絶滅したナウマンゾウのはなしー太古の昔 ゾウの楽園だった
日本列島―(14)
第Ⅲ部 ナウマンゾウ、北の大地へ
〈第Ⅲ部1.の前置き〉
ナウマンゾウとマンモスの違いについて聞かれることがあるのですが、どちらもゾウであることには違いありませんが、敢えて違いと言えば一つは「頭の形」、二つに「切歯(牙)の形」と言えると思います。ナウマンゾウの頭の形はよく言われることですが、ベレー帽を被ったような形をしているのに対して、マンモスは頭の上におおきな瘤があるような形をしていると言われています。
二つ目は、ナウマンゾウの切歯が左右長く伸びているのに対して、マンモスの切歯は左右が内側に彎曲しているところです。もう一つの特徴としてよく指摘されていることが、北方系か南方系という見方です。
確かに、諸説あるのですが、北方系の大型獣にはマンモスやヘラジカが、そして南方系の大型獣にはナウマンゾウやオオツノジカが事例として挙げられます。この点は、大学の入試にも出題されることがしばしばあります。例えば。早大文では2012年の入試で、次のような出題がなされています。
「下線a温暖化した自然環境の下の説明として誤ったものを
1つ選べ。
ア 気候が温暖化して、氷雪の融解と共に海水面が凡世界的規模で上昇した
イ 低地部に海水が浸入し複雑に入り組む遠浅の入り江が各地に出現した
ウ 日本海側の冬季の降雪が顕著になり、ブナ林を中心とした植生が生み出された
エ 亜寒帯性の植生から落葉広葉樹林、照葉樹林等の植生に徐々に変化した
オ マンモスやオオツノジカなどの北方系動物群が、本州から北海道方面へ移動した。」
(正解は「オ」です。「オオツノジカ」は南方系です。)〉
1.ナウマンゾウ、北への旅路(その1)
(1)忠類にやって来たナウマンゾウ
1)氷河期に海水面(海水準)が下がり、日本列島はかつてユーラシア大陸とは陸続きになっていた頃がありました。400万年も太古の昔、ミエゾウが日本列島にやって来たことは、古生物学者による化石研究で明らかにされています。陸続きの大陸から陸橋を渡って北からはマンモスやヘラジカ、南からナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣が日本列島にやって来ました。
本書で扱っているナウマンゾウは40万年前頃から30万年前頃に、やはり大陸から陸橋を渡ってやって来たという説が有力なんですが、一説には180万年前とか100万年前という専門家もいます。それでもミエゾウに比べますと、ほんの最近?といえそうです。
ところで、日本列島に南下して来た北方系のマンモスゾウは、そのほとんどが北海道に生息していたと考えられますが、それにしても、南方系のナウマンゾウが北海道に生息するようになったルートについては、いまだ研究者の間でも明確な答えを出しているとはいえません。いろいろ説はあるのですが甘心できる答えにはなかなか出会えないのが現状です。
ここでは、北海道の道東に広がる十勝平野、幕別町の忠類地区晩成(広尾郡旧忠類村)の火山灰土の下から発掘されたナウマンゾウが、一体どこから、どのようにして十勝平野に生息するようになったのか、そこに焦点を当てて考えてみたいと思います。
古生物学者亀井節夫(1925-2014)は、われわれ素人にも手の届く書物『日本に象がいた
ころ』(岩波新書・645、1967(昭和42)年)を著し、そのⅤ章で「象のきた道」(144~190頁)に触れていますが、必ずしも具体的に、ナウマンゾウが、いつ日本列島に渡って来たのか、そのルートには直接触れてはいません。
また、亀井には、他にも一般向けに書かれた『象のきた道』(中公新書・514、1978(昭和53)年)があります。その108頁に「忠類村のナウマン象」という「見出し」があり、118頁まで10頁に亘って、忠類産ナウマンゾウに言及していますが、ここでもナウマンゾウがどのようなルートで十勝平野の忠類にまでやって来たのかについては、具体性のある説明をしていません。
