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ジェンダーで読み解く男性の働き方・暮らし方──ワーク・ライフ・バランスと持続可能な社会の発展のために

多賀太,2022,ジェンダーで読み解く男性の働き方・暮らし方──ワーク・ライフ・バランスと持続可能な社会の発展のために,時事通信社.(9.20.24)

ジェンダー格差大国ニッポン
妻の「イライラ」 夫の「モヤモヤ」
なかなか進まない男性の家事・育児参加
男性稼ぎ手社会を壊すことが男性の生きづらさを解消する
ジェンダー平等に向けた本気の働き方・暮らし方改革を!

「お宅もテレワークですか?」
平日の昼間に男性が家庭や地域にいても珍しがられない社会が到来するには相当な時間がかかるだろうと思っていたのに、皮肉にも新型コロナウイルス感染症拡大によって、そんな社会をわれわれは思いがけず経験することになったのだが……。
(本文、序より)

●新型コロナウィルスの蔓延にともなうリモートワークの拡大は、男性の働き方と暮らし方を根本から揺るがしている。多くの男性は、仕事場が会社から家庭へと変化し、家庭で過ごす時間が格段に長くなった。それにともない、男性の家事・育児参加の促進が期待される一方で、一部の男性による虐待やDVの増加を懸念する声も聞かれる。
●これまで、男女平等化の流れの中で、長年にわたり男性の仕事中心の生き方が批判され、男性の家庭参加やワーク・ライフ・バランスの必要性が訴えられてきたが、あまり大きな変化は見られなかった。ところが、コロナ禍は、瞬く間にそうした従来の男性のライフスタイルを大きく揺るがした。今後、私たちの働き方と暮らし方はどう変化していくのだろうか。それは、社会の男女平等化を促すのだろうか、それとも形を変えながらも男性優位の社会が持続していくのだろうか。そうした中で、特に男性たちは、どう振る舞い、どう生活を組み立てていけばよいのだろうか。
●本書は、コロナ前からコロナ後にかけての日本社会における男性たちの仕事と家庭生活をめぐる現状と課題について、労働社会学、家族社会学、ジェンダー学などの学術的知見に基づいて多角的に考察し、一般読者に向けて平易な言葉で分かりやすく論じるものである。これにより、混迷を極めるポストコロナ社会に向けて、各職場における新たな職場づくり、各家庭での新たな生活設計、そして個々人による新たな生き方の展望となる1冊である。

 わたしが多賀さんの論稿を初めて読んだのは、比較ジェンダー論-ジェンダー学への多角的アプローチ(←学会誌に寄稿したレビューです)所収の「男性学のゆくえ」だったと思うが、それから17年のときを経て、多賀さんの男性学は、体系的で説得力のある、完成度の高いレベルに到達しているように感じた。
 わたしも、男性学の領域で仕事をしたく思いながら、ついぞほとんどなにもしないままになってしまった。
 忸怩たる思いがする。

 たとえば、男女交えた会議の場で、無理にでも、なにか発言しないと気が済まない。あるいはその場を仕切ろうとする。
 自らの社会経済的地位が、「男という下駄」を履かせてもらって与えられたものにすぎないのに、自分が能力、資質において優れた存在であると盲信し、無反省に権力を行使する。
 そして、恋人や配偶者の収入が自らのそれより上回っていたら惨めな気持ちになったり、怒りの感情が湧いてくる。
 「世帯主として家族の経済的扶養を一身に担わなければならない」と思い詰め、家庭や趣味をかえりみず、長時間労働にいそしみ、健康状態の悪化や生活の質の低下を招いてしまう。

 ジェンダー不平等は、男性にとっても生きづらい状況を醸成してしまうのだ。

 つまり、男性たちの生きづらさとは、女性の男性に対する優越から生じているのではなく、男性が女性よりも優越するジェンダー不平等な社会を無理やり維持するために、男性が仕事に偏ったワーク・ライフ・アンバランスな生活と社会的成功や稼ぎ手責任を強いられ、それが少なからぬ男性たちを苦しめている状況として理解することができます。だとすれば、ワーク・ライフ・バランスとジェンダー平等の実現こそが男性の生きづらさ解消の鍵なのでありそれによって男性もまた豊かで人間らしい生き方を取り戻すことができるのではないでしょうか。
(p.20)

 EU諸国における近年の「ケアする男性性」(Caring Masculinities)の議論では、競争や支配といった価値に拘泥するのではなく、他者のニーズをくみ取り配慮すること、そして、それを発現するものとして、セルフケア、傾聴、相談援助、保育、療育、介助といった行為を担うことを「男性性」の要素として組み入れることが目指されている。

