見出し画像

本と音楽とねこと

その手をにぎりたい

柚木麻子,2014,その手をにぎりたい,小学館.(2.25.24)

(とても良い作品です。文庫版がお求めいただけます。ぜひ買ってお読みください。)

 はー、濃かったー、こんな濃厚な恋愛小説、初めて読んだ気がする、、、まじクール、、、鮨店を舞台にした「嵐が丘」かよw

 プラザ合意、円高、バブル経済期からその崩壊、平成不況に至るまでの10年の物語。

 主人公の不動産会社社員、青子、利発で感受性のアンテナ感度がビンビン女、まじまじクール。

 青子は、高級鮨店、「すし静」の板前、一ノ瀬に恋をする。
 一ノ瀬が握った寿司をそのまま手にし、口に運ぶ、、、青子、イチコロだ、、、

 「食べる」という行為は限りなくエロティックだ。
 わたしには、残念ながら、食×エロの体験がない。
 食×エロの世界の豊穣を見事に描きだした表現者がいる、、、
 伊丹十三、その人だ。

 Scenes from Tampopo: The Oyster

 エロい、エロすぎる。

 青子の、一ノ瀬への恋慕は、一ノ瀬の手へのフェチ愛に始まる。

「次は鰯、お願いします」
 今日は完全に光りもので攻めるつもりでいた。ややあって彼の手のひらから、直に銀色の輝き を受け取った。
 鰯の身には無数の小骨が潜んでいるから、下手な鮨屋で頼むと、口の中を怪我しかねない。でも、このネタは丁寧に細かい骨まで処理してある。冷たい鰯はどこまでも夢のように滑らかで、 ほのかに甘くさえある。ひんやりした舌が口の中に入ってくるように快い。冷酒が早くもまわり始めたのだろうか。さて、目の前の一ノ瀬さんの舌は、女の口の中でどんな動きをするのだろう。そもそも、キスの時に舌を入れるタイプだろうか。
 古風に見えるから、唇をあわせるだけの気もするが、青子の好みとしてはやはり舌はからませて欲しい。一ノ瀬さんのやや青ざめた薄い唇は皺が深く、からりと乾いている。立ち上がって手を伸ばせば触れられないこともない。二人を隔てる白木のカウンターがふと、うとましくなった。客と職人を分け隔てるこの細長い木材さえなければ、ただの男と女でしかないのに。
 最後にキスしたのは誰とだろう。そう、昨年、東京に残ることを決め、転職するまでの間、一時的に復縁したボーイフレンドの川本君とだった。彼の舌はぬるぬるとして、せわしなく動き、落ち着きがなかった。口づけから薄々予感していたとおり、セックスもぎこちなく、どこか上っ面だった。雑誌でかじった知識を青子を使って、試しているとしか思えない。何より、彼の手が女のように小さく、汗で濡れているのが気に障った。細身の彼が上になっても、これぞ、という重みを感じない。彼との終わりも淡々としたもので、なんとなくいつの間にか会わなくなった。
 次に男と寝るとしたら、もっと手応えがある時間を得たい、と青子はさほど多くない経験からたぐり寄せ、漠然と考える。汗や涙がしたたり落ちるような、自分の体に血が巡り、臓器があると思い出させてくれるような色濃い時間。たとえば、このカウンターくらいの高さに手をついて、後ろから突き上げられるような激しいセックスをしてみたい。大島さんのようなたくましく自信のある男に乱暴に腰をつかまれたら。いや、結局のところ、彼も肉体労働とは無縁の、皮膚の薄い手なのだ。その点、今目の前にある水をくぐりぬけてきた分厚い手ときたら──。
(pp.40-41.)

