杉田俊介,2022,男がつらい!──資本主義社会の「弱者男性」論,ワニブックス.(9.22.24)
冴えない、裕福でもない、特別な才能もない
平凡な人生を幸福に生きていく――
男たちの新しい生き方のモデルを提示する意欲作
〝男らしさの呪縛″から解放されよう!
現在の男性たちには、案外、低く鈍く冴えない人生を幸福に生きていくというモデルが
あまりないのではないか?
極端にマッチョな「男らしさ」だったり、家父長制度的な意味での父親像だったり、自己啓発的に勝ち抜けるような男性像だったり、リベラルでスマートすぎる男性像だったり……
そのような「男」の人生のモデルはあるけれども、それ以外にもいろんな選択肢や「物語」があってもいい。
「ぼくたちもだらだら、まったり楽しんでいい!」
なかなかにおもしろい内容のエッセイだった。
Toxic Masculinity(有害な男らしさ)にとらわれて、害悪をまき散らしたり、「闇堕ち」したりしないで、もっと楽ちんに生きていこう、という主旨。
もちろん、最低時給が低すぎる、非正規社員・職員でも人間らしい生活ができる所得保障をしろ、とか、社会、政治を変えていこうという活動に参加することは大切。
でも、同時に、「エラくなりたい」、「威張りたい」、「金持ちになりたい」、「高級車や高級時計がほしい」、「女にモテたい」、「女をかしずかせたい」・・・もう、そんなくだらない欲望に振り回されるのはやめようよ、ということ。
だって、そんなの、ひどく卑しいし、幼稚なことだから。
杉田さんの言う「弱者男性」とは、マジョリティからもマイノリティからも取りこぼされた「残余」の存在である。
権力や貨幣といった資源に恵まれているわけではないけれども、生活保護等の社会保障の主たる対象にもならない、という人びとだ。
すなわち、われわれ凡人のことである。
片方には、従来の国民国家が前提としてきたマジョリティとしての「国民」や「市民」が存在する
他方には、「国民」や「市民」から排除され周縁化されたマイノリティ的な人々が存在する。マイノリティの人々は、各々の属性に基づき、個別的あるいは集団的なアイデンティティ政治(社会的不平等の解消と各々の差異の承認を求める政治)を行う。
一方、ここでいう弱者男性とは、これらの「国民・市民(マジョリティ)VS被差別者・被排除者(マイノリティ)」という政治的対立のいずれにも入ってこないような存在のことであると考えられる。
弱者男性たちは、社会的に差別されたり排除されたりしている、あるいは政治的な承認を得られない──というよりも、それらの二元論的な議論の枠組みそのものから取り残され、取りこぼされ、置き去りにされているのだ。
それゆえ、彼らはアイデンティティの承認をめぐる政治の対象にもならないし、福祉国家による経済的な再分配や社会的包摂の対象にもなりにくい。
注意しよう。これは、いわゆる「弱者競争」(弱者オリンピック)の話ではない。あるいは、「社会的弱者の声」にすらならない究極の弱者とは誰か、という「サバルタン」の理論の話でもない。誰が真の犠牲者であるのか、もっとも悲惨な被害者は誰なのか・・・・・・そうした「弱者競争」によってかえって見えなくなる領域がある。
もう少し繊細で複雑な語り方によってしか見えてこない、個人の実存(差異)と社会的な制度・構造の狭間のグレーゾーンがある、ということだ。
男性たちの「弱さ」の問題はそうした曖昧で境界的な領域、すなわち「残余」「残りのもの」の領域に存在するのではないか。
(pp.32-33)
「99%対1%」のどちらでもなく、凡庸な「80%」の人びと。
(スラヴォイ・ジジェクは言う。)
ぼくたちは今、移民・難民や性的少数者の人々だけではなく、「八〇パーセント」の「置き去りにされたひとたち」、つまり「取り残された」人々──「神々が、そして市場が置き去りにしたひとたち」――の中に、グローバル資本主義の時代におけるある種の普遍性を見るべきではないか、と(『真昼の盗人のように――ポストヒューマニティ時代の権力』中山徹訳、青土社、二〇一九年、原著二〇一八年)。
さらにジジェクはこうも述べる。「真のプロレタリアートはむしろ、本国に留まりそこによそ者として取り残された(「残り物」、神に引き取られない断絶された者といったありったけの宗教的意味を帯びた)人々のことなのだ」。そして「グローバル資本主義の趨勢とは、われわれの八〇パーセントが『取り残された者』になるということである」、と。
