岡野八代,2024,ケアの倫理──フェミニズムの政治思想,岩波書店.(2.26.24)
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目次だけ見て、うんいい本にちがいないな、とは思っていたんだが、読了してみると、想像以上に、内容が濃厚、豊穣で、学べるところがとても多い、大傑作、であった。
第1章で、「うへー、難しい」と思った方、ご心配なく。
章を追うごとに、とてもわかりやすい叙述になっていく。
ケアってなんだろう、、、心配、気遣い、優しさ、愛情表現、恋心の発露、見守ること、傾聴すること、他者の痛みに涙すること、手をさしのべること、抱きしめること、身体を介護すること、看病すること、そして、病気の彼女が殴る蹴るしてきても耐え続けること、、、いくらでも思いつくね。
ケアという言葉の語源を遡れば、現在の意味とは相反するような意味が込められていることも分かってくる。ケアは、古ゲルマン語のkaro(悲しみ)に由来し、そこから派生する古英語caruは、悲しみのほか、気がかり、不安、心配、嘆き、困惑などを意味している。つまり、ケアは、思わずそこに注意を向けてしまうような、心の動きを表している。そうした意味の複雑さから、ケアという活動は、やりがいを感じさせたり、対象への愛着を生んだりする一方で、極度の疲労と、時に嫌悪感を伴うような労苦ともなる。
(p.10.)
そう、ケアは、人間の本源的な内発性の表れ、現れ、、、道を歩いていて前を歩いていた人が転んだら、思わず駆け寄って「大丈夫ですか?」って言って、手を貸して起き上がらせる、、、そんな、理屈じゃない、内から湧き起こってくるパッション、バイブス、感情、情操、、、レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は、災害被災地において、そんな素敵な内発性とケアが満ち満ちしていることを教えてくれたね。
そして、それは、けっして、ただのユートピアではないこと、そのことを、ルトガー・ブレグマンの『,Humankind 希望の歴史──人類が善き未来をつくるための18章』が、教えてくれている。
(前略)ケアするひともまた、ケアされるひとであり、なにより、自分には他人によるケアは必要ないと思えるひとほど、じっさいには他者からの気遣いや配慮、物理的な世話になってきた/なっていることに、わたしたちはもっと目を向けるべきだろう。
(p.309.)
ケアされることのありがたみと、ケアすることによる承認欲求と自尊感情の充足、、、それが人間の根源的な悦び──エロスであることを忘れている、そんな人が、あまりに多すぎる。
「ケアの倫理」と「正義の倫理」は、けっして、排他的で、各々、独立したものではない。
こうして、トロントは、ケアの倫理を公的規範に鍛え上げ、民主主義理論へと連動させるために、つまりフェミニスト的で民主的なケアの倫理へと磨き上げるために、第五の局面として、「共にケアすること」といった局面を新たに導入する。つまり、そもそも不平等を内包するケア関係を、より平等で、より公正で、より自由を担保するものにするためには、ケアはみなで共に、そして平等、正義、自由といった理念と共に、実践されなければならない。
こうして、ケアか正義かといったかつての二項対立がいかに虚構であったかがよく理解できるようになるだろう。むしろケア実践には正義が必要であり、正義を遂行するためには、ケア実践を社会のなかで分け隔てておくことはできないという、両者の結びつきが明らかになる。
(p.261.)
ジョン・ロールズの格差原理──社会経済的不平等は、最も不利な状況にある人々の利益を最大化するときにのみ許容される──に、とても大切な、ケア=正義の原理が確立されたことになるね。これは、とても重要なことだよ。
ジョアン・トロントや岡野さんは、「ケアに満ちた民主制」を構想する、、、そう、誰もが、じゅうぶんにケアされ/ケアする権利が保障された民主制の社会、、、なんと素敵ではないか。
ケアが、カネ(の力)、権力、暴力の行使と引き換えになされることだけは、絶対に避けなければいけない。
「ケア関係に潜在する不正──他者の支配と私物化──を行わないよう求める正義」(p.172.)