 青子は、「すし静」で、たびたび、銀座のクラブホステス、ミキと同席する。
 ミキは、「同伴」や「アフター」、あるいは「プライベート」でいつもオヤジと一緒の、「すし静」の常連だ。

「ごめん、たーさん。今日はここでね、また遊ぼう」
「何言ってるんだ。この後も付き合ってもらうよ。店、休みなんだろ」
「私、帰らなきゃ。ええと、田舎から妹が泊まりに来ているの」
 女はミキという「すし静」常連のホステスだった。これまで四、五回、カウンターで顔を合わせたことがある。きつい香水や男に媚びた態度、甲高い声がどうにも好きになれないが、見るたびにあでやかさを増しているのは認めざるを得ない。肩パッドのはいったボディコンシャスのワンピースはウエストがきゅっとくびれ、コーラ瓶のような体型を引き立てている。腰まで届くワンレングスが薄闇にぬらぬらと若布のようにたゆたっていた。くるぶしまで隠れるラルフローレンのシャツワンピースを着た自分とは対照的だ。
「男を莫迦にするのもいい加減にしろよ」
三十代半ばのやせぎすの男は、いよいよ余裕のない表情で声を震わせている。ミキの肩に置かれた手に力がこもっていることが離れていてもよくわかった。
「これだけ高い鮨おごらせておいて、ごちそうさまで帰ろうなんてさあ、ちょっとずるいんじゃないの。ここどういう店だかわかってるの? 天下の『すし静』だぞ。『すし静』。一ヶ月前から 予約したんだからな。いくらしたと思ってるんだ」
 どうせ、経費で落としたくせに──。男の背広に光る社章に、ちらりと目をくれ、青子は心底軽蔑する。営業部員として働くうち、ちょっとした持ち物にめざとくなった。
 こんな風に「すし静」を女を口説くための道具にするとか自分のステイタスを見せつけるために利用する男は少なからずいる。しかし、店に漂う優雅な雰囲気に気圧されてか、定着しないのが常である。こんな男女は放っておけばいい、と冷ややかに横目で通り過ぎるはずが、気付けば二人の間に割って入っていた。
「初めまして。私、野上産業の本木青子と申します。ミキさんの友人です」
 男が目を白黒させているのがおかしかった。ミキは呆気にとられた表情を浮かべたが、これ幸いと男から飛び退いた。
「その社章・・・。久楽商事の方ですよね。内幸町にこんど出来る御社のシステム部門のオフィス、うちが担当している案件なんですよ。どうぞよろしくお願いします」
 にっこりと営業用の強い笑みを浮かべたら、男はたちまち及び腰になった。
「あ、いや、そうなんですか。それはどうも.・・・。あの」
 もごもごと男は言い訳しながら、後ずさるようにタクシーの中へと逃げ込んだ。しびれを切らしたのか運転手はすぐにハンドルを握り、車はたちまちネオンの向こうに消えて行く。ほっと肩を落としたのもつかの間、今度はミキの仏頂面が立ちはだかった。
「余計なことしないでよ。お客さんを怒らせたら、私がママにお目玉くらっちゃう」
 まともに口をきくのはこれが初めてだ。感謝されるとばかり思っていたので、青子は面食らう。やがてむらむらと黒い怒りに浸されていく。
「じゃあ、あのまま、車に引きずり込まれてればよかったの?」
人通りの少ない夜道で二人はしばらくの間睨みあった。今夜こそは言ってやる。
「前から言おうと思っていたけど、その香水、お鮨屋さんにはどうかと思うわ。周りの人も迷惑してるの。季節を無視してトロばかり頼むセンスもね」
「は? ガリ勉優等生女が偉そうに・・・」
 ミキが忌々しいと言った様子で小さく舌打ちした。互いに良い印象を持っていないことは明らかだったが、こうまで憎まれているとは思わなかった。考えてみれば、男の力で店を訪れる彼女とあくまで一人にこだわる自分に、深い溝が生まれるのはごく当然のことなのだが。
「私が女くさいから目障りだっていいたいの? でも、あんただって女を利用しているじゃない」
 予想もしなかった切り返しに、青子は息を呑んだ。観察者は常に自分とばかり思っていた。ミキの目は夜の世界を生き抜いてきた鋭さに輝いている。
「『すし静』みたいな高級店で、あんたのようなOLが常連客に何故つまはじきにされないのか、職人さんに丁寧に接客してもらえるのか、理由はわかる?世間知らずの若い女に何か教えてやれるのが楽しいからよ。父親みたいな気持ちで成長を見守るのが、支配欲をくすぐるからよ。 自分でもそれを十分わかってるくせに・・・。でも、いつまでも小娘扱いされると思ったら大間違い。もう二十七か八にはなってるんでしょ?」
 みぞおちがきゅっと締め付けられるようだ。なんでこんな女を助けたりしたのだろう。
「あんたの方が私よりよっぽど嫌らしいわよ。なによ、いつも鮨屋のおニイさんを目で犯しちゃってさ。女のにおいがプンプンしてるわ。向こうがあんたに食いついてくるのを、ぽかんと口あけて待っているだけじゃない。物欲しげよ。自分から男を狩りにいく私の方が、よっぽど清々しいわよ」
 ミキはそれだけ言い捨てるとさっと踵を返し、ハイヒールを響かせ、和光の方角に向かって行った。形の良いお尻が左右に激しく揺れる様を見送りながら、青子は恥ずかしさと怒りに震えて立ち尽くしていた。
(pp.53-56.)

