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人類の起源・進化・移動や太古の昔、日本に棲んでいたゾウ類にも関心があり、素人の目線で考えてみます。

人種とは・日本人の昔を探る(29)

2020年10月10日 15時25分14秒 | 人種とは・日本人の昔を探る

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 人種とは・日本人の昔を探る(29)

  

 日本人の昔を探る(その3)

 縄文人の農耕-その3-

 縄文人の農耕の3回目は、主として晩期における農耕に言及しておきます。稲がわが国において、農耕と関わるようになった時代は縄文時代の後期だと言われるようになりました。

 九州は福岡、熊本の遺跡の調査から、その証拠が指摘されています。遺跡と言いましても、その土壌から科学的に検出された「イネ科植物」の葉身(葉の縁)には、ケイ酸を含む細胞があります。それを拡大して観察しますと、鋭い「とげ」が並んでいるのが分かります。

 カヤとかすすきの葉身ではうっかりしますと、よく指などに深い切り傷を負うことがあります。ガラスと同じような性質です。この性質の基は、水に溶けた珪酸です。

 稲は、それを根から吸収し細胞に蓄えています。そして表現が難しいのですが、細胞がすっかりガラス質に変わったものが一般に言う「植物の宝石」、「プラントオパール」(Plant OpalあるいはPhytolith、正式には、「植物ケイ酸体:シリカボディ」のこと)と呼ばれています。イネ科の植物は、つまりイネ科の仲間はどれもプラントオパールをつくります。

 プラントオパールの形を観察しますと、そのイネ科植物の種を特定できるのです。プラントオパールが扇形であることは、イネ独特の形なんでです。

 ヨシやカヤ・ススキの類もそれぞれが有するプラントオパールの独特の形がありますから、遺跡の地層に残されたプラントオパールを調べることで、その時代にどのような植物が生えていたのかが分かるわけです。

 ですから、縄文人が米作りをしていた時代もある程度、正確に推測することが出来るわけです。

 縄文の人々の農耕の遺跡を調べ、プラントオパールが検出されますと、彼らがいつごろからイネを栽培していたかを知る手掛かりになるという訳なんです。

 小生も昔のことですが、九州の農家に世話なっていた頃、また農学校の農業実習で指に傷をおおったことも何度かあります。

 さてここで、縄文時代後期とか晩期とかと簡単に書いて来ましたが、縄文の時代区分についてひと言述べておきましょう。

 縄文時代は通常6つの時期に区分されています。➀縄文草創期、②縄文早期、➂縄文前期、④縄文中期、⑤縄文後期、そして⑥縄文晩期の6期です。その年代は、以下のように解釈されています。

 ➀はBC10000~7000年、②はBC7000~4000年、➂はBC4000~3000年、④はBC3000~2000年、⑤はBC2000~1000年、そして⑥はBC1000~200年。

 大分短大の佐々木章教授らによりますと、最近の調査では縄文前期から稲の栽培がおこなわれていたのではないか(佐々木章氏のHP(*)による)、と言われています。

 

 (*)「最近、岡山県の彦崎貝塚や朝寝鼻貝塚など、縄文前期の貝塚からイネなどのプラント・オパールが検出され話題になっている。このことについて、コンタミネーションの可能性などさまざまな疑問や意見がだされている。私は、多様な角度からのクロスチェックが望ましいと考えている。

 

 縄文人の農耕については今後の研究次第で、その見方は大きく変わる可能性があると考えられなくもないのです。以下、本稿では縄文晩期農耕文化に少しばかり言及しておきましょう。



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