小島慶子,2022,おっさん社会が生きづらい,PHP研究所.(9.20.24)
「おっさんは、私だった」。アナウンサーとして活躍し、現在はエッセイストとして活動する著者は、ある経験を契機に、これまで忌み嫌っていた「おっさん的な感性」―独善的で想像力に欠け、ハラスメントや差別に無自覚である性質―が自分の中にも深く刻まれていることに気づく。この“おっさん性”は、男女問わず多くの人々に深く染みついているのではないか。本書はそんな日本社会に染みついた“おっさん性”について考察した、著者と5人の識者との対話集である。人が心を殺さねば生き延びられない“おっさん社会”から脱却するためのヒントがここにある。
小島さんは、威張る、説教する、権力を濫用する、女性の身体を消費の対象とする等々、「おっさん」的なるものに苦しみながらも懸命にあらがってきた。
本書に収められている5人の論客との対談では、そうした小島さんの葛藤と内省とが赤裸々に語られている。
〝おっさん性〟は人を壊す。その人自身を壊し、周囲の人を壊す。
人が心を殺さねば生き延びられない〝おっさん社会〟から、私たちは抜け出すことができるのだろうか──。
(p.10)
自らが権力を体現する者でもあることへの自覚と配慮、これこそが脱「おっさん」の肝である。
小島 性別にかかわらず、自分が持っている権力に鈍感な人は、おっさん。とてもよく理解できます。
実は以前、自分にも思い当たることがあったのです。現場マネージャーの若い女性のケアレスミスが多かったため、何回か注意をしたのです。もちろん丁寧な言い方でしたが、彼女は、「他の人ならミスをしないんですけど、小島さんだと注意されるのが怖いからミスをしてしまうんです」と言うのです。
そこでハッと気づきました。彼女にとっては、自分の母親ぐらいの年齢でテレビに出てる人というのは「権力」そのものなのだと。そこにいるだけで怖い存在なのですね。そこで彼女と話し合い、当人の希望を聞いて、担当を変えてもらうのがいいねということになりました。お互いにハッピーになる選択ができたと思っています。
でもやはり、最初に「怖い」と言われたときはつい脊髄反射で、「なんで?そんなつもりないのに」「ミスを私のせいにするなんて、言い訳がましいなあ」と思ったのも事実なのです。あとで、それこそが「おっさん」の反応なのだと反省しました。
多賀 でも素晴らしいですよね。自分自身でそこに気づけたことが。コテコテのおっさんは気づきません。
(pp.78-79)
わたしはアイドルなるものに興味をもったことは一度もないのだが、「おっさん」が若い女性に入れ揚げる心性を、小島さんはこう分析する。
小島 (前略)
私はそうした構図をとてもよく理解してビジネスにつなげたのが、秋元康さんだと思っています。「床屋政談」という言葉があるように、かつての男性たちは街場で政治や天下国家についてわかったように語ってガス抜きしていたのが、80年代以降は自分たちがいくら政治を語ったところで世の中を動かすのはそう簡単ではないし、政治的な話をすると批判もされるので面倒になった。そもそも市民としての当事者意識が希薄で、政治に目が向いていない。そんな時代の抑圧された男性の心理を消費行動につなげる仕組みとして、AKBというビジネスモデルはとてもうまくいったのではないかと思うのです。
民主主義をアイドル消費に置き換えて、総選挙の投票という権利を行使する手応えと、自分の一票で女性を思い通りにできる快感と、好きな人を応援する喜びが、お金を払えば満たされる。相手は男性の政治家ではなく、10代の少女たちです。応援している子のライバルの女の子を批判しても罵倒しても反撃されないし、怖くないですよね。メンバーを分析し、自分の推しを決め、人物や人事についてああでもないこうでもないと議論する。それは、彼らにとっての政治談議です。女の子はお金を出せば自分にかしづいてくれるし、CDを買って投票権を手に入れ、好きな子をトップにすることもできる。ビジネスとして実にうまい仕組みだとは思いますが、「権力を行使する場所はそこじゃないのでは」と言いたくなります。
総選挙でのランキング形式は、江戸時代の遊郭のガイドブックかつランキング表の「吉原細見」と同様、顧客の参加意識を高め、消費対象になる女性たちの競争心を煽ります。遊郭では人身売買と構造的な性搾取が番付アップを望む遊女の自己実現にすり替えられたわけですが、メンタルのケアもなくファンに罵声を浴びせられても笑顔で耐えるような過酷な働かされ方をしているアイドルの少女たちも、それがファンのためだ、夢の実現のためだと信じて頑張る。利益を吸い上げるおじさんはファンからもアイドルからもリスペクトされる。
