大生命の方程式

人間から新人類へと進化と次元の仕組み。
人間能力が開化する時。
炭素系人間から珪素系人間にと変身し新人類と成る。

カルマの法則 その1 エネルギ-変換

2009-07-18 10:08:50 | カルマの法則

カルマの法則 その1
                 エネルギ-変換      

奴隷の苦しみをなめたる者は
   再生して王子とならん
 心やさしければ賞を勝ちうればなり
   王となりて治めたる者は
  ぼろをまといて地をさまよわん
    覆水は盆にかえらざればなり
                    アジアの光

人間の知識が成長するにつれて、
少しずつ自分の住む世界は法則の
世界であるという事が解ってくる。
自然の法則が発見されると、たとえ
最初はどんなにその法則が人間の
行為を制限するように見えても、
我々の意志は一層自由を得る
のである。行為というものは、
内面の世界の思想及び感情の一連の
力を合成した対角線に過ぎないから、
我々の至高の要求は、自分の内なる
世界は法則と秩序の世界であると
理解することである。神智学が説く
カルマ即ち行為の大法則は人間の
本質の内面組織の何かを我々に
しめしてくれる。そして、我々は
環境の主であって、奴隷ではない
ことを少しずつ、解らせてくれる
のである。
我々はすでに、科学によって
万有はエネルギ―の表現であると
いうことをよく知っている。電子は
エネルギーの貯蔵庫である。
拡大して考えると星もまた
回じようにエネルギーの
貯蔵庫といえる。
このエネルギーというものは
常に変化している。即ちその活動は
エネルギーを光や熱や電気に変え、
また重い元素はもっと軽く
なろうとし、一つのものから他の
ものへ変化して行くのである。
人もまたエネルギーの貯蔵庫である。
人間は食物でエネルギーを取り人れ、
そのエネルギーを肉体の諸活動に
変えて行く。人間のエネルギーを
親切な行為に活用すれば、
善の実行となる。他を害することに
このエネルギーを使えば、即ち悪を
なしたこととなる。人間は生きて
いる間中、いつもエネルギーの
変換者である。宇宙のエネルギーは、
人間の中に流れこんで行き、
そのエネルギーは人間によって助け
又は傷害に変えられて行くのである。
カルマの法則というものは、
人間がエネルギ-を変換させて
いくにつれて生ずる原因と結果の
ことをいうのである。カルマの
法則は科学が説くように見える
世界とその力を考えるだけでなく、
人間活動の本当の活動舞台で、
もっと大きな見えない宇宙の力をも
考える。またたき一つにしても、
物質宇宙の凡ゆる力の平均に
何らかの影響を及ぼす力を、
人間の万有になげかけている。
丁度、それと同じように、思想や
感情で、人間は万有に対する
自分自身の立場を変え、
自分に対する万有の
立場を変えている。


力ルマの法則 その2 カルマの作用と反作用

2009-07-18 10:07:22 | カルマの法則

カルマとは何かという問題を
理解する第一歩は力と
その結果を研究することである。
この力とは、物質界の運動の力、
アストラル界の感情の力、
メンタル界の思想と考える力である。
我々はいつも三つのタイプの力を
つかっている。第一の力は肉体的
活動力、第二はアストラル体の
感情力、第三はメンタル体と
コーザル体の具体的或いは抽象的
思索力である。熱望し、夢を見、
計画し、思索し、感じ、
行動する――これらみな、三つの
世界の力を発動させる方法であって、
これらの活力を使うことによって、
人間は他を助けたり害したりする
のである。
さて、我々が使っている凡ゆる
力は、行動の世界の力も、感情の
世界の力も、思想の世界の力もみな、
大生命()のエネルギーである。
我々はそのエネルギーの変換者に
すぎない。我々がそのエネルギーを
行為や感情や思想に変換翰させて
行くのは、ロゴスの御希望による。
我々が、そのエネルギーを使って
ロゴスの進化というプランを推進る
ことをロゴスは希望されている
のである。そのプランを助ければ
我々の行為は善となり、妨げれば
悪となる。我々は常にロゴスの力を
使っているので、いつでもロゴスの
プランを助けているか、そうで
なければ妨害していることに
なるのである。
人間というものは、自分だけの
ただ一人の存在ではなく、何百万
かの偉人からなる人類の中の一員で
あるから、人間の如何なる思想、
感情、行為を、その力の及ぶ範囲に
従って、同胞に影響を与えるもの
である。人々を助けたり、
妨害したりする個人の力の作用は
その本人に一つの結果をもたらす
ものである。この問題は、簡単に
いえば、行動とその結果的反動で
あって、36図に示されている。

