上野千鶴子,2003,上野千鶴子が文学を社会学する,朝日新聞出版.(7.3.24)
あの『男流文学論』で文壇に賛否両論の渦を巻き起こした著者が、再び文学に目を向けた文芸評論集。明治期からの文体の変遷をたどる「ことば」の章、『恍惚の人』と『黄落』から、老人介護文学の中の性差を追究した「おい」の章など、『男流文学論』のその後も加えた、刺激的な文学論。
文学は、時代と状況の産物であり、そこを生きた人物、その心性の表象である。
となると、文学は、社会学の有力で、身近な研究対象となりうる。
上野さんが「老人介護文学」として位置づけた、佐江衆一の『黄落』。
自分を「身勝手な男」と呼ぶ男は、すでに「身勝手な男」ではない。自分の「身勝手さ」に苦い思いを噛みしめている男である。彼が「古めかしい意識の中に澱んだ冷えきった血」と暗示的に呼ぶのは、父親と同じく「介護は嫁がして当然」とする「長男意識」である。その意識が、妻に礼を言う自分をいまいましく思わせる。
この作品を書いたあと、佐江さんは「娘からは、この作品は身勝手な男の自己満足の作品であると、一刀両断に切捨てられてしまいました」と発言している。ある週刊誌に載っていた文芸批評では、主人公を批判する妻と娘の態度から現代女性の狭量さがうかがえる、などと書かれ、唖然としたという。「男の文芸評論家なんてのはこの程度。ちっとも分かってないんですよ」[『月刊清流』、清流出版、1995・10]と佐江さんがいう「ある週刊誌の文芸批評」とは、『週刊現代』「1995.7.22]の欅信彦の書評である。
この(娘の)発言と、作中の蕗子が母の葬儀の後、なぜ遺族の前で私に感謝しているといってくれなかったのかと夫をなじる言葉の中に、耐える心やいたわりの心をすっかり失なってしまった現代日本女性の駄目さかげんがみごとに浮き彫りにされている。老人問題の少なからぬ部分が女性の意識の狭さに起因していることを暗示しただけでも本書の功績は大きい。
「男のエゴを描いたんです」という著者に対して、「女の狭量さ」を読みとる評者もいる。テクストがここまで「多様な読み」に開かれたら、「現代国語」の入試問題の制作者も混乱することだろう。こういう感覚の持ち主が高齢者福祉の政策決定者の集団にいないことを祈るばかりだ。
(pp.83-84)
日本人の価値意識には、1990年代から大きく変わったものもあれば変わらないものもある。
高齢者介護の役割期待意識は、もっとも大きく変わったものの一つだ。
夫婦はあかの他人、夫もしくは妻の親はもっと疎遠な他人にしか過ぎない。
いまどき、自分の親の介護役割を妻に期待する男は、そもそも結婚できないだろう。
感謝すれば親の介護を妻に引き受けてもらえる、そんな時代はもはや過去のものとなった。
日本社会においてつねに理想化されてきた母性。
日本人の人間関係は、「やさしくつつみこみ呑み込む」母性原理によって成り立っているとの言説さえまことしやかに受容されていた。
上野さんは、セクシズムを通底させながら成立した近代社会における、父-息子、母-娘関係を、以下のように描写する。
「恥ずかしい父」は文化の産物ではなく、歴史の産物である。生まれながらに身分や地位の定まっている前近代の社会で、妻や息子が父の低い身分を「恥」に思ったり、息子に父の地位を超えることが期待されたりすることは考えにくい。個人の力量次第で社会移動が可能な社会になってはじめて、もっと正確に言えば社会移動に関する信念が成立してはじめて、低い身分に甘んじる父は「恥ずかしい」存在となり、父を超えられない息子は「ふがいない」存在となる。息子が父のようになることがあらかじめ定まっている社会では、「大きくなったら何になるの?」という、近代の子どもたちを小さいときから悩ましつづける問いそのものが、成り立たない。