当時、私の周囲でも同世代の男性たちが真剣な顔でアイドルの人事やリーダーシップについて語っていました。アイドルに心からの敬意を抱いている様子もわかりました。それを見ながら、なんとも不思議な気持ちになったものです。この人たちは、このビジネスの構造や彼女たちの働かされ方には疑問を持たないのだろうか?大事な推しが歌わされている歌詞の内容に疑問を持たないのだろうか?自分の〝愛〟や消費行動がそれを支えていることに気づいていないのだろうかと。何がこの人たちにあのような形のアイドルを必要とさせるのか、とても興味深かったです。
多賀 なるほど。アイドルの消費によって剥奪感を埋め合わせ、権力欲も満たせる。確かによくできたシステムです。より弱い立場の人々にあからさまな暴力を振るう人たちに比べればまだ健全でしょうが、アイドルを消費する男性たちも、権力をもつ男性による女性たちへの支配に結果的に加担してしまっているというわけですね。自分たちの剥奪感を生んでいる社会の仕組みやそれを許している政治の問題から目を逸らさせてしまう効果もある。メディアリテラシー教育や主権者教育の重要性を改めて感じます。
(pp.91-93)
女性を性的に消費したいだけなのに、それを「応援」と称して免罪、免責する。
「おっさん」に性的に消費されているだけなのに、「応援されている」と勘違いする女性。
遊郭から飲み屋、アイドル商法に至るまで、この社会の性搾取のありようはまったく変わっていない。
性的に消費されて利益を享受することと、そのことにより自らの尊厳を貶めてしまうこととの葛藤・・・これは多くの女性が経験するものであろう。
小島 (前略)
俗に「女子アナ」と呼ばれる特権、つまり女性がはかされる下駄は、男性優位の内輪社会に適応して、求められる理想の女性を演じます、という踏み絵を踏んだことによって得られるものです。当時「女子アナ」に求められていたのは、優等生的で愛嬌があって、男性からのセクハラ発言にもニコニコしながら可愛げのある気の利いた答えを返すという、まさに「おっさんが求める女性像」そのものです。ちなみにこの〝おっさん〟は男性視聴者だけでな女性視聴者の心の中にも住んでいます。生意気な女性アナを嫌う女性視聴者は嫉妬ゆえではなく、心に飼っているおっさんが生意気な女を気に入らないから嫌うのです。同時に、要領のいい女性アナを嫌う女性視聴者は、画面の中のあざとい女性が、女性がそのようにしか生きられない構造を強化する役割を演じていることに苛立っているんですよね。女性は、おっさんである自分とおっさんに奉仕させられる自分とに引き裂かれているのです。女性が女性に対して抱くネガティブな感情のすべてを、男をめぐる女の争いだと考えるのはかなり的外れだと思います。
入社当時の私は、与えられた「若い女性の特権」をお得だと思っていました。ただ、あるときふと、なぜ「若い女子アナ」であることをこんなに強調されるのだろう、これはおかしいのではないか、対等な扱いじゃないよな、と思い始めた。男性の内輪社会の視点で見れば、特権を与えられているように見える人間が、男性優位の構造を疑う視点から見れば、搾取されているように見える。起用する者とされる者、まなざす者とまなざされる者
という力の不均衡を利用して、構造の維持に加担させられているように見える。これは下駄じゃなくて足枷だよね?と気づきました。
(後略、pp.96-97)
小島 でもエリート女の宿痾というところを掘り下げていくと、それはそれで悲しみが滲んでくると思うんです。それは女が自らの過ちで発症したものではなく、男社会の中でサバイブするために、男の価値観を内面に取り込んだゆえの副作用といった面があると思うんです。
(p.227)
小島 私の中にエリート妻願望があるとして、それがマッチョな男社会に適応するために刷り込まれたものだと考えると、やはり社会に対する恨みがふつふつと湧いてきてしまいます。
上野 引き裂かれますよね。サバイブするために男社会に適応しながらも、うまく乗りこなせてしまっている自分も赦せないんだよね。
(p.229)
上野 女子アナは局の看板でしょ。消費されるのが仕事ということは最初からわかっていたんじゃないの?