 それには、長年にわたってケアが「女らしさ」と分かちがたく結びついてきたことと、(少なくとも現実として)男性は一般に「女のすること」や「女らしい」と見なされることを避けようとする習性があるということが関係しています。
 ケアに参加することの重要性をいくら頭で理解しても、女のすることや女らしいと見なされることを避けたがる男性たちは、ケアが女らしさと結びついている限り、女性からケアされることは望んでも、自らがケアすることに抵抗を示しがちです。そこで、海外の男性啓発の主導者たちは、従来女らしさとだけ結びついているかのように考えられてきたケアを、新たに男らしさに結びつけることによって、男性たちのケア参加を促そうという戦略を採ったのです。つまり、男性の変化を促す上で、男らしさそのものを否定するのではなく、従来の男らしさに替えて「ケアする男らしさ」を新しい男のあり方として提案するという手法で啓発が行われているのです。
男性がケアするようになったからといって、決して男らしくなくなるわけでない。職業労働や稼ぎ手役割、あるいは自立、支配、競争といった価値のみに特化した昔ながらの男らしさはもう時代遅れなのであり、むしろ、育児や家事を女性と分かち合い、他者に配慮し、互いに助け合い、自分のことも大切にする「ケアする男」こそが、次世代の理想的な新しい男のあり方なのだ──国際社会における男性啓発の取り組みでは、こうしたロジックによって男性のケア参加を促しているのです。
(pp.74-75)

 しかし、実際には、そううまくいかない。

 家事や育児を積極的に担う男性は、むしろジェンダー平等を望まない傾向がある。

 それはなぜか?

 職責を果たし、かつ、家事や育児を積極的に担うことで、自分の配偶者を含めた女性や、職場の同僚を含めた世の男性よりも、優越していると思い込むことで、自らの「男らしさ」を強固にするからである。
 「おまえより収入が高く家事、育児も担うオレ様の方が上だ」、というわけである。

 近年では、日本でも東アジア諸国の都市部でも、従来は女性の役割とされていた家事や育児の責任を男性も果たすべきだという考え方が強くなっています。しかし、その分男性の職業的責任や稼ぎ手責任が軽くなっているかといえば、必ずしもそうではなく、依然として職業上の評価は、多くの男性にとって「男としての」アイデンティティーを支える重要な要素であり続けているように思えます。そうだとすれば、(実態は別として)従来の男性役割である「仕事」での責任を果たしながら、従来女性の役割とされていた家事もよくやっていると自負している男性ほど、女性に対して家事責任を果たすことをより厳しく求めたり、職場での女性の仕事ぶりをより厳しい目で評価したりしがちになっても不思議ではありません。職場で女性を差別的に見ることが男性の家事・育児参加を促しているというよりも、逆に、男性は家事・育児に参加していると自負することで女性への目が厳しくなるのではないかというわけです。
 また、もはや家事や育児も男のすべきことであるとすれば、競争意識の強い男性は、職業労働だけでなく家事や育児でも他人と競い合おうとしてもおかしくありません。つまり、女性や他の男性に対する競争意識や優越志向といった、昔ながらの男らしさへのこだわりが、意外にもこれまで女性の役割とされてきた家事や育児への男性の参加を促しているのではないかと考えられるわけです。
(pp.98-99)

 多賀さんは、男性がたんにケアを担うだけでなく、「ケアの態度」を涵養することが必要なのだという。

 オーストラリアの研究者カーラ・エリオット氏は、ケアと男らしさに関するこれまでの議論や研究を整理して、「ケアする男らしさ」を「支配やそれに関連する性質を拒否し、肯定的感情、相互依存、関係性といったケアの価値を受け入れる男」のあり方だと定義しています。この定義を受け入れるならば、「ケア」労働とされる家事や育児を積極的に担っている世界中の男性たちの多くも、いまだ真の意味で「ケアする男」にはなり得ていないのかもしれません。
 男性のケア参加がジェンダー平等の決め手となるには、男性たちが単に「ケア」の名で呼ばれる労働に参加するにとどまらず、次のステップとして他者に配慮し、互いに助け合い、自分のことも大切にするといった「ケアの態度」を培い、そうした態度を家庭でも職場でも、社会のさまざまな場面における女性たちとの関係性の中で発揮していくことが求められていると言えるでしょう。
 そうした男性たちのさらなる変化は、男女間での平等な関係づくりに寄与するだけでなく、男性たちの人間性の幅を広げ、男性たちに心身の健康や生活の質の向上をもたらし、彼らの人生をより豊かにしてくれるに違いありません。
(p.100)