エディプスの物語はつねに息子の側から成り立っているから、フロイトが語らない「日本のエレクトラ」の物語も補っておく必要があるだろう。母子同盟はつねに母と息子のあいだの同盟であり、娘はこれには関与しない。「いずれは他家の人」であることを運命づけられている娘に母親は息子ほどには関心を向けないばかりか、娘は同性の若い女として母の隠れたライバルでもある。だからといって日本のエレクトラは、ギリシ悲劇のエレクトラのように父親に同一化もしない。母の抑圧者である父は夫として最悪の役割モデルであるばかりでなく、その家庭の専制君主に唯々諾々と従う母もまた、「こうはなりたくない」反面教師でしかない。かくして娘は家のなかでもっとも仮借ない批判者となる。とはいえ、その家のなかから自力で抜けだす道は娘には閉ざされている。自分の運命もまた見も知らぬ男の手にゆだねられ、母の運命と同じような道をたどるほかないと自分の無力を呪うことで、日本のエレクトラは「不機嫌な娘」と化す。彼女は不機嫌を隠そうともせず、自己中心的で現在志向(せつな)的なふるまいに走る。「ふがいない息子」が近代の産物であるように、「不機嫌な娘」もまた近代の産物にほかならない。近代の娘にとっては「結婚」は選択の余地のない宿命とは考えられていないから、自分の責任において「まちがった選択」をした母親の不幸が免責されないのである。「(父のような夫を選ぶという)母さんのようなどじはしないわ」とうそぶきながら、娘は自分の「幸福」を母同様にあなたまかせにするほかない無力に、ほぞをかむしかない。
(pp.124-125)
上野さんは、母性の名の下で権力が行使され、世代間で継承、再生産される家父長制を、「女装した家父長制」と呼ぶ。
鋭い。
疑問の余地はない。日本もまた家父長制の社会である。ただその権力の行使が「母性」の名において行われている分だけ、「敵」の見えにくいやっかいな相手なのである。
水田宗子は「双系制」という奇妙な概念をめぐる柄谷行人らとの座談会のなかで、「マザコンというのは母系社会の病理ではなくて、父権社会の病理なんです」と喝破する。一見「母性支配」に見えるが、それは「母」による家父長制の代行権力の行使である。「父の不在」と見えるものは、父の意を体した「母の支配」によって補填されている。「家父長制」が女の股から生まれた息子を、女性を侮蔑すべく女性嫌悪者misogynistに育て上げるしくみならば、「マザコン」息子は次の世代においてみごとに同じような家父長制家族を再生産する。
「母性」の名における家父長制支配、とりわけ「自己犠牲する母」「自虐する母」のすがたを借りた母の代行支配は、「女装した家父長制transvestite patriarchy」と呼んでよいかもしれない。その「女装」のおかげで「父」は「不在」を決めこみ、無責任を装っていられる。子どもの側のルサンチマンと攻撃の矢面に立つのは「母」のほうだが、「母」の献身を誰よりも搾取しているのは「不在の父」である。そしてこのメカニズムをつうじて、「母」は息子を次の世代の自己中心的な「父」へと、娘を自分と同じような自己犠牲的な「母」へと再生産しようとする。それに対して、「不機嫌な娘」がノーを言ったとして、誰がそれをとがめることができるだろう。
(pp.141-142)
未成熟で自己中心的な男と、かいがいしく自己を犠牲にして尽くす女、これは家父長制を内面化した者たちの、近代日本の家族における理想的な夫婦のありようであった。
しかし、女性たちは、もはや、自己犠牲を受忍する存在ではなくなっていく。
上野さんは、その表象を、1980年代の文学作品に見いだす。
八〇年代の日本文学はもはや「苦しむ母」を引き受けようとしない「不機嫌な娘」たちによって書かれている。『抱擁家族』の時子とちがって、彼女たちはもはや結婚のなかにとどまっておらず、子どもより自分の欲望を優先する。津島佑子の小説の主人公はしばしば離婚した子連れの女性であり、彼女は娘が自分の不安定な人生に巻き込まれるのは娘の宿命だと開き直っている。山田詠美の女主人公は何よりも自分の欲望を優先して生きる。八〇年代を代表するコミック、紡木たくの『ホットロード』[集英社、1986~87]のなかでは、団塊の世代の離婚した母親が、暴走族にひかれる十代の娘の心理的な不安よりも、自分の新しい恋愛のゆくえを気にかける。そして娘から、こういう言葉を投げかけられる。
「ちょっとは母親らしくしてよね」
彼女たちはポスト『成熟と喪失』の時代を、すなわち崩壊後の家族を生きている。「母親らしくない」母に育てられることで起きる「日本人の倫理感の危機」をめぐる問いなど、犬にでも食わせるがいい。その母の背後には、とっくに「父役割」を放棄した男性がいる。日本人の倫理をめぐる問いに女性だけが答える責任はない。日本の家父長制が「母の自己犠牲」によってようやくその屋台骨を支えられてきたのなら、女性の変貌がその屋台骨を土台から掘り崩したとしても、それを非難する資格は誰にもない。
