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本と音楽とねこと

ザ・シット・ジョブ

ブレイディみかこ,2023,私労働小説──ザ・シット・ジョブ,KADOKAWA.(2.3.24)

 本作品は、六話の物語により構成されている。
 六話、その一つ一つが、実に深く、こころに染み入る。

 第一話、チホは、中洲のクラブとガールズパブで働き、渡英するための資金を貯めている。
 チホは、どうしようもない男性客の失礼な言動に、日々、傷つく。

 年齢、美醜、失礼。さっきから、この場の会話はその三つを軸にぐるぐると回っていた。それはまったく水商売というものを象徴しているような三つの言葉だ。あたしたちは年齢と美醜で判断されて、失礼な言葉や態度を許容することでお金を貰っている。
 ということは、客は女を年齢や美醜で判断し、失礼なことを言ったり、したりするために金を払うわけだ。中洲のジャズクラブは上品だったのでその構図は見えにくかったが、深夜から働くガールズパブではあからさまになっていた。失礼を売り、失礼を買う。失礼は金になるのだ。
(pp.32-33.)

 夜職は過酷だ。
 昼職で、そこがまともな職場であれば、カスハラは、ある程度、防げる。
 しかし、例えば、クラブでは、そうはいかない。
 失礼を耐え忍ばなければ、シノギにならない。
 ネオリベ的価値観がハラスメントとともにまかりとおり、ポリコレとコンプラさえ適用されない、無法、というより、法の外にある暗闇の世界。
 まともな女性であれば、葛藤もあるだろう。
 自らのセクシュアリティを武器に不特定多数の男に自らを売ること、その屈辱。
 しかし、その屈辱は、確実に金になる。
 我慢して大金を稼げば、「自分の努力の成果が得られた」という達成感が得られ、「ネオリベ的心性」が充たされる。
 苦しいのは、年齢や美醜をネタに失礼な振る舞いをする客に憤り、こころのなかで、「わたしの価値は年齢や美醜だけにあるのではない」と思っていても、まさに、その年齢と美醜により、彼女の営業成績が決まってしまう、というアイロニカルな現実にある。
 彼女は、実は、自らが年齢や美醜だけで値踏みされ失礼をはたらかされることに憤るが、まさにその年齢や美醜こそが、自らのネオリベ的心性を充足していることに薄々気づいてはいるのだろう。言えることは、このアイロニーが、確実に、彼女のこころを蝕んでいるということだ。彼女は自らを嫌悪せざるを得ない。つまりは、自分を愛せない。
 また、彼女が、「からだは売らずともこころを売っている」ことも、彼女を傷つける。
 根がまじめで、仕事熱心、売り上げこそが他者の承認の証、そんな彼女は、次第に、「仕事」と「私生活」のけじめがつかなくなり、同伴に、アフター、客にデパートで高価なブランドものの服やバッグを買ってもらうようにさえなる。本人は「これも営業成績を上げるため」と思っていても、周りはそうは思わない。そして、周りの、「パパ活いやあねえ」という侮蔑のこもった視線が彼女をさらに傷つける。
 同伴やアフターがなく、「からだは売るけれともこころは売らない」でいることができる、デリヘル嬢やソープ嬢の方が、まだ心穏やかでいられるのかもしれない。
 いや、クラブホステスは、「こころを売っている演技」をしているだけだという反論があるかもしれない。
 しかし、それは社会学の基礎的な理論により反駁される。
 人の人格は、役割演技(role-playing)により、形成される。本人は演技でしかないと主観的に思っていても、それは、パフォーマティブに、確実に、その人の、人格なり、アイデンティティとなる。「演技」はいつしか「本気」に変わる。
 厄介なのは、ホステス稼業がネオリベ的心性を充たしてくれるだけではなく、本作にあるとおり、傷ついたこころを、シスターフッドによりつながった同僚が癒やしてくれたり、また、ときには、客が、「良き友人」として振る舞い、彼女の承認欲求と「愛を乞う」こころを充たしてくれる、その点にある。
 厄介な、とても厄介な、アンビバレンス、ダブルバインド、アイロニーが、そこにはある。
 切ない、ほんとうに切ない、、、

 『わたしはダニエル・ブレイク』で、ダニエルが言った、
尊厳を失ったら、
終わりだ、
 この台詞は、とてもとても、こころに刺さる。


「わたしは、ダニエル・ブレイク」予告編

 「第五話 ソウルによくない仕事」で、「あたし」の居候先の家主である「チャカの母親」が、こんなことを言う。

「人間が低くなるには、二つあるんだ。一つ目は、他人に低く見なされるから自分が低い者になったように思えるとき。これは闘うべきだし、どちらかといえば簡単な闘い。もう一つは、本当に自分自身が低くなっていくように思えるとき。こういうときは、その場からできるだけ早く離れるべき」
「あたしたちみたいな仕事をしているとね、いつも人から下に見られる。だけど、自分自身を愛していれば、それに抵抗できるし、自分を低くさせているものと闘うことができる。でも、自分自身が人間としてどんどん低い者になっていく感覚があると、自分が愛せなくなる。あなたは自分を愛してる?」
「それが仕事のせいなら、やめたほうがいい。自分を愛するってことは、絶えざる闘いなんだよ」
(pp.193-194.)

 さて、本レビューで仮想した(あくまで仮想)、クラブホステス嬢は、自分を愛せるようになるのであろうか。
 「自分を愛するってことは、絶えざる闘いなんだよ」という言葉を胸に、「自分のソウルによくない仕事」に従事しながらも、自分を愛せるストレングスを獲得することができるのであろうか。

 本作の魅力は、尽きるところがない。
 言葉を選ぶセンス、ストーリーテリングの巧みさは言うまでもなく、読み手のこころの深部に刺さる叙述は圧倒的だ。わたしは、読みながら、ところどころで、涙ぐんてしまった。
 強くおすすめしたい作品である。

「あたしのシットはあたしが決める」
ベビーシッター、工場の夜間作業員にホステス、社食のまかない、HIV病棟のボランティア等。「底辺託児所」の保育士となるまでに経た数々の「他者のケアをする仕事」を軸に描く、著者初の自伝的小説にして労働文学の新境地。
「自分を愛するってことは、絶えざる闘いなんだよ」
シット・ジョブ(くそみたいに報われない仕事)。店員、作業員、配達員にケアワーカーなどの「当事者」が自分たちの仕事を自虐的に指す言葉だ。
他者のケアを担う者ほど低く扱われる現代社会。自分自身が人間として低い者になっていく感覚があると、人は自分を愛せなくなってしまう。人はパンだけで生きるものではない。だが、薔薇よりもパンなのだ。
数多のシット・ジョブを経験してきた著者が、ソウルを時に燃やし、時に傷つけ、時に再生させた「私労働」の日々、魂の階級闘争を稀代の筆力で綴った連作短編集。
■声を出さずに泣く階級の子どもがいる。
■水商売では年齢と美醜で判断されて、失礼な言葉や態度を許容することでお金を貰う。失礼を売り、失礼を買う。失礼は金になるのだ。
■(相手を)何かを感じたり、ムカついたりする主体性のある存在として認識しない者は、相手の賃金だけでなく、人間としての主体性さえ搾取している。
■革命とは転覆ではなく、これまでとは逆方向に回転させることなのかもしれない。

目次
第一話 一九八五年の夏、あたしたちはハタチだった
第二話 ぼったくられブルース
第三話 売って、洗って、回す
第四話 スタッフ・ルーム
第五話 ソウルによくない仕事
第六話 パンとケアと薔薇
あとがき

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