2)しかし、亀井が全く言及していないわけではありません。前掲の『象のきた道』(1978、110頁)で、1961(昭和36)年に、北海道夕張郡栗山町でゾウの臼歯が発見されたこと、そしてそれがナウマンゾウであるかどうかは明確ではなかったことに触れて、「古く、松本彦七郎博士が石狩産として記録したナウマンゾウの臼歯も、産出地が不明のため疑問視されていた」、と述べています。
専門家の間でも石狩産のゾウの化石がナウマンゾウのものであるかどうかは疑問視されていたようです。もし、石狩産となりますと、中国大陸の北方あるいはシベリア辺りに生息していたナウマンゾウの北海道への直接渡来説も考えられなくはないことになります。
そうなりますと、ナウマンゾウ北方系説が浮上する可能性がでてきます。ナウマンゾウの日本列島渡来経路については、今後も専門家によるさらなる研究を待たねばならないようです。
ひとまずそれはそれとしましょう。亀井によりますと、「当時はまだ、ナウマン象はアフリカ象に近縁のものと考えられ、インドのナルバタ象の亜種ともみられていたので南方系という見方が強く、本州にはいたが津軽海峡をこえて北海道にまで渡ったことはなかったとされていた」(『前掲書』(1978)110頁)、と述べています。
そしてまた、「北海道にはマンモス象、本州にはナウマン象という棲み分けが常識であり、ナウマン象の北限は、アオモリ(青森)象の出る下北半島と考えられていたのである」(『前掲書』(1978)110頁)とも述べていたのですが、半世紀ほど前に、十勝平野の忠類で1頭分のナウマンゾウの化石骨が発掘されたことで、ナウマンゾウに関心を抱く専門家の間でも、次の3)ような見方が行われるようになりました。
3)すなわち、忠類の晩成地区において、ほぼ1頭分のさまざまな化石骨が発掘されたことで、北海道にもナウマンゾウが生息していたのは事実でありますから、そうなると、ナウマンゾウがどこから、どのようにしてやって来たものなのか、そしてまた北海道では、ナウマンゾウはマンモスゾウと共存していたのかどうかなど、いろいろな見方が提起されたこともあってか、1970年代に入りますと、俄かにナウマンゾウの北海道生息論に関心が集まりました。
確かに、亀井はナウマンゾウが太古の時代に、中国大陸と陸続きであったことから日本列島に渡来したことは認めていますが、どのようなルートを辿って北の大地、忠類で生息するようになったのかについては、残念ながら『前掲書』(1978)では、甘心な言及はなされていません。
4)それはそれとして、ナウマンゾウが日本列島に生息していたのは太古の昔からであるとする考え方は亀井をはじめ、日本の古生物学者、なかんずく古代ゾウ研究者の一致した見方です。
ナウマンゾウは、中期更新世の30万年前頃から、更新世後期末すなわち2万年前から1万5、6000年くらい前頃まで、北は北海道から南は九州まで広く生息していたものと考えられています。
また、中国大陸でもナウマンゾウは更新世の後期までは大陸北部にも分布していたのではないかと推察されています。その根拠は、黄海や東シナ海の海底から多くのナウマンゾウの化石が見つかっているからだと思われます。
亀井は、この点に関しても言及しています。すなわち、「このように、ナウマン象の出現の時期や、日本列島に渡来してきた道は、以前に考えられていたように、200万年もの古い温暖な時期に、インドやアフリカにつながっていたものではなく、30万年以降に中国大陸の北部とつながっていたものであり、氷河時代の寒冷な時期になって、ナウマン象は中国大陸から日本に移動してきてすみついたものであると考えられるようになった」(『前掲書』1978、100頁)、と述べています。
ですが、その当時、中国大陸のどの辺りと日本列島のどの辺りが陸続きになっていたのか、その点については何も言及されてはいないのです。