小島 それがやっぱり根深くて、テレビを見ているときはジェンダー的な疑問を感じていなかったんですよね。「若いうちにチヤホヤされるのは得だよね」「華やかだし、むしろ男性より目立ってていいじゃないか」という「女性を消費する男性目線」が元々私の中にあったからです。でも、いざ消費される側に回ってみたらえらく腹が立って、自分の内面が分裂してしまいました。
(pp.241-242)
女性を性的消費の対象としてまなざす男の暴力性は、女性のセルフイメージを分裂させる。
私は子どもの頃から、メディアの中や日常会話で、女性が性的なナマモノとして品定めされることに慣れっこになっていた。「若くて可愛い女性には価値がある。平凡な容姿の女性や、若くない女性は笑い物にしていい」というシスヘテロ男性優位社会で支配的な価値観が、特に批判されることもなく身のまわりに溢れていた。やがて女として世間からそのようなまなざしを向けられることへの恐れと不安が、思春期以降の私の動作や言動をぎこちなくした。ジャッジされるのが怖くて、初めから道化を演じたりもした。そしていつの間にか深々と、メディアが作り出した「消費する男のまなざし」を内面化してしまった。「まなざす者とまなざされる者」の軋轢を他者との間にも、また自己の分裂と葛藤という形で内部にも抱えていたのだ。
支配や消費の対象としてまなざされる立場に置かれた者は、理不尽な目にあわされたとき、相手を憎みながらも無意識のうちに加害者の持つ強者性への憧れを抱いてしまう。自分もいつか誰かを無遠慮に、暴力的にまなざす立場になりたい、と思ってしまうのだ。私は、夫が仕事を辞めて、自らが大黒柱になった途端、それまで自分が社会で受け続けてきたまなざしをそっくり夫に向けた。経済的社会的な強者として、弱者となった彼をストレスのはけ口にし、支配しようとしたのだ。
(p.133)
小島 見られる仕事(テレビ)と見られない仕事(ラジオ)を通じて、視線の暴力について考えるようになりました。見るという行為は収奪だけど承認でもあり、目を奪うという形のまなざされる側からの収奪や支配もある。見る/見られるの権力闘争の場で生き残るには「誰の目をどのように引けば勝てるのか」を見極める必要がありました。女性を性的な商品として眺める視線は自分の中にもある。人間ではなく、鑑賞物として眺めている。その人の身体はその人のものではなく、眺める人のもの。疑いなくそう信じるのを「おっさん的視点」と言うなら、いったい自分はそれをどこで取り込んだのだろうと考え続けました。私は視聴者や社内からの「おっさん目線」に晒され、それに苦しみながらも他者の身体を見ると「おおエロいな」「ブサイクだな」などの品定めを平気でしてしまっていたのです。やはりメディアの影響はとても大きい。そのことを、私はだんだんと言語化できるようになっていきました。その後、ジェンダー平等が世界的な重要課題となり、本を読んだり記事を読んだりするうちに、自分と同じ違和感を覚えている人がたくさんいることがわかりました。2017年に起きた「#Me too」運動以降は特にそうです。それまではスルーされていたホモソーシャルでマッチョな振る舞いに対して、若い世代を中心に嫌悪感が高まりました。ただ、繰り返しになりますが、それは自分の中にもあるものなので、声を上げると言葉が我が身に刺さって血が流れる。自分で腹を開いて腑分けしながらやるほかありません。そんなとき夫が無職になり、私のなかの「おっさん性」がまざまざと露呈した・・・・・・ということなんです。
(pp.245-246)
まなざすことの暴力性にセンシティブであること、これもまた大切なことだ。
小島 そうなんです。女は逃れようもなくまなざされるものであるということを痛感しました。
以前、夫の発言に激怒したことがあったんです。まだ小学生だった頃の息子には、クラスで周囲公認のガールフレンドというか、小学生なので可愛いものですが、仲良しの女の子がいたんですね。集合写真でその子を見た夫が「さすがだな。パパはこの子のことをクラスで一番かわいいと思ってたんだ」と言ったんです。
この発言には2つの問題があります。まず集合写真の女の子たちを品定めの目で見ていたこと。その上で、一番かわいい子を射止めることが男の手柄であると息子を〝褒めた〟こと。その場で「それは間違っているよ」と夫にも息子にもわかる形で話しました。もちろん、夫に悪気はなかったのですが、無意識の習慣としてそのまなざしが染み付いてしまっているのですね。
