遠藤まめた,2018,オレは絶対にワタシじゃない──トランスジェンダー逆襲の記,はるか書房.(9.23.24)
トランス男性の当事者、遠藤まめたさんの自伝的エッセイ。
なかなかいいじゃないの。
ていねいに文章が綴られており、たいへん好感がもてた。
トランスジェンダー当事者のみならず、ホモセクシャル、バイセクシャル、在日コリアン、被差別部落出身者、食肉解体作業員等々へのまなざしがとても細やかで優しい。
生きづらさを解消する魔法の言葉として、「自分らしく」という表現をよく耳にする。
わたしは、そのたびに、なんとも言えない違和感、居心地の悪さをいだいてきた。
トランス男性(女性)は、かくかくしかじかであるはず、そうでなければ、「自分らしく」ない。
こうした発想が、どれだけさまざまな当事者に、息苦しい思いをさせてきたことだろう。
トランスジェンダー当事者といっても、ホルモン療法や外科手術をするかしないか、外見をどう装うか装わないか、千差万別である。
ジェンダーのありようは、その人固有のものであって、勝手に「自分らしさ」の鋳型を押しつけるべきではない。
また、「自分らしさ」は、必ずしも能動的につくりあげてきたものではなく、偶有的に、偶発的な経験の積み重ねのうちに身についたものである。
そして、「自分らしさ」の中身は流動的、つねに変わりうるものであり、他者に見せる「自分らしさ」は自己のごく一部でしかない。
他者にすべてをカミングアウトし、「自分らしさ」を知ってもらわねばならないとすれば、それはそれでたいへんな苦痛だろう。
「自分らしさ」というのは、自己ならぬ事故である。それは自分が選びとっ たものではない。天から降ってきたり、街角でうっかり出会ってしまったりす る何かだ。当然ながら、そのなかには当人にとって都合のよいものも、都合の 悪いものも含まれている。
だから、「個性を大切にしましょう」とか「みんな自分らしく」といった言 葉を無邪気に使っている人びとというのは、きっと物事の半分しか見ていない のではないだろうか。人がおのれを呪う瞬間の切なさ、苦しさ、愚かしさというものについて、「そうだね」と言ってくれる人は希少なのだと思う。
LGBTの市民講座に呼ばれるときにも、「自分らしく生きることが大切で すね」と言われたり、「誰もがありのまま生きられる社会」といった講座タイ トルを提案されたりするけれど、本当に、いったいこりゃどうしたらいいもん だ、といつも内心思っている。「自分らしさ」なんて、半分以上は、呪いでコ ーディネートされているのに。
いっぽう「自分らしさ」の「もう半分」のことを分かちあえる人は、フィッ シュマンズの音楽のように、こいつらには心をひらいてもいいなと思える。
「ありのままの姿見せるのよ、っていうけどさぁ、そしたら破滅するわ」
前にそう語っていたのは、「してもの会」という団体の友人Aである。冬の 夜だった。京都の鴨川沿いにあるハンバーガー屋で、店内にはBGMで『アナと雪の女王』の主題歌が流れていた。
(pp.180-181)
トランスジェンダーが云々以前に、わたしたちは、女/男というカテゴライズの暴力性に自覚的であるべきだ。
こんなお寒い状況があるのだから、地方のレズビアンが直面しがちな悲劇を なくすのには、まず「女性全体の賃金」を上げる必要がある。全国どこに暮ら していても、女性がずっと働き続けられる職場を増やそう。職場における性差 別をなくそう。こんな基本的なフェミニズムの課題だって、LGBT運動にと っては重要なのだ。
女性だけではなくて、男性だって「あるべき姿」に苦しんでいる。
たとえば、地方に暮らしているLGBT当事者からは、「結婚してこそ一人 前」と周囲から言われ、望んでいないのに婚活サイトに登録させられてしまっ た話なども耳にする。これは、LGBTであるかないかといった問題ではない。 自分のライフスタイルぐらい、誰でも自分で決めさせろ、というフェミニズム の基本すぎるテーマである。親戚の集まりで、「そろそろ身をかためないの?」 と会話を振ってくるおじさんやおばさんを撃退すべし。話は、そこからだ。
トランスジェンダーにとって性差別というのは、かなりのリアリティがある。 男性として働いているときの給料と、女性として暮らしはじめた後の給料が ちがうということは、「よくある話」。女扱いされてよかったです、なんていう牧歌的なものではなく、同じ給料をよこせという話だ。その逆に、女として暮 らしてきた人間が「男扱い」をされるようになると、やたらと褒められること もある。
私も経験済みなのだが、「同じこと」をしていても、私が男なのか女なのか によって、相手の態度がころっと変わることがあるのだ。
「自炊をしているんですよ」と言うと、女モードでは「ふうん」なのに、男 モードでは大絶賛される。つくっているのは「豚の生姜焼き」程度なのに、い ったい何なのだろうか、このちがいは。
定食屋にいけば、ご飯の盛られる量がちがう。せっかく男として扱われてい るのだから、お腹いっぱい食べたいところだが、そんなに食べられるわけじゃ なくて残念だ。
女として暮らしていた頃には、「歩き方」「しゃべり方」 「カバンの持ち方」 まで、いろいろダメ出しされていたのだが、男だと思われれば、誰にも何も言われなくなった。
おまけに、女モードでは「このレズ」だの「変態」と言われそうなところが、 男だと思われれば、こちらから口をひらかなくても、「それで遠藤くんは、彼 女いるの?」と話題が振られるのだ。もし、男が好きだと口にしたら、どんなリアクションをされるんだろうか。恋愛の話ができるのは、そりゃあラクかも しれないけどよ・・・・・・。
こんなとき私が心のなかでつくづく思うのは、「ああ、男扱いされてよかっ た」などという牧歌的なものではない。
いちいち男とか女とか言うなよ、というのがホンネのところだ。
「トランスジェンダーとして男扱いされたいですか」と尋ねられたら、「男扱 いとか女扱いって、何ですか」と逆にその人に問いかけてみたいと、いつも思 っている。できれば、「私」として扱ってほしい。
(pp.194-196)
もちろん、トランス女性偽装者による性暴力を防いだり、性差医療を推進したり、といったところで、ジェンダーによるカテゴライズが必要なことはある。
だからといって、不必要な場面において、いちいち、カテゴライズし、決めつけてくるな、ということだ。
トランスジェンダーという窓から人間の多様性についての理解を深めるための好エッセイとして、本書をお薦めしたい。