素人、考古学・古生物学を学ぶ

人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

 ゾウ目「ディノテリウム」再考(2):中本博皓

2023年05月09日 15時30分39秒 | 絶滅と進化

                                                        ゾウ目「ディノテリウム」再考(2)

 

       2.デイノテリュウムとその発見者カウプについて

     デイノテリュウムの化石が発見されている地域としては、ヨーロッパが多いのに驚いています。最初の発見地はドイツでした。他にチェコ、ブルガリア、ルーマニア、ボヘミアと広域にわたっています。アジアではインドで、アフリカではケニアでそれぞれ発見されていることから、これらの地域が生息地でもあったと見られます。

    ドイツの南に位置するエッペルスハイム(Eppelsheim)は楽器の町としても知られています。ドイツ、ラインラント=プファルツ州(Rheinland-Pfalz)のアルゼイ・ヴォルムス郡(Landkreis Alzey-Worms)にあるエッペルハイムと言った方が正確なのかも知れません。

    1829年そのエッペルスハイムで、デイノテリュウムの化石がカワプらによって発見されたのが最初でした。しかし、発見されたのは下顎の牙の付いた下顎骨のみであったと言われています。しかも下顎の牙は半分に折れていたそうです。カウプは初めて見たためどのような形状になっていたか分からず、本来後ろ・下向きの牙を上向きに復元し、巨大な水棲動物(獣)と考えて、Deinotherium「恐ろしい獣」を意味する学名にしたものと考えられています。カウプは、その後1833年に保存状態のよい、自らがデイノテリュウムと命名した獣の化石を再び発見し、後ろ下向きになっていた牙を見て驚いたようです。カウプは自分が復元した向きの誤りを認め、現在知られている頭蓋・下顎骨として表記したものと推測できます。

    またドイツの南西部バーデン=ヴュルテンベルク州南部に位置するウルム市ランゲナウでは、デイノテリユム・ババリカム種が(Deinotherium  bavaricum)が産出されています。

    ここでデイノテリユムの発見者カウプ(Kaup)について少しばかり述べておきます。カウプは、ドイツの古生物学者でありますが、博物学者としても大変よく知られています。正確には、ヨハン・ヤコブ・フォン・カウプ(Johann Jakob von Kaup)と言い、1803年4月20日、ダルムシュタット(Darmstadt)に生まれ、1873年7月4日ダルムシュタットで逝去しました。

    ヨハン・ヤコブ・フォン・カウプは、ダルムシュタット出身のエリザベート・ドロテア・ゲーベルを母に、そしてヘッセン州オルテンベルク出身の牧師の息子だったハインリッヒ・フリードリヒ・フォン・カウプを父として生まれました。ところが幼少から少年時代のカウプは、父親の事情もあって生活は貧しかったと言われています。    1812年9歳でペーダゴーグに入学しましたが、1819年にギムナジウムを退学しています。母は1820年病で亡くなりました。

 彼は独りぼっち、無一文の状態で、最初は事務職で生計を立てることになりましたが、その後、カウプは生活費に当てるため、自分で射落とした鳥の剥製作りを学び、それを売って生活費に当てたと言われています。

    しかし、自然科学へ志向を捨てきれず、1822年ゲッチンゲン大学に入学し、翌年にはハイデルベルク大学に転じましたが学費に窮し2学年には進めませんでした。しかし1823年オランダのライデン(Leiden)へ赴き、Rijks Museum van Naturlijke Historie(国立自然史博物館)で2年間過ごし、その間、両生類と魚類に特別な関心を抱いて研究したと言われています。

    1825年、カウプは故国ドイツのダルムシュタットに戻り、ダルムシュタット・ヘッセン大公博物館の助手の職を得たのですが、1828年からは、ダルムシュタットの自然博物館(Großherzogliches Naturalien-Cabinet)に移り、「臨時助手」として働くことになりました。1830年には、動物学部門の管理担当者になりました。1834年に縁あってエリーゼ・ハウザーと結婚し、1男4女に恵まれました。

     一方で、学者としてのカウプは、自然哲学の提唱者でありました。自然界に生来備わっていると言う数学的秩序を信じ、キナリアンシステム(quinarian system)に基づいた生物(主として動物に関する)分類を試みたことなどでも知られています。

    キナリアンシステムとは、19世紀半ば、特にイギリスの博物学者の間で流行した動物学的分類法で、1819年に昆虫学者のウィリアム・シャープ・マクレー(William Sharp Macleay)によって開発されその後、ニコラス・アイルワード・ヴィゴーズ( Nicholas Aylward Vigors)、ウィリアム・ジョン・スウェインソン(William John Swainson)、そしてヨハン・ヤコブ・カウプ(Johann Jakob Kaup)等の著作を通して、この理論はさらに広まったと言われています。

 

                                               ヨハン・ヤコブ・フォン・カウプ

                (1803-1873)

                                                Johann Jakob Kaub

                                              出典:Deinotherium Museum Johann Jakob Kaup, ein großer Forscher 

           (デイノテリム博物館 「偉大なる研究者J.J.カウプ」)の挿画像による。

 

     また、カウプの生誕の地ダルムシュタットとその近郊は化石の宝庫であり、哺乳類や鳥類の化石が豊富に埋蔵されていたため、カウプは古生物学の研究に事欠かなかったのです。そのことを証明することになった発見が、1829年、ダルムシュタットから40マイル(64.37376キロ・メ-トル)ほど離れたエッペルスハイムという場所で、カウプによってゾウに似た巨大な獣の化石が発見されたことが、そしてまた彼がデイノテリュウムと命名したことで、地球上で知られるようになった最初ことなのです。

     カウプは、1844年にClassification der Säugethiere und Vögel(『哺乳類と鳥類の分類について』を、そして1855-62年にはBeiträge zur näheren Kenntniss der urweltlichen Säugethiere(『先史代の哺乳類に関する知識を身近に得るための貢献について』)を発表して、動物学会から高い評価と賛辞を得たと言われています。

  



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