熊谷 男女間の、まなざしの「非対称性」というのはありますよね。
小島 ただ、私は中高と女子校育ちですが、それは女子校の生徒同士でもありました。あの子かわいいよね、あの子モテそうだよね、と写真を見て品定めする。これは賞賛するという方向ではありますが、やはり鑑賞と格付けです。視線の質としては夫が刷り込まれていたものと同質だと思います。女性の中にも、女をまなざす消費者の心理、疑似的な強者の視点がある。
(後略、pp.148-149)
ジェンダー平等に反発し、女性に対して相対的剥奪感をいだく男性。
自らの困窮や不安は、社会政策の無作為と失敗に起因するにもかかわらず、彼らは女性に敵意を向ける。
小島 もしかしたら上の世代は、世の中は男女平等ではないという認識に立っているから、「善意のパターナリズム」が発揮されるのかもしれませんけど、若い世代の、特に男性は、「今はもう女性差別なんかないのに、なぜまだ騒いでるの?むしろ男のほうがしんどいのに」という感覚を抱いているんでしょうか。
多賀 多分そうだと思います。韓国での世代別のインタビュー調査から伺えるのですが、やはり年長の世代、今の40代以上だと明らかに男性優位の労働市場や学校教育の中で優遇されてきて、女性と張り合った経験があまりない。その代わりに女性を養い保護するのは男の務めだっていう感覚がありますね。
だけど若い世代では、学校教育については数字の上では男女平等になってます。労働市場ではまだ男性のほうが優位なはずですが、上の世代に比べたら若い男性たちもかなりの就職難に直面している。そうすると若い男性にとって女性っていうのは、保護する対象ではなく、少ないパイを奪い合う競争相手なんですよね。
また、韓国には男性だけに約2年間の兵役があります。客観的な状況はさておき、若い男性たちの実感としては、機会は男女平等になっているにもかかわらず、男性だけが兵役に行かされ、そして女性には支援策もある。むしろ男性のほうが差別されてると感じられるような、そうした主観的な感覚がかなり強くなってるんじゃないかなという気がするんですね。
小島 女性差別はないという現状認識は事実が見えていませんし、不満の矛先は女性ではなく、国に向けられるべきですよね。韓国は60年代以降の急成長と、97年のIMF危機以降、強力に押し進められた新自由主義的な政策によって、凄まじい格差社会になってしまっている、そのことにこそ問題があるのでは。
多賀 そうなんです。それから韓国は日本以上に近代化が圧縮されて進んでいるので、日本以上に世代間格差が大きいですよね。だから若い男性たちが批判すべきは同世代の女性じゃなくて、上の世代の権力を持ってる男性たちではないでしょうか。この男性たちが既得権益を守りながら再配分をうまくやってないっていうところこそ問題だと思うんです。しかし、批判はそちらには向かわずに、同世代の女性たちに向けられる。そしてそれに対して、女性たちも猛烈な勢いで男性たちへの批判を行う。
互いに敵を見誤ってるっていうのが、私の見立てなんですけど。この若い男女が協力して共通の問題点を見据えて批判し、それを社会変革につなげていくことが重要だろうと思うんですけどね。
小島 格差と分断が進む今の日本でも、同様のことが起きつつありますね。日本がこの20年間給料が上がっていないのも、若者が将来に希望を持てないのも、90年代に就職がうまくいかなかった団塊ジュニア世代が置き去りのままなのも、世界有数のジェンダー格差国なのも、国の政策の失敗です。ジェンダー平等を志向する人たちは男女に関わらずその点を指摘していますが、その話になると「いやフェミニストが悪い」と言い出す男性たちがいる。女性嫌悪を剥き出しにしたそうした言説に対してきちんと反論するのは大切なことですが、中には男性嫌悪を強める女性もいて、分断が深まっていく。やはりそもそもは国に向けるべき怒りを女性に向ける人々が問題だと思います。残念でなりません。
(pp.100-102)
小島さんは、「シンデレラ(コンプレックス)」もまた「おっさん」(的なるもの)であることを喝破する。
小島 (前略)
私の中にもそのシンデレラの亡霊がいます。経済的社会的に男性に依存しないで生きたい、伴侶を年収ではなく心で選びたいと思って経済的な自立を果たし、実際に肩書きにはこだわらずに結婚したつもりだったのに、いざ夫が仕事を辞めたら「女なのに大黒柱をやっている自分は惨めだ」という気持ちになった。