これは、絶対に貫徹しないといけない正義なんだ。
「パパ活」や「愛人契約」が、いかに、ケアに、不正──他者の支配と私物化をもたらすものであるのか、そして、それが、かけがえのない尊厳を確実に壊してしまうことになるのか、そういうこと。
ユルゲン・ハーバマスの生活世界の植民地化テーゼ──対話的理性により形成、維持されてきた「生活世界」が、「道具的理性」の貫徹する、カネと権力により作動する「システム」により浸食されている──を、たんなるロマンティシズム、理想主義の発露って言って、バカにする人いるけど、これは、大事な視点だよ?
もっとも、「生活世界」には、「対話的理性」だけじゃなく、ていうか、それよりもっと大切な、共同身体性、内発性、パッション、バイブス、感情、情操も、あるんだけどね。
ハーバマス理論には「エロス」がないんだ、、、
ケアと暴力は共存し得ない。
(前略)ケアの価値を切り下げることと、軍事主義をイデオロギーとして支える暴力文化、女性に対する暴力を含むさまざまな暴力の正当化は、どこかでつながっている。そもそも、安全保障(セキュリティ)という言葉が、「ケアがない」ことを意味していたことを、今一度真剣に考えることが、現在進行形で多くのケア倫理研究者たちによって取り組まれている。(ケア・コレクティヴ二〇二一、p.290.)
ジョン・レノンの「イマジン」は、曲名どおり、「夢想」でしかなかったけど、「ケアの倫理」は、暴力なき社会、戦争なき社会が不可能ではないこと、そのことを、力強く示唆してくれている。
戦争は女の顔をしていない。
スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ(三浦みどり訳),2016,戦争は女の顔をしていない,岩波書店.
わたしたちは、とても傷つきやすい、脆弱性(バルネラビリティ)を抱えた、か弱い存在であること、まずは、そのことを認めることから、始めよう。
わたしたちは例外なく、脆弱で傷つけられやすい存在であり、人間が制御しえない自然からの脅威だけでなく、他者からの危害や放置・無視によっても傷つけられる可能性を生きざるをえない。それは、人間の生の端緒や最期にある不可避の依存という事実だけでなく、互恵性という意味における相互依存的な人間の在りようによって他者へのある程度の依存が不可避であることからも、そういえる。
しかし、あくまでこの脆弱性は可能性にすぎず、じっさいの危害に至らないために知恵を働かすことで、人間の被傷性は緩和できる。人間社会を、理性ある存在者が協働することによって、より良い生活を目指す契約から成立すると考える契約論に対して、ケアの倫理は、異なりを抱えた存在者たちの不平等な関係性のために、個々の被傷性の程度には大きな違いが存在していることに対応するために人間社会は存在しているし、存在すべきだと考える。すなわち、わたしたち人間には、 もっとも傷つけられやすい者たちを含めた、傷つけられやすい者たちがじっさいに傷つかないように配慮する社会的責任がある。その認識こそが、社会を構成する原理の端緒にあるはずだと考えるのだ。
(p.247.)
これまで生きてきて、もうずいぶんと傷ついてきただろ?
もう、これ以上、傷つけ合うのは、やめようよ、という話。
そして、もっとも脆弱な人々への、じゅうぶんなケアを実現しようよ、ということ。
わたしの研究構想は、バルネラビリティと、傷つき体験の記憶がもたらす生の苦痛をいかに克服するか、そのための、相互のこころの深奥へのダイブ──「声なき声」の傾聴と受苦のシェア、ケアとエロス、実存、そしてケアリング社会の実現に向けての社会政策、経済政策、労働政策の提案、、、まあ、こんなとこにあるんだけど、ケアの有償化と「ケア階級」の労働条件の改善は、これもまた、とても、とても、大切だ。
(前略)むしろ、ひとは誰しも、その生涯のうちでどこかで必ず、他者の労働やその決定に依存するがゆえに、その他者の行動に左右され、傷つけられやすい。そこで、社会の構成原理は、社会でもっとも脆弱な者たち、そして脆弱な者をケアするがゆえに、社会的に不利な立場に置かれがちな依存にかかわる労働者たちの権利を保障するために、つまり依存関係にある者たちが不正や抑圧、暴力を被らないためにこそ構想されなければならない。
(p.217.)