現代の弱者男性たちとは、まさにグローバル資本主義とリベラルな社会から「置き去りにされ」、「取り残され」た人々のことであると言えるだろう。
ジジェクは、そのような人々の中に、むしろ、現代社会の最先端があり、社会変革のための「普遍性」の兆しがあるのかもしれない、と論じているのである。
ここで言う「八〇パーセント」とは、一つの比喩だろう。具体的な数字や統計的なデータの話がされているわけではない。
つまり、「一%」と「九九%」の階級的な対立が問題である、と言われる場合に、そのいずれにも入ってこないような人々のことを、ジジェクはおそらく「八〇パーセント」と表現しているのだ。
(pp.38-39)
近年のグローバル資本主義は、多様性や包摂性を主張しつつ、国家と企業の中にそれらをもうまく取り込んできた。有り体にいえば、LGBTや民族的多様性すらもポップでスタイリッシュな「売り物」として消費されるようになってきた。
そこからは以下のような考えが拡がっていく。グローバルな市場の発展によって自ずと文化的な多様性や寛容も達成されるだろう、資本主義の力によって女性の社会参加やLGBTフレンドリーや障害者に対するバリアフリーも実現されるはずだ、と。
しかし、こうした流れからさえも置き去りにされていく人々こそが「弱者男性」と呼ばれているのではないか。
周縁化を被った「弱者男性」たちの脆弱性/不安定性は、経済的貧困や失業の問題と必ずしも一致するものではないし、政治的なアイデンティティの承認の問題だけでもとらえられないだろう。
(pp.45)
多様性や包摂性を活用するグローバルなリベラル資本主義の「残余=無」(ジジェク)あるいは「残りのもの」(アガンベン)としての「弱者男性」たち。マイノリティでもマジョリティでもなく。一%でも九九%でもなく・・・・・・。
PC的なアイデンティティ政治や再分配の対象に入ることをゆるされないものたち。グローバル資本主義の中で階級闘争の主体にはなりえないものたち。一%と九九%という対立にすら入ってこられないもの。プロレタリアではなく。ルンプロ(ルンペンプロレタリアート)でもなく。サバルタンでもなく・・・・・・。
それはマジョリティ男性たちの「残りのもの」としての、多数派男性の中の内的亀裂としての「男」たちのことだ。経済的な不安定さや貧困の中にあるとは必ずしも限らず、はっきりとした差別の対象でもなく、しかし人間としての尊厳そのものを剥奪されていく弱者男性たちである。
弱者男性たちは、積極的な属性として語りうる弱さ(政治的な集団性の根拠としての弱さ)ではなく、「残りのもの」「残余」としての弱さを強いられ、それによって人間としての尊厳を剥奪されているのだ。
(pp.46-47)
わたしは、リベラリストもフェミニストも自称しないが、個別のイシューごとの判断が、リベラリズムやフェミニズムの主張と重なるところはけっこうある。
しかし、そうした判断を、多少の羞恥心と後ろめたさをもちながらも表明できない「弱者男性」は辛い。
男性特権をスマートに反省できる「正しい」リベラル男性には違和感があるけれど、被害者意識にそまってネット右翼や反フェミニズムの闘士というダークサイドに堕ちたくもない······そうした迷える男性たち、内側に弱さを抱えた男性たち──周縁的で非正規的な男性たち──にとって、現在は相当に厳しい、苦しいことになっている。
弱者男性たちは、複合的な生きづらさや脆弱性に苦しめられ、一般的な「国民」や「市民」の枠組みから零れ落ちてしまう。「普通」で「まとも」な暮らしを送ることができない。
マイノリティであれば被差別性(属性)を武器にして、それをアイデンティティ政治へと変換することができる。不当に抑圧された権利の主張ができる(繰り返すが、だから彼らの方がマシだ、という意味ではない)。
しかし、マイノリティとしての属性を持ちえない「男」たちは、そうした政治性を持ちえない。連帯もできない。かといって個人として十分に反省する余裕も与えられていないのだ。
そうなると、自分の中の不幸や苦悶、弱さによる心の穴を埋めるために、「アンチ」や「インセル」の闇におちざるをえない。少なくとも「アンチ」や「インセル」の情動によって集団的に結びつき、ネットを主戦場として「敵」と戦う、という高揚感や生きがいを得られるからだ。
しかしそれはあまりにも悲しく、救いがなく、暗鬱なルートではないか。
日々のつらさや戸惑いや失語とともにある「弱者男性」の生の可能性を、それらとは別様の形で、何らかのポジティヴでアクティヴなものとして提示し直せないものだろうか。