   第36図
有害行為が宇宙に投げかける力は
非常に大きい。
(図中の黒い正方形で示されている)
この力は他を害する傷害となって
働くのである。そして傷害を
うけた者に対して保たれていた
宇宙の平均は掻き乱されてしまう。
だが、この平均は悪行者の力で
回復されなければいけない。傷害に
対するカルマは苦痛である。
その苦痛をつくり出す力は、
悪行者を挺子(ふりこ)の支点の
ようにして、必然的な反作用として
来るのである。同じように親切な
行為をすればカルマ即ち反動は、
慰めが与えられるように、環境を
調節する力となって働くのである。
もっと詳しくいうと、この法則の
宇宙では、メンタル、アストラル、
物質等各種の力は夫々の属する界で
働くものである。例えば、或る人は
乞食に憐れみと同情の心で施しを
したが、もう一人の人は単に
厄介者を追い払うつもりで施しを
したとする。両方ともよい行為を
したのであって、二人とも
物質界での行為のカルマは
“慰安”である。しかし最初の人の
憐れみと同情という事に対しての、
アストラル界でのカルマは加って
来る。それは幸福感として本人に
戻って来るが、あとの人には
この種のカルマはないのである。
同じように苦しむ人を憐れむだけで、
与えるものが何もなかったとすると、
感情的な“幸福”という収穫は
あっても、物質的な“慰安”は
ないのである。


力ルマの法則 その3 カルマのパターン

2009-07-18 10:06:34 | カルマの法則

カルマの法則 その3
          カルマのパターン
 このむずかしい問題を説明する
ために、カルマを作る三極の力を
夫々違ったしるしであらわして
見よう。(36図参照)正方形、
三角形、円、星形であらわしたが、
これらば単なるしるしで、それ以上
何の意図もない。
高級メンタル界では、人間の魂が
コ-ザル体の中に住んでいて、
そこでは悪は無能、皆無で、音に
答えぬ沈黙そのものである。だから
ここでは、魂の熱望と反対の
悪はない。それで、黒い星で
あらわすものはないわけである。
悪人は悪魂の持主だというわけでは
ない。悪人は未発達の魂が肉体を
現したものであって、
そのエネルギ―は大変弱いので、
魂の感情的、肉体的代理人を
支配して行くことが出来ない
のである。
 我々がこの世に生れて
来るのに、幾生も繰り返した長い
過去の記録データの末である。
我々は善悪のカルマを携えて、
もう一度地上で仕事をする為に
戻って来たのである。さてこの
カルマはすでに説明したように、
様々な力から出来るものである。
個人が自分の創った善悪様々な力の
出る支点となっている事実を
想像した図が37図である。
この図では、黒印は苦痛、悲しみ、
悩みを夫々あらわして居り、白印は
理想、インスピレーション、喜び、
慰安を示している。(36図参照)

