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本と音楽とねこと

娘が母を殺すには?

三宅香帆,2024,娘が母を殺すには?,PLANETS.(10.17.24)

 かつて、「父殺し」の物語はあっても、「母殺し」のそれがなかったことを考えると、隔世の感がある。

 本作では、いかにして「母を殺す」のか、母と娘の葛藤を描いた漫画や小説を読み解き、解を模索していく。

 母娘問題は、多分に世代の問題である。

 『乳と卵』も『爪と目』も、2000年代後半~2010年代前半が、文学において「母と娘の困難」というテーマが発見された時代であったことを示している。当時、娘たちは突然、母の問題について語り始めた。その背景には、世代の問題が存在する。
 当時30代となった団塊ジュニア世代以降は、男女ともに大学進学率が急上昇した。しかし彼らは、就職する段階になって、就職氷河期に苦しんだ。そのため団塊ジュニア周辺世代の娘たちは、不安定な雇用ゆえに実家にずっといたり、結婚せずに母と仲良くし続けたり、産後に仕事を辞めざるを得ず、実家に帰ったりするようになった。結果として、「かつては教育熱心で、いまは夫とコミュニケーションをとらずに娘と仲良くし続けようとする母」と、「実家に住居や育児のサポートを頼っているがために、母と密着し続けてしまう娘」という構図が増幅した。

 幼少期:教育熱心な母・母の期待に応えようとする娘
 成人後:(夫よりも)娘とのコミュニケーションに熱心な母・経済的に実家に頼らざるを得ない娘
 中年期:(夫よりも)娘にケアしてほしい母・母をケアしてしまう娘
(pp.114-115)

 団塊ジュニア世代以前の娘たちは、母の規範に苦しんでいたとしても、結婚することで自らが母になり、母の規範から外れることなく生きられた娘が多数派だった。少数の、母の規範通りに生きられなかった娘たちは、女性が社会進出できない時代に、声を上げる方法がほぼなかった。だからこそ、少女漫画や少女小説といった媒体でのみ、母娘の葛藤は表現されていた。
 しかし、団塊ジュニア世代の娘たちに関しては、時代が母の規範通りに生きることを許さなかった。結婚や就職といった自己実現を、不景気が阻んだからだ。この時代、結婚も就職も一部の人のものになった。家を出ることができず、母子密着から脱出することができなかったか、一度は家を出たとしても、育児でまた母とかかわらざるを得ない娘が大半だった。
母娘密着は続いたままなのに、母の規範通りに生きることはできないそのような状況が、娘たちに「母が重い」という言葉を語らせた。一方で、女性の社会進出が進んだからこそ、娘たちは母について語る言葉を発信することができるようになった。
 そうして、はじめて娘たちは母への嫌悪を語った。
(p.116)

 もっぱら賃金稼得者として長時間労働に明け暮れる夫・父の家庭での不在が、母子、とくに母娘カプセルを強化する。

 夫が不在の家庭では、娘が母のケアをする役割を補ってしまう。たしかに、母と娘は同性同士で話が合うことも多いだろうし、娘は母を心配してくれるだろう。仕事ばかりしていて、家のことが何もわからない夫と話をするよりも、同性の娘と話をしたほうが楽しいと感じる母がたくさんいるのは理解できる。
 だが、娘に母の精神的なケアを押し付ければ、娘の負担が大きくなってしまう。
 『凪のお暇』において、凪は母に対して幾度も「大丈夫?」と心配そうに尋ねる。まるで、自身もまた子どもをケアする「母」であるかのように。しかしそれは本来、娘に押し付けられるべき役割ではない。
弱い母は、娘にケアを求める。だが、その原因をつくったのは、逃走した夫だった。『凪のお暇』において、東京で「逃げる」武の姿は、北海道から「逃げられない」母と凪とは対比的である。ここには明確なジェンダー差がある。女性に自己犠牲的なケアを求める日本社会は、夫が家庭から逃走することを許し、女性が母になることを美化して語る。
 父・母・娘(・息子)という家庭において父が不在になれば、母と子の密室が生まれてしまう。息子はその密室から「マザコン」という批判をもって脱出することができても、娘はその密室から脱出する術を持たない。しかし娘も、母との密室から脱出しなくては、いつまでも「それは母が許さない」と唱え続けることになる。
(pp.149-150)