(pp.56-57)
他者に過剰な承認を求めるのもやめにしよう。
承認の政治から、呼びかけ/呼びかけられて応答する、中動態の、責任を引き受けるコミュニケーションと、権力を介在させない関係の政治へ。
そして、そのなかに、自らの生の痕跡を見いだしていくこと。
それならば、他者からの承認を期待するのではなく、もっとアクティヴに、当事者としての自覚を持っていくべきではないか。自分たちをマイノリティや社会的弱者と呼べるとは思わないが、それでも、非正規男性(弱者男性)としての当事者性を自覚していくこと。
承認から自覚へ。そして責任へ。
弱者男性としてのぼくたちにもまた、そうした意識覚醒が必要なのだ。
非正規的で周縁的な男性たちは、もしかしたら、男性特権に守られた覇権的な「男らしさ」とは別の価値観――たとえば成果主義や能力主義や優生思想や家父長制などとは別の価値観、すなわちオルタナティヴ(代替的)でラディカル(根源的)な価値観を見いだしていく、というチャンス=機縁を与えられているかもしれない。
誰からも愛されず、承認されず、金もなく、無知で無能な、そうした周縁的/非正規的な男性たちが、もしもそれでも幸福に、まっとうに――誰かを恨んだり攻撃したりしようとする衝動に打ち克って――生きられるなら、それはそのままに革命的な実践になりうるのではないか。
そしてそのようなライフスタイル、いや「生きる姿勢」は、後続する男性たちにとっても小さな光となり、勇気となりうるだろう。
(pp.76-77)
高齢男性の「有害な男性性」も大きな問題だ。
自らの欲望に醒めていることは、最高にクールなことのはずなのに。
高齢者男性についての意識調査や統計を調べてみると、高齢者男性たちの意識が不思議なほどに年齢とともに「成熟」も「成長」もしていかないということに、いささか驚かされてしまう。
高齢になっても若い女性との何らかの性的な関係を望んだり、妻にケアされて精神的に支えてもらえる人生が幸せ、という感じのままなのだ。
たとえば社会学者、坂爪真吾の『セックスと超高齢社会――「老後の性」と向き合う』(NHK出版新書、二〇一七年)によれば、人生の「最後にやり残したこと」として、情熱的な恋愛をあげる男性高齢者が想像以上に多いという。
さらにそうした男性高齢者のニーズに対し、「シニアのための性愛講座」「下半身のアンチエイジング」など、「死ぬまでセックス」という風潮を煽るマーケットが存在する。坂爪が例示するのは、愛人契約市場、高齢者専門風俗、アダルトコンテンツの高齢化・・・・・・などのケースである。高齢者ストーカーも問題になっているという。
その背後には、日本の高齢男性たちが置かれた孤独感がある。
(pp.89-90)
カネの力や権力を用いてまでも「女にモテたい」というのは、ふだんから、ケアし/ケアされる関係性やコミュニケーションをもちえていないからでもある。
世の男性は、様々なケアの負担を妻や母親、あるいは低賃金のエッセンシャルワーカーたちに押し付けている。
だが、同時にそれは、ケア的関係の潜在的な可能性から男性たちが疎外されている、ということも意味している。そうした「ケアからの自己疎外」があるがゆえに、男性たちは女性からの異性愛的な承認を過度に求めてしまうのではないか。
(p.160)
独白調の杉田さん流人生論が続く。
誰をも殺さず、自分をも殺さず、現在と未来の誰のためにもならない無益で無駄な仕事を、死が訪れるその日まで、ひたすらに続けること。
それこそが本当の意味での人生の「無駄」であり、ラディカルな忍耐であり、鬱々としたつまらないこの生に最後まで殉ずることである。
弱者男性としての尊厳をもって・・・・・・。
自殺しないのは生きるのに意味があるからではなく、自殺の労をとるのは無駄だからだ――とするならば、他人を殺さないのは、他人の命が大切だとか、他人の人生に価値があるからではなく、他人を殺すなんて無駄なことだからだ、自殺が無駄であるのと同じく、である。
そんな消極的な意味しかそこにはない。
そして、それでいいのである。
あらゆる救済からも承認からも見放されて、「つらさ」の中に留まり続けること、それがそのまま、男のプライドならぬ、弱者男性たちの尊厳(dignity)になるだろう。dignityofincei──弱者男性の尊厳。
たとえ愛もなく、誰からの承認もなく、セルフケアもなく、男性同士の兄弟愛もなくても、それでも「ただの生」(アガンベン)をまっとうすること。