 すでに述べたように、男性たちは、ともすれば自分自身をいたわり大切にするというセルフケアを怠りがちです。男性たちの間には、健康に悪そうなことや危険な行為によって「男らしさ」を競い合うという不思議なサブカルチャーがしばしば存在します。若い世代だと睡眠時間の短さを自慢し合うなんて話を聞きますし、現在の中年より上の世代では酒を飲む量を競い合ったり、酒がたくさん飲めないと「男らしくない」と言われたりした人は少なくないのではないでしょうか。命に関わるような危険なことを武勇伝のように語るというのも、男性サブカルチャーの「あるある」でしょう。
 他人に対する気遣いや配慮についてはどうでしょうか。ケアの本質の一つが、他人のニーズを満たすこと、さらには他人のニーズをあらかじめ察してそれに応えるように振る舞うことにあります。確かに、男性が他人に対するケアを献身的に行っている様子を目にすることは珍しくありません。多くの男性が、仕事の場面では顧客や上司や先輩たちのニーズを敏感に感じ取り、彼ら彼女らに対して献身的なケアを行っています。また、好きな人ができてその人の気を引こうとする際、あれこれと気を遣ったり相手が喜びそうなプレゼントを贈ったりと、涙ぐましい努力をする男性も少なくありません。
 ところが女性たちからは、しばしば次のような声を聞きます。私の彼は、付き合う前はとても優しかったのに、付き合いだしたら途端に偉そうになった。うちの夫は、結婚する前まではとても親切で私のことを気に掛けてくれていたのに、結婚したら気遣いが少なくなって、世話してもらうのが当たり前のような態度に変わってしまった、などというものです。
 仕事の場面や恋人と付き合って間もない頃には相手に対して献身的なケアができているということは、彼らはケアする能力は持っているということです。なのに、仕事を離れたプライベートな場面だったり、親密な相手との関係がある程度安定してきたりすると、途端に他人のニーズを感じ取るためのアンテナの感度が下がってしまう。その意味では、こうした男性たちがまだ十分に身につけられていないものは、ケアする能力ではなく、ケアの態度なのかもしれません。
(pp.104-105)

 たしかに、そうなんだろうな。
 とても勉強になる。

 多賀さんは、「男らしくあれ」という言葉が、女性への蔑視と差別、ハラスメントにつながりかねないことを指摘する。

 男性が男であることに誇りを感じることや、男性にそうさせようと働き掛けること自体は悪いことではないでしょう。しかしその際に、男性本人や彼らを指導する立場の人々が、知らず知らずのうちに「男」以外の人々を貶めて見てしまっていたとすればどうでしょうか。性別は、基本的には本人の意思とは関係なく生まれながらに付与されるものであり、個人の選択や努力によって変えられるものではありません。それなのに、たとえ明言はしていなくても、男性を励ますことが結果的に女性を貶めることにつながってしまうような発言を伴う指導・教育方法については、問い直してみる必要があるのではないでしょうか。
 こうした発言は、何もスポーツ界や軍隊だけでなく、私たちの身近な職場でもしばしば聞かれます。「男のくせにこんなこともできないのか」「男ならやってみろ」などと男性部下に声を掛ける上司は、決して女性を差別したり馬鹿にしたりすることを意図してこのような発言をしているわけではないでしょう。しかし、これらの言葉を発した本人の意思とは関係なく、これらの言葉の裏には、「男は女よりも劣っていてはならない」「女はそれができなくてもよい」といった言外の意味が含まれており、そうした意味では女性従業員への間接的なハラスメントにもなり得ます。たとえこれらの言葉が男性従業員に向けて心配や激励のつもりで発せられたとしても、彼女らはその言葉の深意を敏感に察知し、自分たちは期待されていないと感じて、労働意欲や職務満足度を低下させてしまうかもしれないのです。
 男性に対してよかれと思って発した言葉が、思わぬ形で女性に対するハラスメントになりかねない。特に部下を指導する立場にある男性たちは、このことを自覚しておきたいものです。私も後輩の教員や学生たちを指導する立場にある者として、気をつけたいと思っています。
(pp.187-188)

 こうしたことは、「日常に潜むマイクロアグレッション」の問題として意識されていくべきであろう。


(p.208)