「倫理」をめぐる問いのなかで、家族、とりわけ「日本の母」は、過重に大きな役割を果たしてきた。日本文化論が非歴史化しようとしてきた「日本の母」が、どのような言説の政治のもとにあるかを知れば、それを無邪気に理想化することはできなくなる。近代文学は文化の言説をつくりあげる強力な共犯者の役割を果たしてきたが、同時に戦後の決定的な「母の崩壊」と「女性の変貌」を証言してもきた。変貌した女性が家父長制の共犯者になることを拒否するとして、そのことのために女性自身が新たなアイデンティティの危機に見舞われたとしても、それはまた別の問題である。
(pp.143-144)
未成熟で手前勝手な性幻想をいだく近代日本のマザコン男は、聖母であると同時に娼婦でもある、存在するはずもない理想の女をもとめて、「家庭への逃走」を経て「家庭からの逃走」をはかる。
日本で、なぜかくも接待飲食業が盛んなのか、謎が解けるというものだろう。
しかし、色恋をネタにカネを儲ける水商売の女に、そうした幻想を仮託しても無駄というべきであろう。
関根は「かなしくなつかしい娼婦」という主人公の夢が、端的に娼婦を「理想化された〈妻〉」として発見することだと喝破する。
娼婦(中略)は〈母〉の慰安は与えるが、そのしがらみとは無縁な存在であり、生殖、子育てといった生活の重さをひきずらず、ひたすら官能的な〈情婦〉でもある。気に入ったなじみの娼婦を持つことは、従って、やさしい母でもありエロティクな情人でもあるような〈妻〉をもつことなのだ。[関根前掲書]
だが、その夢を託した当の娼婦は、じゅうぶんに世俗的な打算を持っている。水田の言うように、男にとっては〈私〉への退行や「反俗」と見えた場所は、「その世界に身を置く女たちにとっては、社会から公認された女のセクシュアリティによる経済活動の場であり、〈私〉の空間どころではない」[水田前掲書]。荷風の醒めた目は、どこまでも娼婦と距離をおいてその世俗性を見すえているが、『娼婦の部屋』の主人公はいったんは娼婦に〈女という夢〉を見て、それからそれに幻滅する。その幻滅にいたる過程を描いた点で、たしかに作者は、関根のいうとおり「男女関係をめぐる理想と現実との分裂した裂け目の中で自失している〔注・主人公〕『私』のリアリティを過不足なく捉えていると言ってよい。」「関根前掲書]
だが荷風にあっては、女を性の対象としても関係の相手とはしない、醒めたダンディズムであったものが、吉行のなかでは関係の可能性と不可能性とのあいだでゆれている。このいかにも戦後的な中途半端さに対して、関根は過剰に同情的に見える。
娼婦を恋人にした男の悲喜劇を自己風刺を含んだ複眼的な視線から描くことで、この物語は近代日本の男たちが女性との関係に求めてきたステレオタイプな夢の戯画たりえている。[関根前掲書]
その夢とは「エロティクな母である女と融通無碍に依存しあい、甘え合いたい」というものだが、この夢は戦後のたてまえ近代化の影で「半ばタブー化された恥ずべき本音となり、見果てぬ夢となって、男たちの内に蟠り続けている」と関根は指摘する。
(pp.162-163)
「連合赤軍とフェミニズム」。
彼女たちの愚かさを嗤うのはたやすい。だが、それ以前に、「革命」の論理が、驚くべき男権主義的なヒロイズムにつらぬかれていたことを知らなければならない。その男権主義にまず男たち自身が酔い、そして女たちをもまきぞえにしていった。反体制運動が、「もうひとつの家父長制」、エリートになりそこねた男たちによる対抗エリート主義にほかならなかったことは、新左翼の男たちが愛した任俠ものの映画にも見ることができる。彼らは、命をかえりみず死地におもむくやくざのヒーローを演ずる高倉健に同一化し、喝采をおくった。そして柱の陰には、男を見送るかれんな藤純子が、袖をかみしめて涙をこらえている、という通俗的な構図である。
その時、女にはふたつのオプションがあった。「藤純子」を演ずるか、「ゲバルト・ローザ」になるか、言い換えれば、男に尽くし愛される「かわいい女」になるか、それとも男の価値を内面化して男なみの女になるか。新左翼の多くの女は、この両極に引き裂かれた。男に愛されようとすれば、「戦力」にならない「女らしさ」のなかに甘んじなければならず、男なみの能力を発揮しようとすれば「男まさりの女」として、男から愛されることを断念しなければならない。そしてどちらも「男につごうのよい女」という意味では、大塚の言うとおり、「かわいい女」ではあったのだ。カリカチュアライズすれば、連合赤軍の「総括」とは、「ゲバルト・ローザ」による「藤純子」の殺害であった。そして女を二種類に分けることで対立させ、分断支配することこそ、男性支配の定石ではなかったか。