          第37図
 この図を見て、先ず目に
とまるのは、人間の当然受けるべき
苦しみ、悲しみ、悩みが非常に
沢山あるという事である。そして
理想はただの三つしかない。しかし、
三つの界の力というものは、人間の
運命を変えるに当って同じ価値を
もつものではないということを
忘れてはならぬ。慰安を生み出す
物資界の力の一つは、理想を
生み出すメンタル界の百分の一位に
しか過ぎない。もし、物質界の力
一つに相当する働きをlとすれば、
アストラル界の力一つを5とするのは
決して誇張ではないし、
低級メンタル界の力は25、
高級メンタル界の理想には125を
与えてもよいのである。人間が
沢山な苦痛や悲しみ、
悩みを持っていても、
もしその人か僅かばかりの理想を
持ってさえいれば、その人の人生は
失敗せず成功をかち得るものである。
それからまた、慰安や幸福を与える
世間的な冨や地位をカルマの
おかげとして持っていても、
自分の心に過去の生涯から
もたらされたインスピレーションが
なかったなら、その一生は無益の
長物に過ぎない。
 今日一般の
人生の生活を眺めると、
善いカルマよりも、
悪いカルマの方が多いという事は
決して過言ではない。即ち、
全体からいうと、
幸福な努力や喜びよりも、
いやな骨折りと悲しみの方が多い。
人類の進化、段階では、
我々一人一人の貯えた力の貯蔵には
快楽よりも苦痛の方が多いのである。
即ち、我々の悪の総量は善の
総量より多い、それは、
過去に於いて人類は智恵によって
導かれるのを望まず、他を害して
顧みぬ利己的な生活の方を好んで
来たからである。しかし、
カルマの力はそれに適応した力を
発しなくてはならない。
“蒔く者は刈りとる”からである。
 人間が自分の蒔いたものを
刈りとるにつれて、カルマの力は
注意深く調整されて行く。
そして善恵の相関関係は最終的には、
たとえどんなに少なくとも、
善の方が
多くなるようにされるのである。


力ルマの法則 その4 カルマの総量

2009-07-18 10:05:33 | カルマの法則

我々か生れて来た時、
もし善悪のカルマが全部
果されなければならないとしたら、
我々の人生にはあまりにも
苦痛や悲しみか多すぎて、
人生の戦争をたたかい抜く気持を
失ってしまうことだろう。
だか、努力か巧を奏して、
善い方が多くなるように、
再生に当って、各魂の為に注意深い
調整が行なわれるのである。
この調整はカルマの神々に
よって行われる。これ等、
恵み深ぃ智恵の神々は、ロゴスの
プランに従ってカルマの裁決者と
なるのである。カルマの神々は
報いるわけでもなければ、
罰するわけでもない。ただ、
人間自身の力の一働きを調節する
だけである。それで人間のカルマか
進化の一歩を進める助けと
なるのである。
38図は人問のカルマの総量、
即ちその人の凡ゆる過去世で
たくわえられた力をあらわす
円である。この円は白い部分と
陰影のある部分とから出来ている。

        第38図
白い部分は善カルマの量を表わし、
斜線のある部分は悪カルマの量を
表わす。個人のカルマの総量を
100単位とすると、
図では善と悪の関係は2:3の割合に
なっていいる。だからaebcaの
部分は40単位の善カルマを表わし
adbcaは60単位の悪カルマを
あらわす。過去に積まれカルマの
総量を考えることは、印度哲学では
“サンチ夕”即ち積まれたカルマと
して知られている。
このカルマの総量の中から、
カルマの神々はその魂の新しい
人生の為に或る量を選ぶのである。
この総量の4分1が新しい人生の為に
或る量を選ぶのである。
この総量の4分1が新しい人生の為に
選ばれたと想像してみよう。
この4分1は図のccdaで
表わされている。この中、
ecaは10、7単位で善カルマを
表わしている。
この善と悪との割合は総量の時の
2:3ではなく13:4となっている。
このように当然と思われる
配分よりも善の割合が多くなって
いるのである。カルマの蓄積の中の
これだけを携えて、魂は再生する
のであるが、これをサンスクリット
ではプラーラプダ、即ち“出で立つ”
カルマといわれている。
これか回教でいう誕生に当って神か
各善魂の百に結びつける
“運命”なのである。
39図はこのプラーラプダ、
カルマを示すものである。
その善いカルマは白い部分で
fighfあり悪ぃカルマは斜線の部分で
fhgfである。過去の凡ゆる生涯での
カルマの総量の中の善の比率よりも
多くのよいカルマが新しい人生の為に
選ばれたのである。つまりfjhfの
部分はカルマの総量に従った善の
割合であるが、それよりももっと
大きいfighfの部分は新しい
人生の為に実際に選ばれた
善いカルマの割合である。

