人種とは・日本人の昔を探る(28)
日本人の昔を探る(その3)
縄文人の農耕-その2-
縄文人の農耕2回目は、稲作に触れておきましょう。これまでの研究から、稲作の起源は中国の長江流域と考えられています。
いろいろ調べて見ますと、1万年前の長江下流の河姆渡(かぼと)遺跡(中国稲作遺跡)からは、「炭化米」、稲作に使われたのではないかと思われる道具が出土していると言われています。いわゆる「稲作の起源」として知られている遺跡です。
しかし、隣国の稲作が直接に縄文期の日本に入ってきたわけではありません。インドなどアジア各地へと広がり、朝鮮半島を経て日本に入って来たのは、一説によりますと凡そ5000~4000年前もの大昔のことなのです。
また、一説では、中国の江准(こうわい)地帯から朝鮮半島南部を経て伝わったとする説があります。上述しました「長江下流部」説で、しかも「直接九州に伝わったのではないか」、と言う説もあります。中国南部から「琉球列島を北上し」、南九州に伝わったとする説など、いくつもの日本に伝来したイネの道があります。
最近では、中国で行われていた水田稲作が入って来たのは弥生時代に近いと推測されており、多分縄文時代の晩期ではなかろうかとする説も有力になっています。正直に言って一つに絞り込むのは、現時点では難しいと思います。
佐々木高明(1929ー2013)は、『日本史誕生』(1991)において、稲作文化の日本渡来について次のように語っています。
〔1978(昭和53)年、福岡市の板付け遺跡で大へんな発見があった。縄文時代晩期の遺物を伴う立派な水田の遺構と稲作が発掘されたのである。従来、わが国では稲作を含め、「農耕」は弥生時代になってから始まると考えてきたから学会の驚きは大きかった。〕
そしてさらに以下のように、発掘された縄文水田の様相を説明しています。すなわち、
〔1978年の調査では、大きな環濠集落が見つかっている大地の西側で、弥生時代初頭の水田址から約40センチほど下の、縄文時代晩期の夜臼式土器(従来の土器編年で縄文時代晩期の標識的な土器とされてきた突帯文土器)だけが出土する層から立派な水田址が発掘されたのである。それは幅2メートルほどの人工的に掘削去れた長い水路や矢板で保護された畦畔をもち、水路には多数の杭を打ち込んだ井堰や二列に杭を打ち込んで水量調節用の柵にした取排水口などがあり、非常に整った水田であった。〕
そして、この縄文水田からは、炭化したコメの外皮をまとったイネ籾、諸手鍬、鍬の柄などの木製の農具も多数出土したことも明らかにしています。このように縄文時代の後期から晩期においては、西日本を中心に、作物遺体の発見例が極めて多くなっていることも明らかにしています(佐々木高明 岩波講座『日本通史』第1巻日本列島と人類社会、1993、238頁)。
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