 さっすが、手練れのホステス、ミキの観察は鋭い。
 本作品の良いところは、ミキを狂言回し、道化のままで、終わらせないことだ。
 素人女と玄人女の対立と分断は、性搾取する男の望むところ、だ。
 後に、青子とミキは、無二の親友となる。
 美しきは、シスターフッド、、、涙がこぼれた。
 後に、ミキは、銀座一のクラブホステス、そしてママにまでのし上がる、流石。

 青子は、凡庸で、器量の小せー男、祐太朗と付き合うが、その祐太朗を、親友、幸恵に寝取られてしまう。

 青子、そんな、くそくっだらない男、おさらばできて、良かったじゃない。

 さすがは、青子、祐太朗と付き合う一方で、辣腕広告プランナーのプレイボーイ、省吾とカジュアルなセックス、交歓を楽しむ。
 省吾も青子には役不足だったのだろう。
 青子は省吾に別れを告げる。

「省吾はさ、一緒に歩いてくれる女の人が居た方がいいと思う。一人だとどんどん生活がすさんでいって、気持ちまで荒れていくタイプだもん。誰かが気付かなきゃ、風邪を引いていることもわからないでしょ。親を安心させるために結婚するなんていうのはあんまりいい考え方じゃないけど、あなたのお母さん、とてもいい人よ。お嫁さんにお料理を教えたがってた」
(p.143.)