女性や社会的弱者を憎むのではなく、あるいは承認欲求をこじらせてダークヒーローになるのでもなく、ワーニャ伯父さんのような小さな、それゆえ偉大な尊厳を守り抜こうではないか。
いつかは誰かに承認され愛されるかもしれないとか、気心の知れた仲間たちと趣味によって楽しく平和的に生きられるとか、そんなありもしない希望を夢見て、自分の現実をごまかすことは、もう、やめよう。
ただたんにつまらないこの仕事を、この人生を、愛されもせず愛しもせず、殺さず殺されず、死なず死なせず、最後までまっとうしよう。
そこにも尊厳はある。そうだ、きっと、ニヒリズムを受け止めつつそれを内側から超えていく「たんなる生」の尊厳がある。あるはずだ。あらねばならない。
(pp.195-197)
いつごろからか、おれは、根本的に勘違いをしてきたらしい。人生は楽しくあるべきだ、いつでも面白くあらねばならない・・・・・・そう思い込んでしまっていた。生きることが楽しくも面白くも感じられないとすれば、それは自分の生き方がどこかで根本的に間違っているからだ、と。
しかし、そうした焦燥や罪悪感こそが、大いなる誤解であり、危うい錯覚ではなかったか。生きることはそもそもつまらないことだ。
何かが欠けているとか、何かから疎外されているから楽しくない、面白くない、というのではない。
ただたんに、単純に、つまらない。
わざわざ死にたい、生きていたくない、と考えるまでもない。
人生なんて退屈だ、というのは高踏的すぎるし、カッコつけている。生まれつきの、意味も理由もなく、ただたんにつまらない、この生。
誰に頼んだわけでもなく、生まれてしまったから、死ぬまで生きるしかない、そういう生。
破壊的な性格の人間が生きているのは、人生が生きるにあたいすると考えているからではない。たんに自殺の労をとるのはむだだ、という感情からである。思想家のベンヤミンはそのように述べた(「破壊的性格」)。
思えばおれは、美味しい店を知らない。酒の味がわからない。音楽はほぼ聴かない。美術やアートにも関心がない。映画館に通わない。ゲームもやらない。テレビも基本みない。ネット文化に関心がない。ギャンブルにも性風俗にも行ったことがない。遊ぶ友達がいない。趣味がない。ごく限られたマンガや映画、小説を愛好するだけだ。あとは雑務のような虚しい仕事をするか、延々と眠り続けるか。それくらいしかやることがない。現在は物書きを仕事にしているにもかかわらず、どうしようもないほどの、圧倒的な文化的貧しさを感じている。
しかし――たとえ才能も、実力も、承認も、喜びも、何より天命もなくても、おれたちは淡々と、粛々と、早くも遅くもなく、多すぎも少なすぎもせず、ルーチンワークのように仕事をやり続けてよいのだ。
死ぬまでの間はどんなに虚しくても歩み続けてよいのだ。
そしてその索漠とした歩みこそが、それだけが、このおれにとってのこの世界に対する感謝の表し方なのだ。
そして尊厳なのだ。
そのような「たんなる生」、つまらない生を生きる人間が、べつに必ず利己的であるわけでもない。利他的でもありうるのだ。ただ、無理に幸せを感じたり、自己啓発したり、アッパーなふりをする必要はない、というだけのことである。「あの人たちに比べれば自分はマシだから、人生がつまらないと感じるなんて罪深いことだ」と感じる必要もない。
(pp.204-206)
いやいや、少なくとも、わたしの生活と人生は、そうそう退屈なものではない。
でも、潔いシニシズムには、強く共感する。
結局、わたしは、「弱者男性」ではないのかもしれない。
マジョリティでもマイノリティでもない、しかも、残余の80%でもない、このわたしって・・・。
でも、いいじゃん、それで。
「有害な男性性」などもとから持ち合わせていないように思うが、「男であること」からさらに自由になり身軽に生きていけているのだから。
もっともっと楽ちんに生きよう。
目次
第1章 弱者男性たちが置き去りにされていく
映画『ジョーカー』が映す弱者男性の人生
弱者男性は誰と戦うべきなのか? ほか
第2章 中高年男性にとって孤独とは何か
統計にみる日本の男女格差
男性特権にもかかわらず、男性たちはなぜ不幸なのか ほか
第3章 弱者男性たちの怒りと叫び
インセル(非モテ)とは何ものか
「ダークヒーロー」としてのインセル ほか
第4章 男たちは正しく傷つけるのか―濱口竜介・村上春樹・チェーホフ
正しく傷つくとはどういうことか?
男たちにもセルフケアが必要だ ほか
第5章 このつまらない生のために