日本列島―(14)
第Ⅲ部 ナウマンゾウ、北の大地へ
〈第Ⅲ部1.の前置き〉
ナウマンゾウとマンモスの違いについて聞かれることがあるのですが、どちらもゾウであることには違いありませんが、敢えて違いと言えば一つは「頭の形」、二つに「切歯(牙)の形」と言えると思います。ナウマンゾウの頭の形はよく言われることですが、ベレー帽を被ったような形をしているのに対して、マンモスは頭の上におおきな瘤があるような形をしていると言われています。
二つ目は、ナウマンゾウの切歯が左右長く伸びているのに対して、マンモスの切歯は左右が内側に彎曲しているところです。もう一つの特徴としてよく指摘されていることが、北方系か南方系という見方です。
確かに、諸説あるのですが、北方系の大型獣にはマンモスやヘラジカが、そして南方系の大型獣にはナウマンゾウやオオツノジカが事例として挙げられます。この点は、大学の入試にも出題されることがしばしばあります。例えば。早大文では2012年の入試で、次のような出題がなされています。
「下線a温暖化した自然環境の下の説明として誤ったものを
1つ選べ。
ア 気候が温暖化して、氷雪の融解と共に海水面が凡世界的規模で上昇した
イ 低地部に海水が浸入し複雑に入り組む遠浅の入り江が各地に出現した
ウ 日本海側の冬季の降雪が顕著になり、ブナ林を中心とした植生が生み出された
エ 亜寒帯性の植生から落葉広葉樹林、照葉樹林等の植生に徐々に変化した
オ マンモスやオオツノジカなどの北方系動物群が、本州から北海道方面へ移動した。」
(正解は「オ」です。「オオツノジカ」は南方系です。)〉
1.ナウマンゾウ、北への旅路(その1)
(1)忠類にやって来たナウマンゾウ
1)氷河期に海水面(海水準)が下がり、日本列島はかつてユーラシア大陸とは陸続きになっていた頃がありました。400万年も太古の昔、ミエゾウが日本列島にやって来たことは、古生物学者による化石研究で明らかにされています。陸続きの大陸から陸橋を渡って北からはマンモスやヘラジカ、南からナウマンゾウやオオツノジカなどの大型獣が日本列島にやって来ました。
本書で扱っているナウマンゾウは40万年前頃から30万年前頃に、やはり大陸から陸橋を渡ってやって来たという説が有力なんですが、一説には180万年前とか100万年前という専門家もいます。それでもミエゾウに比べますと、ほんの最近?といえそうです。
ところで、日本列島に南下して来た北方系のマンモスゾウは、そのほとんどが北海道に生息していたと考えられますが、それにしても、南方系のナウマンゾウが北海道に生息するようになったルートについては、いまだ研究者の間でも明確な答えを出しているとはいえません。いろいろ説はあるのですが甘心できる答えにはなかなか出会えないのが現状です。
ここでは、北海道の道東に広がる十勝平野、幕別町の忠類地区晩成(広尾郡旧忠類村)の火山灰土の下から発掘されたナウマンゾウが、一体どこから、どのようにして十勝平野に生息するようになったのか、そこに焦点を当てて考えてみたいと思います。
古生物学者亀井節夫(1925-2014)は、われわれ素人にも手の届く書物『日本に象がいた
ころ』(岩波新書・645、1967(昭和42)年)を著し、そのⅤ章で「象のきた道」(144~190頁)に触れていますが、必ずしも具体的に、ナウマンゾウが、いつ日本列島に渡って来たのか、そのルートには直接触れてはいません。
また、亀井には、他にも一般向けに書かれた『象のきた道』(中公新書・514、1978(昭和53)年)があります。その108頁に「忠類村のナウマン象」という「見出し」があり、118頁まで10頁に亘って、忠類産ナウマンゾウに言及していますが、ここでもナウマンゾウがどのようなルートで十勝平野の忠類にまでやって来たのかについては、具体性のある説明をしていません。