         第39図
 カルマは力である。
力は自らを消費しながら“仕事”を
して行くのである。この“仕事”が
36図に示された反動を
人生にもたらすのである。
人生が送られて行くにつれて、
39図に示されているカルマは
だんだんなくなっていく。しかし、
カルマの為す“仕事”は反動に
よって新しいカルマをつくって行く。
この様にしてつくられるこの
新しいカルマは、人間の智恵に
従って、善いカルマ、
或いは悪いカルマとなる。
若し苦痛が従順と同情を教え、
悲しみや苦悩に処して自分のした
悪を正す労力に拍車をがければ、
また若しよく理解して
“カルマの不債”を払うならば、
その人の生み出した新しいカルマは
善いものであって決して悪くはない。
しかし、支払うべき負債を恨み、
性格が頑固となり、他人に不幸を
及ぼせば新しいカルマは悪となる。
実際には、我々の多くは、カルマの
負債を払いながら、善悪まぜこぜの
新しいカルマをつくって行く。
我々の中の賢明な人だけが悪よりも
善のカルマの方を多くつくって
行くのである。


力ルマの法則 その5 希望のカルマ

2009-07-18 10:04:06 | カルマの法則

         第40図
新しくつくられたこのカルマは、
サンスクリットでは、アーガーミ、
又はクリヤマーすといわれている
“希望゛のカルマで
40図に示されている。
これは39図よりも大きな円である。
善悪合せて25単位のカルマが
費される間に、
36単位の善悪合わせての
新カルマが出来たものと仮定しよう。
3:4で始った善悪の割合がその人生の
終りには、善16単位、悪20単位の
新カルマがつくられて、
その比率は4:5となった。
40図の半径m㍑とk㍑は夫々、
古いすでに消費された善カルマと
新しく生じた善カルマの扇形の
大きさを示すものである。

      第41図
41図は39図と40図を重ね
合せたものである。一見して、
40図は39図よりも、善悪共に
大変多くなっているが、
悪よりも善が割合に多くなっている
ことがわかる。もう一度38図を
見ると、扇形aecdaの部分が
善悪合せて25単位であって
これが消費、即ちカルマの結果が
その人よって刈とられたのである。
そしてその扇形のあったところには、
40図に示された新しいカルマが
挿入されなければならない。