 「母を殺す」方法、それは、母以外の他者を欲望し、新たな価値規範を内面化して、母を相対化することだ。

 逆説的ではあるが、母を殺そうとすればするほど、すなわち敵として対峙すればするほど、母の規範は強化される。母は絶対的に大きな、神のような存在となり、余計に殺せなくなる。
 しかし母は、唯一無二の絶対的な神ではない。完璧な母性を持った人間でもない。母もまた、ひとりの不完全な個人にすぎないのだ。
 そして、母の愛は、この世にある愛のひとつにすぎない。母の愛以外にも、この世にはさまざまな愛があるし、母の呪い以外にも、この世にはさまざまな呪いがある。
 母もまた、自分の世界に登場する人間のひとりであることを思い出すこと。他者を欲望し、他者の価値規範を自分のなかに取り入れ、母の価値規範を相対化すること。結果として、母の規範を絶対視する世界から抜け出すこと。それが、本書が提示したい「母殺し」モデルなのだ。
(pp.182-183)

 「母殺し」に必要なのは、娘自身の他者への欲望である。
 そして「母殺し」とは、母の規範を相対化し、他者への欲望を優先させることである。これが本書の結論である。
 ここでの「他者」は、モノでも、ヒトでも、コトでもいい。
 「それは母が許さない」と言うような娘がいたとき、娘は母の規範でがんじがらめになっている。しかし社会で生きるなかで、他者と出会い、欲望を発見し、自分のやりたいことや好きなことや関わりたい人と出会う。それによって、娘は「母の規範と対立する存在」を見つけ出す。そのときはじめて、「母殺し」は可能になる。娘は、母の規範が絶対に従わなければいけないものではなく、ただ地球上に存在する規範のひとつに過ぎないことに気づく。
 たとえ母に許されなくとも、叶えたい欲望があることに、娘が気づく。
 「母殺し」には、そのようなプロセスが必要なのだ。
 そして、母の規範を手放すには、まず母の規範の存在に気がつく必要がある。だからこそ、現代日本の娘たちは、意識的に母の規範を言語化し、母の規範を意識的に手放すことが必要だ。母の規範と対立するものと出会ったとき、いまが「母殺し」のタイミングなのだと自覚することが重要なのである。
(pp.203-204)

 そして、母もまた、娘以外の他者と出会い、娘を相対化する必要がある。

 母娘問題というと、とにかく「母」が悪者で、そんな「母」からどうやって「娘」が逃げるか、という問いが描かれやすい。しかし『娘について」を読んでいて感じるのは、「母」もまた、理解できない「娘」との密室関係に閉じ込められるのはしんどいのだ、という事実である。
 「母」だって、母娘の密室に留まり続けることに、葛藤している。
 そのため、母娘関係には、とにかく他者を登場させることが重要である。
 娘の場合は、自分の欲望に従って母以外の外部の他者と出会い、母の規範を相対化することが必要になる。母の場合は、娘以外の大切な他者──幸福を願うことのできる他者──が必要になるのだろう。そうした他者があることで、娘の幸福を自分の幸福に直結させすぎずに済む、つまり、母と娘との自他境界ができる。
 母と娘が、お互いを唯一無二にしないこと。母と娘が、お互い以外に欲望を向けること。それが母娘の密室を脱出する方法なのである。
(pp.201-202)

 三宅さんの、漫画や小説を読み解くリテラシーの高さに舌を巻く。

 本作品には、母との葛藤に苦しむ娘たちへの力強いメッセージが込められている。


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