2)しかし、亀井が全く言及していないわけではありません。前掲の『象のきた道』(1978、110頁)で、1961(昭和36)年に、北海道夕張郡栗山町でゾウの臼歯が発見されたこと、そしてそれがナウマンゾウであるかどうかは明確ではなかったことに触れて、「古く、松本彦七郎博士が石狩産として記録したナウマンゾウの臼歯も、産出地が不明のため疑問視されていた」、と述べています。
専門家の間でも石狩産のゾウの化石がナウマンゾウのものであるかどうかは疑問視されていたようです。もし、石狩産となりますと、中国大陸の北方あるいはシベリア辺りに生息していたナウマンゾウの北海道への直接渡来説も考えられなくはないことになります。
そうなりますと、ナウマンゾウ北方系説が浮上する可能性がでてきます。ナウマンゾウの日本列島渡来経路については、今後も専門家によるさらなる研究を待たねばならないようです。
ひとまずそれはそれとしましょう。亀井によりますと、「当時はまだ、ナウマン象はアフリカ象に近縁のものと考えられ、インドのナルバタ象の亜種ともみられていたので南方系という見方が強く、本州にはいたが津軽海峡をこえて北海道にまで渡ったことはなかったとされていた」(『前掲書』(1978)110頁)、と述べています。
そしてまた、「北海道にはマンモス象、本州にはナウマン象という棲み分けが常識であり、ナウマン象の北限は、アオモリ(青森)象の出る下北半島と考えられていたのである」(『前掲書』(1978)110頁)とも述べていたのですが、半世紀ほど前に、十勝平野の忠類で1頭分のナウマンゾウの化石骨が発掘されたことで、ナウマンゾウに関心を抱く専門家の間でも、次の3)ような見方が行われるようになりました。
3)すなわち、忠類の晩成地区において、ほぼ1頭分のさまざまな化石骨が発掘されたことで、北海道にもナウマンゾウが生息していたのは事実でありますから、そうなると、ナウマンゾウがどこから、どのようにしてやって来たものなのか、そしてまた北海道では、ナウマンゾウはマンモスゾウと共存していたのかどうかなど、いろいろな見方が提起されたこともあってか、1970年代に入りますと、俄かにナウマンゾウの北海道生息論に関心が集まりました。
確かに、亀井はナウマンゾウが太古の時代に、中国大陸と陸続きであったことから日本列島に渡来したことは認めていますが、どのようなルートを辿って北の大地、忠類で生息するようになったのかについては、残念ながら『前掲書』(1978)では、甘心な言及はなされていません。
4)それはそれとして、ナウマンゾウが日本列島に生息していたのは太古の昔からであるとする考え方は亀井をはじめ、日本の古生物学者、なかんずく古代ゾウ研究者の一致した見方です。
ナウマンゾウは、中期更新世の30万年前頃から、更新世後期末すなわち2万年前から1万5、6000年くらい前頃まで、北は北海道から南は九州まで広く生息していたものと考えられています。
また、中国大陸でもナウマンゾウは更新世の後期までは大陸北部にも分布していたのではないかと推察されています。その根拠は、黄海や東シナ海の海底から多くのナウマンゾウの化石が見つかっているからだと思われます。
亀井は、この点に関しても言及しています。すなわち、「このように、ナウマン象の出現の時期や、日本列島に渡来してきた道は、以前に考えられていたように、200万年もの古い温暖な時期に、インドやアフリカにつながっていたものではなく、30万年以降に中国大陸の北部とつながっていたものであり、氷河時代の寒冷な時期になって、ナウマン象は中国大陸から日本に移動してきてすみついたものであると考えられるようになった」(『前掲書』1978、100頁)、と述べています。
ですが、その当時、中国大陸のどの辺りと日本列島のどの辺りが陸続きになっていたのか、その点については何も言及されてはいないのです。
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