日暮里発 吹かそう幸福実現の風

日暮里から幸福実現の風を送っています  

8月13日(金)のつぶやきその2

2010-08-14 | 日記
11:48 from web
父は日本に帰った後、日本の業界からボイコット、村八分にされ二度と
医療器具の製作現場には戻れませんでした・・・・。
11:50 from web
パキスタンから安価で高品質のものが入ってくるようになり、
国内の製造業者たちに脅威を与えることになったからです・・・。
11:56 from web
ぼくは日本の業界の狭い心、国際的視野のなさにあきれました・・・
今でこそ国際的競争力はあたりまえでしたが当時は・・・・・なんですね。
11:58 from web
父のパキスタンでの功績は
パキスタンの経済発展に貢献したということだと思っています。
12:02 from web
当時のパキスタンの子供たちは
父がちょうど丁稚奉公した年代と同じ状況の子どもたちが多かったようです・・・
12:04 from web
子どもたちが父母や家族を支えるために一生懸命働く姿に父は自分の持っている
すべての技術をパキスタンの子どもたちや製造技術者に差し出したのだと
今も思っています・・・。
12:04 from web
日本に帰ってからの父はどうなったかというと・・
12:07 from web
肉の万世に面接に行ったり、いろいろ職を探しましたが最終的にビルメンテナンスの下請けの職につきました・・・そこではだいぶ虐げられたそうです・・・。
12:11 from web
それでも一生懸命働いている姿に清掃を頼んでいた会社。モービル石油の担当の方が父を見、モービルの営繕の担当として厚く可愛がっていただき、多くの社員の方の愛されたそうです・・・。
12:13 from web
ここ数年はおふくろさんの介護や、ぼくたち家族が手の回らないところを支えてくれていました。
12:14 from web
いまぼくは腰を痛めているのですが
父の寝ていたベッドに寝て夜は母の介護をしています・・・。
12:16 from web
父も腰椎を三か所圧迫骨折しており、寝ることも痛くて辛い中にありながら
最後まで母や、家族、のためにたんたんと愛を与えてくれていました・・・。
12:18 from web
もう、限界だったのですね。。
本当に命を使いきった・・・そんなちちでした。
12:20 from web
そんな父が亡くなった時、
ぼくは宮沢賢治の天ニモ負ケズの一節を思い出していました・・。
12:25 from web
じぶんをかんじょうにいれづ
よくみ ききし わかり  ・・・・・

本当にそんな生き方の父でした。
15日の帰天式では主エル・カンターレの大いなる御光に包まれ
光の世界へと帰っていくことでしょう。。
12:28 from web
親父さん!本当にありがとうございました!!
そして、主の御光に包まれての帰天、
本当におめでとうございます。。   息子より
by nippori77 on Twitter

8月13日(金)のつぶやき

2010-08-14 | 日記
10:36 from web
ひさしぶりの・・・です。
10:37 from web
いままで参院選がらみでしたが
いまは通常モードでいこう。。
10:40 from web
父が8月1日にあの世の旅だった。
葬儀は直葬にした・・・・。
我が家では初めてだったこともあり、混乱もあった・・・・。
10:42 from web
家族葬という形でしたが多くの方がお別れに来てくださった。。  感謝
10:43 from web
で、ぼくの家族は幸福の科学の信者なので
あらためて支部精舎で帰天式をさせていただくことになりました。。
10:48 from web
8月15日の終戦記念日、
父は戦争体験者で南方から支那(当時の言葉です)にもいっていました。
ぼくが子どものころ話を聞いたのですが記憶が・・・・・。
いい加減なことも書けないのでなんですが帰天式が15日とは・・・・
10:49 from web
ちちも戦争の清算ができることと思っています。
10:53 from web
15日の帰天式で導師が父のエピソードを一、二分紹介してくださるとのこと・・・
いっぱいあって困りましたが・・・ここでまとめようと思って、今つぶやいています・・・。
10:58 from web
父は大正10年11月15日生まれ、尋常小学校を出て丁稚奉公、盆と正月しか親元へは帰れなかったそうです。
父親母親に対する思いは強かったみたいでお土産を必ず持って帰ったそうです・・。
11:00 from web
そんな父ですが両親を早く亡くし、お姉さんがぼくの代まで何かと面倒を見てくれました。。
11:02 from web
父が信仰の道に入ったのは両親を供養するという思いからで
先祖供養の新宗教に入り、死ぬまで先祖供養をしていました・・
11:07 from web
ぼくが幸福の科学の信者になってからもそれは変わらず、
父が幸福の科学に理解(信者)してくれてからも「俺は先祖供養をこれからもやって行くから」と死ぬまで一つの信仰を貫きとおしました・・・。
11:08 from web
父のエピソードというか思い出になりますが・・・。
11:10 from web
ぼくが子どものころは夫婦げんかが絶えず・・・
子どもながらに父をぶん殴ったことがあります・・・。
父は必ず、親に対して何をする・・・といってきました・・・。
11:14 from web
その当時は父の母に対する暴力しか見えていませんでしたが
父親としての責任の重さに耐えていた・・・
親に対する愛情の深さ・・・・
父を追いつめていた母・・・そして、ぼく・・・・。
いまはいろんなことが見えています。。
11:18 from web
親父の背中におぶさって医者に連れて行ってもらったこと・・・・
小学校六年生の時、交通事故にあって、足の骨にひびが入った時、
あり合わせの材料で松葉つえ作ってくれた父。。
11:21 from web
ぼくらは5人兄弟だったので生活は大変でした・・・
正月のお年玉をぼくらにくれたあとはお金が残ってなかったと
よく話していました・・・。
11:23 from web
ちちが50歳当時、父は日本で五本の指に入る医療器械器具製作の職人でした。。
11:29 from web
その父がパキスタンに技術指導に出かけました。
当時父が勤めていた兄弟の会社がパキスタンの会社から
医療器具を輸入することになりましたが製品はあまりにも粗悪で
医療現場に納品できる状態でなかったので、父が直していましたが
・・・
11:29 from web
もう限界で、現地に飛んで一から指導しなければということになったのでした・・・。
11:31 from web
もちろん、ぼくたち家族は反対でした・・・。
しかし父は反対を押し切ってパキスタンへ単身で乗り込んでいきました。
英語も話せないのに・・・・・。
11:36 from web
パキスタンはウルドウ語と英語、生活には苦労したようでした。
しかし神様の技は指導力を発揮し、パキスタンの製品の品質を
国際競争力に耐えるところまで向上させました・・・。
11:40 from web
当時のカラチの日本人学校の校長先生だったと思いますが
父の国際人的資質、チャレンジ精神、献身的といえるくらいの技術指導、
日本人の誇りのような感じで機関紙に書いてくださったことを思い出します。。
11:45 from web
父がまだパキスタンにいたとき
ぼくはカラコルムを登るためインドから国境を越えて
パキスタンへ入りました。
そのとき父が向かえに来てくれましたがぼくがヒッピー見たいっだたので
分からなかったそうです・・・・・。
11:46 from web
これじゃ、一、二分で終わりませんね・・・
by nippori77 on Twitter