シンデレラの亡霊が囁くんです。「かわいそうにね、あなた」って。シンデレラって、おっさんなんです。強烈なジェンダーステレオタイプ(男は白馬の王子様、女は愛されるお姫様であるべき)の伝道師ですから。その点では、世界中の女の子たちにお姫様の呪いをかけてきたことを自覚したディズニーが、「シンデレラ」や「美女と野獣」などお馴染みの童話を、自立した女性像でリメイクしているのはとてもいいことだと思います。
(後略、pp.112-113)
家父長制のもとでの支配と従属は一種の依存症である、この指摘にもハッとさせられた。
小島 以前、私の対談集『さよなら!ハラスメント』(晶文社)の中で、精神保健福祉士で『男が痴漢になる理由』(イースト・プレス)を書かれた斉藤章佳さんと対談をしました。その中で斉藤さんは、日本は「男尊女卑依存症社会だ」と表現されたんです。男尊女卑の強い社会では、男性は「稼ぎのいい強い男」でなければならず、女性は「養ってもらえる愛される女性」でないとならない。男性も女性も本当はそんな生き方はやめたいのに、やめられない。むしろ、しんどさを解消するために男性は弱者である女性を支配しようとし、女性は方便として、あるいはそういうものと信じて、男性優位社会を支える「賢い女」になることでサバイブを試みる。いずれも、自身を苦しめている男尊女卑の構造を強化する方法でしか生き延びられなくなっているというのです。まさに依存症ですよね。
(pp.152-153)
小島さんは、自らの辛い経験から、買春する男の卑劣さを手厳しく批判する。
圧倒的な説得力である。
小島 それでいうと、私は15年以上前に夫がした行為をずっと赦すことができないんです。というのも夫は、私が長男を出産して職場復帰したばかりの一番大変だったときに、風俗に行っていたんです。しかもそれが発覚したのは、私が夫から性感染症をもらったから。つまり夫は女性を、コンドームなしで買ったわけです。自分の快楽のために相手を妊娠や感染症のリスクに晒す、性暴力ですよね。性搾取への加担でもあります。で、私には病気を移したのですから、これも性的な暴力です。夫にとっては、買った女性の体も妻の体も尊重するべき他者の体ではなく「射精できる気持ちいい穴」でしかなかったということ。強烈な女性蔑視、女性差別です。無関係な弱い立場の女性のことはモノ扱いして平気なのに、それをおくびにも出さず「優しくて理解のある夫」を演じていた二面性にショックを受けました。その上「買春したのは、慶子が赤ちゃんにかまいきりだったから」と私のせいにしたんです。いくら言っても、自分がしたことがひどい女性蔑視だとどうしても理解できない。まさかの被害者アピールに、強い嫌悪と軽蔑を覚えました。しかし乳飲み子を抱えて離婚する勇気もなく、あまりにショックだったので、「男なんだから風俗くらい行くよね」と無理矢理自分を納得させて、心に蓋をし、胸の奥の奥に封印していたんです。でも夫が無職になった途端、その蓋がゴゴゴゴと開いてしまったんです。
(pp.213-214)
小島 子育ては何も知らずに生まれ出てきた子どもを全力で歓迎することですから理屈抜きで受容できますが、ああいうことがあった夫を受容するのは非常に苦しいです。私個人の恨みを超えて、夫の行為が象徴する日本社会の男尊女卑、構造的な性差別への怒りでもありますから。もちろん、私も間違いなく欠陥品です。でも、彼がやったような、人間をモノ扱いするようなことはしたことがない。そこは、同じとは思えないです。先述したように若い頃の私は非常に自己嫌悪が強く自己評価の低い人間だったので、「こんな女と結婚してくれた彼は仏様みたいな人だ」と思って「夫教」に入信したんですよね。そしたら、彼は仏どころかクソ野郎だったことがわかってしまったというわけです。
(pp.222-223)
小島 「夫はもう一人の息子」なんて思ったことないし、まっぴらです!なんでどこかの親が育て損なった息子を、私が再教育しなくちゃならないんでしょう。いい大人が自力で学ぶ努力をせず、妻に「セックスできるママ」を求めるのは最低ですよね。と言いながら一方で、世間的には自分は狭量な妻なのか?とモヤモヤしていて・・・・・・。たとえば「いいじゃない風俗くらい。相手は商売女なんだから」って女性もいるじゃないですか。私これ、かなり差別的だと思うんです。そういう人は、自分と「商売女」は同じ人間だと思っていないんですよね。この「いいじゃないそれぐらい」という意見をどう思われますか。