 この図は、男性が女性を支配し、年長の男性が年少の男女を支配するという、家父長制のしくみを示すものでもあるが、年少の男性が、年功序列で支配的地位に移行することを期待し、構造的に、女性への差別やハラスメントに対し見て見ぬふりをしがちになることを示している。
 わたしたちは、こうした、職場におけるジェンダー化された権力構造に自覚的であるべきだ。

 人はだれでもまちがいをしでかす。
 それも程度問題であるとしても。

 大切なのは、加害者となってしまったり、加害を傍観してしまった際に、きちんと反省し、その後の行為によって、自らの応答責任を果たしていくことだ。

 そもそも、これまでに誰かを傷つけるような言動を一度たりともしたことがない人などいないのではないでしょうか。そうした意味では、性別にかかわらず、また被害者を含めて誰もが、ハラスメントの加害者であった瞬間があるに違いありません。これは決して、加害者であったことがある者には被害者として声を上げる資格がないとか、お互いさまだからわざわざ騒ぎ立てるなと言いたいわけではありません。そんなことを言い出したら、誰もハラスメントに「ノー!」の声を上げられなくなってしまいます。ここで言いたいのはまったくその逆です。
 一方で、自らの被害経験をつらいと思う立場からは、もうそんな目には遭いたくない、そんなハラスメントを許す社会のままにしたくないことを訴えるために、ハラスメントに「ノー!」の声を上げる。他方で、加害の経験や傍観していた経験があって、そのことを反省したり後悔したりしている立場からは、これからは二度とそうしないことの誓いの証として、ハラスメントに「ノー!」の声を上げる。こうして、被害者VS.加害者、告発する側VS.告発される側といった単純な対立図式を乗り越えて、性別にかかわらず手を携え、セクハラをなくすためにアクションを起こすことができるはずです。
(p.218)

 多賀さんは、マイケル・カウフマンさんとの出会いを契機に、「ホワイトリボンキャンペーン」──女性に対する暴力を男性が主体となってなくしていこうという社会運動に参加する。

 私は彼の主張には共感できましたが、それでも暴力の加害者と自分が一緒くたにされているかのようなモヤモヤした気分は晴れないままでした。そこで私は彼に、正直に自分の気持ちをぶつけてみました。「女性に対する暴力の話を聞いていると、私は女性に暴力を振るわないのに、男であるというだけで女性に暴力を振るう加害者と一緒にされて責められているような気がして落ち着かないのです」と。すると彼は、私の発言に深くうなずいた後、次のように優しく私に語り掛けました。

   暴力を振るっていない男性が、暴力を振るっている男性の代わりに罪の意識を感じる必要はありません。罪の意識を感じたところで、女性に対する暴力はなくなりません。

 私はこの言葉を聞いて、これまで心の底で抱えていたモヤモヤが一気に解消され、とても救われた気分になりました。しかし、すかさず彼は次のように続けました。

   でも、女性に対する暴力をなくすために、男性であるあなたにも何かできることがあるのに何もしていないのなら、その点は問い直してほしい。できることから始めようではありませんか。

 私はこのとき、まさに虚を突かれた思いがして、なんて自分は心の狭い人間だったのだろうと恥じ入りました。私は、多くの女性たちが男性から暴力を受けていることをすでに知っていたのに、自分は加害者ではないからとして、それらの問題を傍観してやり過ごしていたのです。そうした私と同じような人々が大勢いることが、それらの問題解決を遅らせてきたのではないか。私は知らず知らずのうちに、暴力を振るわない自分と一緒にしてほしくないと思っていた加害者の片棒を担いでいたのではないか。私も女性に対する暴力をなくすためにできることから始めなければ。そう思い直したのです。
(pp.226-227)

 女性を鏡として、男である自らの立ち位置、振る舞いを振り返ってみることから、「男性学」ははじまる。

 本書には、その試みに有益な肉付けをしていくための観点と知見とが数多く収められている。

ホワイトリボンキャンペーン・ジャパン(WRCJ)

目次
序 無意識の思い込み(アンコンシャス・バイアス)
第1章 男性稼ぎ手社会の終焉
第2章 ジェンダー平等の実現に向けて求められる男性の「ケア」労働
第3章 母親の「イライラ」と父親の「モヤモヤ」――「イクメン」ブームの功罪    
第4章 家庭教育と父親役割のインフレ現象
第5章 ハラスメントのない職場づくりに男性はどう関わるか
第6章 社会を挙げてドメスティック・バイオレンス(DV)と虐待を防止する


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