力ルマの法則 その6 次の生のカルマの総量

2009-07-18 10:03:31 | カルマの法則

    第42図
42図はそのことを
説明するものである。
外円は善悪両カルマの
新しい総計111(100ー25十36)を示し、
内円はもとの総計100を
示すものである。
半径P。とPrは将来、
悪よりも善の割合が
大きくなることを暗示している。
今は善悪の比率は41:59である。
前には40:60だったので、
その変化は大きくはない。
善に一単位を加え、
悪から一単位減ったのが、
一生の結果ということになる。
しかし実際には、
人間が進化のプランを理解するまでは
一生から一生を終えて行くのに
そうたいした変化はない。
年を経、生を重ねるにつれて善い運、
悪い運の高低、
悲しみ喜びの波がある。
人間がロゴスの経綸に仕える為に
決然たる熱望を抱き、
自分のためにではなく、
同胞の為に生きるようになると
はじめて、
その人のカルマに大変化が行われ、
その人の進化がいそがれる。
そうなるとその人の進歩は、
等比級数的に、
各生毎に遠くなって行く。
 我々には、
人には運命があるということが、
いくらか解って来た。
運命とは、或る一生の為に
カルマの神々によって
その人の為に選ばれた
善悪のカルマの量である。
両親や遺伝、
自分を助けてくれる人々、
自分を妨害する人々、
機会、権利、
死等はその人の運命てある。
しかし、
運命はその力が尽きて行く間に、
人間に運命に反応せねばならぬと
押しつけはしない。
人間の意志は小さなものではあるが、
自由なものである。
人間は自分の古いカルマに
反応することが出来るし、
悪いカルマよりも
善い新しいカルマを
つくることができる。
人間には過去から受けついだ傾向や
現在の環境の圧力により
大変なハイディキャップの
あることは事実である。
しかし人間の中には神の霊がある。
そして若し奮起しさえすれば、
人間進化という、
神の意志に協力して行くことができ、
敢えてそれに反対することはない。
神の意志に協力する方が妨げるよりも
やさしいということが解るように、
人間を教育し環境をととのえるのが、
人類の教師や先輩達の義務である。
しかしこの理想郷はまだ
希望の子宮の中にある。
その日が来るまで誰かが
失敗すると
(その失敗の多くは境遇による)
その人の境遇をつくる
手伝いをした我々は、
その人の失敗のカルマを
分担することになる。
 カルマの力が働き出るのは、
カルマの神々がその働きを
指揮しているのである。
我々はこのカルマの指揮者を
支配する原則を
理解しなけれはならぬ。
それは43図に簡単に要約してある。
カルマの々は個人の力の
蓄積を使って行くのだが、
その力を増すことも
減らすことも出来ない。
個人は様々な個人や或る社会、
或る国民とのカルマ的なつながりを
もって過去からやって来る。
人間はつながりのある様々な個人、
社会、國民に関してその人のカルマを
果すことの出来る所に生れて
来なければならない。
しかし又、人の一生はいくつも
連続した人生の中の一つであって、
最後には、人間は智恵の大師、
完成された人間、
即ちロゴス(大生命()が
その人の為につくられた
原型と同じものにならなければ
いけないのである。
だからカルマの神々は、
人間が着々と自分の
原型通りになるように、
個人のカルマの調整をして
行かねばならないのである。


力ルマの法則 その7 カルマの法則

2009-07-18 10:02:48 | カルマの法則

第43図
さて、人間の活動の多くは
その人の肉体に
左右されるものである。
これは両親によって
用意されるものであるから、
両親からの遺伝ということが
重要なこととなる。
最近我々はメンタルの
“遺伝子”という言葉で
遺伝を考えている。
即ち遺伝子というのは、
両親の生殖細胞の中にある
肉体的特性の単位である。
この中からカルマの神々は、
カルマの要求する肉体のタイプに
役立つような遺伝子を
選ぶのである。
ここに私は自著
“智學と近代思想”の
中から引用してその説明を試みよう。
これは43図の説明にもなる。
此処でまた見える世界と
見えない世界とで生じる問題を
考えることとなる。見える世界、
即ち形体の面からいうと、
人間は肉体を持って居り、
肉体は様々な因子で作られている。
(著者註。1914年にこの本を
書いた時には、“遺伝子”
という語が
発明されていなかったので、
ベートソン氏の“因子”
という語を使っている。
これは今の言葉でいえば
“遺伝子“の言葉である。)
しかし、
この因子は或る者のには極めて
都合がよいが、
或る者には損な場合がある。
即ち、或る者は立派な体格を
与えられているが、
或る者は、鳥目であったり、
血友病であったりし、
又或る者は音楽的だが他の者は
つんぼや唖の場合がある。
色盲の因子をもつ家族には、
一人は普通児だが、
三人は色盲の子が生れる。
何故三人はこんな
ハンディキャップを負い、
一人だけが負わなくても
よいのだろうか?
人間の運命の謎を説くには、
生命の面に目を
転じなければならぬ。
そこには三つの要素が
作用するのである。
その第一は、人間は魂(エゴー)で
あるということである。
魂は神界に於ける
不滅な仲問である。
ずっと昔、魂は人間となって
生れて来たのであるが、
今は胚珠の中にひそんでいる。
魂は過去に幾度も
地上に生れて来て、
善いことも悪いことも考えたリ、
感じたり、行って来たりし、
又自分や他人を助けたり、
妨げたりする力を慟かせて来た。
魂は束縛されていて、
決して自由ではなかった。
しかし魂は
一つの理想を追求し
幾代となく生きて来た。
その理想とは
その魂の原型のことである。
植物や動物に形体上の原型が
あると同じように、
人間の魂にも原型がある。
即ち或る人は悲悲深い聖者、
或る者は真理の教師、
又ある者は人間の統洽者となる。
芸術家と科学者、
実行家と夢想家は
夫々自分の原型を
自分の前に置いている。
原型というのは神御自身の
お考えのことであって、
このお考えに従って、
人間は神から与えられた
自分の気質を
完成して行くのである。
魂は夫々、自分の仕事を、
見つけることにより、
原型を完成して行くのである。
我々が魂として、
この世に生れ出て来るのは
この為である。
即ち我々は自分の仕事を発見し、
その仕事を達成しようとして
環境とたたかい乍ら、
自分の内にある秘められた力を
解き放とうとするのである。
しかし、その仕事を
して行くには、
肉体がなければならない。
働くのに、肉体が助けとなったり、
ハンディキャップと
なったりするのは、
肉体をつくる
因子によるのである。
此処でもう一度いうが、
偶然に様々な因子が
来るものではない。
天使が人間の運命を
助けようとして来て下さる。
この天使がカルマの神々であって、
人が種子を蒔き、
それを刈りとるという
正義の大法を
司る見えない智恵の神々である。
この神々は両親によって
用意されている因子の中から、
生れ出ようとしている魂の為に
肉体要素を選ぶのである。
そしてその魂の為に
カルマが割り当てた特別な身体で
学ぶべきことを学び、
為すベきことを為すのに一番役に
立つようにして下さるのである。
カルマの神々は
罰しもしなければ
賞めもしない。
ただ人間の過去の力を調節し、
新しく調整されたその力が、
人間が原型に一歩一歩
近づいて行くのを
助けるようにするだけである。


