による世界を待望しはするものの、いったん退却したが賢明、というところか。
本ブログも、匿名のままで、続けることにしよう。
わたしは、SNSはほとんど使っていないが、それも正解なのだろう。
現在では、キャンセルカルチャー産業が隆盛しているという。
資本主義社会では、ひとびとの活動すべてが市場で売買されるようになる。もちろん、「社会正義」も例外ではない。
キャンセルカルチャー産業にとっては、アクティビストが正義の拳を振り上げ、地雷に触れて「爆死(炎上)」する者が増えれば増えるほど、サービスへの需要が殺到し富が増えていく。アクティビストのなかにも、DEIのトレーナーやコンサルタントになって成功する者が出てくるだろう。
この世界が地獄になるのは、得体の知れない「陰謀」のせいではなく、その方が都合がいい者がいるからなのだ。
(p.270.)
DEIとは、「多様性(Diversity)」、「公平性(Equity)」、「包摂(Inclusion)」を意味するが、わたしたちには、SDGsともども、言葉だけ、上っ面だけの偽善に唾を吐きながら、慎重に、キャンセルカルチャーを回避していく狡猾さが必要だ。
社会正義はめんどくさい。
人種や性別、性的指向などによらず、誰もが「自分らしく」生きられる社会は素晴らしい。だが、光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。「誰もが自分らしく生きられる社会」の実現を目指す「社会正義(ソーシャルジャスティス)」の運動は、キャンセルカルチャーという異形のものへと変貌していき、今日もSNSでは終わりのない罵詈雑言の応酬が続いている──。わたしたちは天国(ユートピア)と地獄(ディストピア)が一体となったこの「ユーディストピア」をどう生き延びればよいのか。ベストセラー作家の書き下ろし最新作。
累計20万部突破『上級国民/下級国民』『無理ゲー社会』(ともに小学館新書)に続く、橘玲氏の待望の最新作です。
目次
1 小山田圭吾炎上事件
2 ポリコレと言葉づかい
3 会田誠キャンセル騒動
4 評判格差社会のステイタスゲーム
5 社会正義の奇妙な理論
6 「大衆の狂気」を生き延びる