(pp.199-200)
「男に愛されるかわいい女」と「名誉男性として男に伍する女」、女性がこの両極の価値に引き裂かれてしまう問題は、現在もなお引き継がれている。
しかし、その事実性を知っているかいないかは、大きなちがいだろう。
第二波フェミニズムの功績の一つは、「権力はあまねく偏在する」という問題意識のもと、「個人的なことは政治的なこと」を地で行く権力作用を、日常生活のあらゆる領域──職場、学校、家庭、クローゼットの中やベッドの上に見いだしていったことにあろう。
『性幻想―ベッドの中の戦場へ』[学陽書房、1990]は静かな挑戦の書である。文庫版の本書の原著が刊行されたのは一九九〇年。今から十年前である。「性幻想」というタイトルは今でも衝撃的だ。今日では性が「幻想」の産物だと言うのは「常識」になってきたが、つい最近まで、性が「本能」や「自然」だと考える人たちはいたし、そして今でもいる。アメリカ性情報・教育協議会のカルデローンとカーケンダールが「セクシュアリティ」を「セックス」から区別して定義するように、「セックス」は「両脚のあいだに」、そして「セクシュアリティ」は「両耳のあいだに」ある。両耳のあいだにあるのは、大脳である。わたし自身がかねてから主張してきたように、性について語るのは「下ネタ」どころか「上ネタ」、人間の歴史と文化に関わることなのだ。幻想なくして人は発情することさえできない、社会的な生き物である。
副題の「ベッドの中の戦場へ」という表現は、それ以上のきしみを生むことだろう。思えば、ベッドの中で裸形で向き合った一組の男と女を、文字どおりの「裸のつきあい」と、権力も規範も及ばない社会からの「避難所」、秩序からの「解放区」と、どれだけ多くの人々が半ばは期待をこめて語ってきたことだろう。それが希望的観測でなければたんなるかんちがいにすぎないことを、「戦場」ということばは苛烈にあばく。裸の男女は、男と女をつくりあげた歴史と文化の総体を背負って向かいあう。日常生活のなかで男に従ってきた女が、ベッドのなかだけで対等になれる道理もない。「個人的なことは政治的である」というフェミニズムの標語を、これほど簡潔にいいあらわした表現はあるだろうか。
男が女と寝ているのではない、「男制」が「女制」と寝ているのだ、と喝破したのは伏見憲明さん[『プライベート・ゲイ・ライフ』学陽書房、1991]である。男や女をつくりあげるさまざまな文化的な記号に、わたしたちは反応し、発情する。そこに「自然」なものは何もない。襟足や足首にとくべつに固着するフェティシズムがあるとしたら、乳房や性器もまた、フェティッシュな記号として働いている。異性の性器を見さえすれば自動人形のようにひきおこされる欲情は、さまざまに異なる性器がすべて単一の記号へと収斂されるような範型化の産物だ。そこでは人は、性欲の奴隷ではなく、記号の奴隷なのである。
男はそのようにして女を、女体を、セックスを語ってきた。が、いずれも幻想の女、幻想の女体、幻想のセックスにほかならない。わたしたちが聞かされてきたのは、男の性幻想だった。そして男仕立ての性幻想のシナリオに合わせて、「女」という記号を共演することを要求されてきたのだ。シナリオどおりにふるまえば「理想の女」とあがめられ、シナリオからはみだせば「女じゃない」と排除されて。男のシナリオの裏側にある、女のシナリオについては、長いあいだ沈黙が支配してきた。あまつさえ、「女に性欲はない」と否認されて。同じベッドを共有しながら、男と女のあいだには長きにわたる「同床異夢」が続いてきたのだ。
(pp.267-269)
上野さんの文芸社会学は、作家性や作品性にこだわり自閉する文芸批評と、一線を画している。
いまなお内容の鮮度は落ちていない。
目次
ことば
平成言文一致体とジェンダー
おい
老人介護文学の誕生
おんな
女装した家父長制―「日本の母」の崩壊
江藤淳の戦後 ほか
うた
うたの悼み―『斎藤慎爾全句集』に寄せて
うたの極北―俳人尾崎放哉 ほか
こころ
癒し手とは誰か―『霜山徳爾著作集』に寄せて
ベッドの中の戦場―河野貴代美『性幻想』 ほか