「ケアの倫理」は、正義の原則ともなって、ケア労働の場に、全面適用されなきゃいけない、ってことだね。
キャロル・ギリガンの小説、「女仲間の評決」、、、夫ジョン・ライトを絞殺したかどの容疑者は妻ミニー・ライト、、、事件の真相を探るため、保安官、検事と、保安官の妻ピーターズ夫人と近所に住むヘイル夫人が、ジョンの殺害現場であるライト家二階の寝室に集まる。
(前略)女性たちは拘置所にいるミニーに届け物をしようと、夫が帰宅するまでミニーが一人で過ごした台所で彼女の生活ぶりを観察する。そこで彼女たちは、日々の暮らしぶりだけでなく、子どもがいないなか一人で過ごすミニーの孤独を想像し始める。そこで、彼女たちはミニーの作りかけのキルトに気づき、幾枚もの布切れから一つの模様を描きだすように、事件の真相に近づいていく。
他方の男たちは、あたかも事件とは関係のない<つまらないこと>を語りだす彼女たちを嘲笑しながらも、どうしても殺害動機となるような事実を摑むことができない。男たちから事の重大さを分かっていないかのように扱われるヘイル夫人は、近くに住みながら、少女の頃から知っているミニーを訪問してこなかった自分を責め始める。ヘイル夫人の記憶のなかのミニーは、歌の上手な快活な女性のままで、彼女はだからこそ結婚前の名前「ミニー・フォスター」とミニーを呼び続ける。そして彼女は、キルトの縫い目の乱れに気づき、まだ縫い込まれていない布切れが入った小箱の底に置かれた、シルクに大切そうに包まれた小鳥の死骸を見つけるのだった。
小鳥のように歌がうまかったミニーの過去だけでなく、彼女の夫ジョンは一般には良いひととされながら──酒は飲まない、約束は守る、借りた金は返す──、気難しく、骨の髄まで突き刺すような冷たい風のような男だったことを知るヘイル夫人と、かつて大切にしていた子猫をある少年に殺された経験のあるピーターズ夫人は、唯一の話し相手であった小鳥を夫に殺されたことが動機であったことを理解する。彼女たちは、自身のこれまでの経験とミニーの経験をキルトのように紡ぎ合わせることで、法を代弁する男たちには想像もつかないこの事件の鍵を、心を寄せられるひとがミニーにいなかったことに見いだすのだった。そして、誰からも見放されている状況を、罰せられることのない<犯罪>とまで呼び、彼女たちの見解に耳を貸すことのない──そもそも、当時ほとんどの州では女性たちに陪審員になる権利もなかった──司法制度から、彼女たちが見つけた殺害動機の証拠である首を捩じられた小鳥の死骸を隠すことに決める。
(pp.186-187.)
わたしも、幼少期、唯一無二の親友だった愛犬、「クロ」を「殺されて」、修復不能な「実存のキズ」を負い、生涯、苦しんでしまうことになった。
毎日、就寝前に飲む眠剤は、その証、だ。
「たくさんのミニー」に、もっとケアを、じゅうぶんなケアを、と、そう思う。
身体性に結び付けられた「女らしさ」ゆえにケアを担わされてきた女性たちは、自身の経験を語る言葉を奪われ、言葉を発したとしても傾聴に値しないお喋りとして扱われてきた。男性の論理で構築された社会のなかで、女性たちが自らの言葉で、自らの経験から編み出したフェミニズムの政治思想、ケアの倫理を第一人者が詳説する
ひとはケアなしでは生きていけない。それでは、ケアをするのは誰なのか?ケアされる/する人間の真実の姿から正義や政治を問い返し、“もうひとつの声”を聴き取るケアする民主主義を追求。
目次
序章 ケアの必要に溢れる社会で
第1章 ケアの倫理の原点へ
第2章 ケアの倫理とは何か―『もうひとつの声で』を読み直す
第3章 ケアの倫理の確立―フェミニストたちの探求
第4章 ケアをするのは誰か―新しい人間像・社会観の模索
第5章 誰も取り残されない社会へ―ケアから始めるオルタナティヴな政治思想
終章 コロナ・パンデミックの後を生きる―ケアから始める民主主義