 そして、クライマックス。

 東京を離れる決心をした青子は、一ノ瀬に別れを告げるため、「すし静」を訪れる、、、
そして、青子と一ノ瀬は、初めて、女と男として、向き合う。

「こっちに来てくれない?最後に一度だけ、こっち側に来て私と並んで座ってくれないかな?」
(中略)
「隣に座って欲しいの。一度だけ同じ立場で同じ目線であなたと話してみたいの」
(中略)
「暖簾、下ろして来ました」
(中略)
「・・・よかったあ。ああ、長かった」
(中略)
手を伸ばせば触れられる距離に彼がいる。彼のにおいがした。酢とかすかな海の匂い。体臭はまったくない。
「お客様の目線から付け場を眺めたことなんて、ほとんどないな。すごく遠くに感じる」
彼が仕事用の口調を捨てていることが、今の青子にしびれるような快感をもたらした。(中略)
「ここまで来るのに、十年かかったわ」
「そうだね」
(中略)
「いつから、私の気持ちに気付いてた?」
「そうだなあ。あのチャラチャラした代理店の男とここに並んだ時かな・・・。あなた、当てつけみたいな意地悪な目をしてこちらを睨んでいた。それで、これ見よがしにウニを頼んだろう。ああ、それにしても、軽薄そのものだったな、広瀬って」
(中略)
「あら、私はもっと前からよ。最初にこの店に来た時から、あなたが好きだった。東京に残ることを決めて、羽振りのいい不動産業に転職したのも、あなたに会いたかったから」
「え、そうなんだ。それは・・・。ええと、その、どうも、ありがとう」
(中略)
「あなた、わりと鈍感よね。付き合えなくてむしろよかった。こっち側に座って、片想いしてる方が幸せだったのかもね」
 こうなったら、ずけずけと言いたいことを言ってしまおう。楽しい、という感覚が久しぶりに体に広がっていく。いくら踏み込んでも相手が逃げない、という自信があると、心は伸びやかに 舌はなめらかになっていく。
「俺だって。本木さんがいつか来なくなるんじゃないかって、ずっとひやひやしてた。会計が終わって、あなたの背中を見送りながら、これが最後になるんじゃないかって怖かった。俺、何度も考えたよ。あなたを口説くこと。でも・・・。正直、本木さんみたいな」
「青子でいいです」
「じゃあ、青子、ええと、青子さんみたいなタイプに鮨屋のおかみさんはつとまらないだろうし、男女の関係になったら、きっとあなたに不安にさせられるだろうと思った。憎むようになるだろうとも思った。そもそもあなたは一カ所に留まるふうには見えない」
「うーん。あたってるかもしれない。悲しいけど、そうはっきり言われると、かえって傷つかなくて済むな。でも、ちょっとは可能性を考えてくれていたなんて嬉しい。ありがとう」
(中略)
「来るたびにあなたは違う女の人みたいだった。出で立ちも香りもくるくる変わったんだ」
「え、香り?ここに来る時は、香水はつけてこなかったんだけど。シャンプーかしらね。ごめんなさいね」
「違う。俺たち、職人は人一倍香りに敏感だ。あなたそのものの香りのことを言ってるんだよ・・・。あなたはカウンターの向こうの自由な世界を体現しているみたいだった。青子さんを見てるだけで、時代や東京とつながっている気がした」
(中略)
「下の名前なんていうの」
「康幸」
「なんだか、夢見てるみたいね」
「そうだね。あなたとこうしているなんて、夢みたいだ」
「ねえ、康幸さん、手をつないでもいい?」
「いいよ」
(中略)
「一ノ瀬さんがいつ、どんな姿で、どんな場所で働いていても、私は見つけ出すわ。この手を決して忘れないもの。忘れられるわけがないもの」
 本当は、その手を取って頬ずりしたかった。唇をつけたかった。しかし、性急にむさぼっては、すべてが終わる気がした。だから、青子はただもう一度だけ手をにぎり返す。
「この手をずっとにぎりたかったの」
 一ノ瀬さんの方も青子の手を強くにぎった。互いに指の股までしっかりと組み合わせ、手のひらをぴたりとつける。
 青子の手の方がよほど骨張っていて乾いていた。まるで、自分が彼を包み、外界から守っているような錯覚を覚えた。青子は今、自分の指先に温かな血が流れていることがはっきりとわかった。青子の熱が徐々に一ノ瀬さんにも伝わっていく。二人の体温が手のひらを通じて解け合っている。自分の持って生まれた温かさと強さに、十年かかって青子は初めて気付いた。私の体には血が通っている。思っているより、ずっと力に満ちている。だから、きっと生きていける。明日からも。
 二人は指をしっかりと絡め合う。(中略)
 お互いに、手をほどく意思が一向に生まれないのが指先から伝わってくる。言葉で表したら、 視線を絡めたら、すべてが溶けてなくなってしまうと知っているから、二人は無言でただ前を向いている。冷たいはずの一ノ瀬さんの手はもはや青子のそれより温かく、ねっとりと汗ばんでいた。自分の体温がそうさせているのか、それとも彼の体に炎がともったのか。わからないけれど、今は一瞬でも長くつながっていたかった。
 熱を増していく肌の隙間で、夜だけが更けていった。
(PP.200-206.)

 いやいや、感動しました。笑

「ランチのアッコちゃん」作者最新作!
80年代。都内のOL・青子は、偶然入った鮨店で衝撃を受けた。そのお店「すし静」では、職人が握った鮨を掌から貰い受けて食べる。
青子は、その味に次第にのめり込み、決して安くはないお店に自分が稼いだお金で通い続けたい、と一念発起する。
お店の職人・一ノ瀬への秘めた思いも抱きながら、転職先を不動産会社に決めた青子だったが、到来したバブルの時代の波に翻弄されていく。一ノ瀬との恋は成就するのか?


ランキングに参加中。クリックして応援お願いします!

名前:
コメント:

※文字化け等の原因になりますので顔文字の投稿はお控えください。

コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。

 

※ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「本」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事