上野 私はかえって気持ち悪いと思うほう。他の女性とセックスするなら真面目にやれよって思う。だから相手のことを愛してしまったなら赦してやるかな。
小島 とてもわかります。女性をモノみたいに扱うのは人でなしだけど、相手を愛してしまったから、というのは「人の心のわりなさゆえ」ですから。だから私は今、夫に本気で恋愛をしてほしいんです。「妻や息子を裏切りたくない。しかし、彼女を愛してしまった」という葛藤は人間の苦しみじゃないですか。でも「妻がやらせてくれないから」とお金で女性を買う行為は、思考停止です。相手を人間扱いせず、他者も自分と同じ心を持つ尊厳のある存在であると想像することを完全に放棄している。買った女性も妻である私も、彼にとっては代替可能な性的なモノだった。私はそこに血の通った人間性を見ることはできません。だからもし、夫が悩んだ末に勇気を出して「ごめん、他の人を好きになってしまった」と言ったら、「ああ、私の結婚した相手は人間だったんだな」と思えるだろうと思います。それは、性暴力に無自覚な人でなしと結婚していたと思うよりも、ずっといい。
(pp.219-220)
女性への差別、抑圧、ハラスメント、暴力の根源には、理不尽な働かせられ方や抑圧を強いられる男性の生きづらさの問題がある。
小島 (前略)
私の場合はそうなるつもりで生きてきたわけではないので、大黒柱ってやっぱり精神的にすごくキツくて、「これが人生のデフォルトって、かなり過酷だな」と思うようになりました。今は共働き世帯が6割以上ですが、それでも男女の賃金格差は4:3だし、女性の正社員は少数派。やっぱり「主に男が稼いで家族を支える」は変わっていないですよね。まして私の父の時代は多くの男性が大黒柱でした。馬車馬のように働いて、家に帰ってくると子どもから汚物扱いされ、妻には無視され、世間からは「ハゲ、デブ、臭い、きもい」とからかわれる。もちろん、ろくに家事育児をしないのは問題あるし、ましてハラスメント男やDV男は絶対に許せないけど、でも、男なら邪険にしていいってことじゃないですよね。長時間労働が当たり前の男尊女卑社会って結局、男も人間扱いされていないから、人権が何かもわからないんだと思います。男性優位社会で排斥され差別されてきた女性たちの痛みはもちろんですが、非人間的な働き方や滅私奉公を強いられてきた男たちも相当しんどかったろうなと。
上野 それは私も思う。それだけの想像力があなたにはあるじゃない!
小島 女性差別をなくすには、そういう働き方で恨みを溜めて被害者意識を募らせている男性がまず「こんな社会はしんどい」と認めることが必要だと思います。自分のしんどさと女性のしんどさは地続きで、構造的・文化的な性差別が掛け算になっている分、女性はより一層しんどいのだと理解するにはまず、男が自分のしんどさを言語化しないと始まらない。安心して言語化できる場所があったほうがいいと思います。私は、夫が仕事を辞めてからほんの数年大黒柱を経験しただけで「なんで私だけが死にそうになりながら稼がなきゃいけないの」と夫にぶつけてしまったことが何度もあります。すごくひどいことをしてしまったと自己嫌悪に陥るのですが、その度に「この理不尽な恨みが、男性の女性蔑視やミソジニーや性差別の根っこにはあるのではないか」と思います。「男は兵隊、女は子守と男のお守り」という構造は、権力を持つ一部の男以外の大多数の男を抑圧し、暴力の連鎖を生むんだなと。
(pp.232-233)
男性が矛を向けるべきは、自らを生きづらくしている要因なのであって、けっして女性、ではない。
いやいやいや、対談本で、これほど濃厚な語りが読めるなど、そうそうあるものではない。
自らの視界を広げ深めてくれた小島さんに感謝。
目次
第1章 “おっさん的”コミュニケーションの手放しかた―清田隆之
「“おっさん”マインド」とは?
おっさんなるもの、おっさんコミュニティとどう付き合うか ほか
第2章 なぜ日本では「女も男も生きづらい」のか?―多賀太
そもそも男性学とは何か?
男性という役割に生きづらさを感じている男性も少なくない ほか
第3章 「愚痴ること」が開く地平線―熊谷晋一郎
まなざしの支配―多数派の視線を考える
「男性性の病理化」―かつてのおっさんは社会に適応できなくなった ほか
第4章 “おっさん的”な分人を捨てるために必要なこと―平野啓一郎
「おっさん」は「カッコいい」の対極にあるもの?
若者文化とおっさん ほか
第5章 日本の男性はどこへ行くのか?―上野千鶴子
上野さん、愛ってなんですか?
夫と交わした「エア離婚」 ほか