力ルマの法則 その8 超人*グンダリニー;錬金炉

2009-07-18 10:01:26 | カルマの法則

カルマの神々
が喜びや悲しみ、
或いは好機会や不幸を
人に与えようとも、
一つのことしか教えて
居られないのである。
それは、現段階の人生に於ける
人間の目的は幸や不幸という
ことではなく原型を
完成させるということである。
後に人が遂にその原型を
実現した時には、
言いつくせない程の至福が
働きかけて来るだろう。
しかしその時までは人間に経験を
重ねて行くようにせき立てるのは、
カルマの神々のつとめなのである。
接合子(胎児の
最初の細胞であって、
肉親によってつくられた二つの
生殖細胞の結合に
よって出来る)が
出来ると、
魂はまだ自分で因子を
選ぶことは出来ないので、
カルマの々が因子を選んで下さる。
若しその魂の進化の
次の階段が何か特別な天賦、
例えば音楽の天分のような天賦を
発達させることになっているならば、
カルマの神々はその魂の為に
適切な因子を選ぶのである。
音楽家というものには異常な程、
感受性の強い神経組織と耳の細胞の
特別な発達が必要である。
それでカルマの神々は
胎児がつくられる時にそれに
適した因子を撰び出すのである。
同時に、
もしもその人の内部力が
ハンデイキャップによって目ざめ、
その性質が苦しみによって
清められるとするならば適当な因子、
例えば、生殖力の欠乏とか、
病気に対する抵抗力の欠乏とかが
あらわれて来るだろう。
また、
もしも前世で数学者だった魂が、
今生では数字の
天才となる筈だとすると、
数学的脳髄をつくる
接合子の中の因子、
将来数学の天才となる
胎児の接合子が成長するように、
撰び出されるのである。
魂の仕事が
どんなものであっても、
その仕事に適当な因子が
カルマの神々によって
選ばれるのである。
新しい土地の開拓者には
生殖力が旺盛に与えられ、
見えない者と感応して人々を
助けることの出来る者には
心霊的性質が与えられ、
苦痛にもまれて生長すべき者には、
不具な機能が与えられるなど、
カルマの神々はその人、
その人にカルマを
分配されるのである。
無限の同情と智恵を以って、
髪毛一すじ程も
正義からはずれることなく、
カルマの神々は、
一つの魂の為には天才に
ふさわしい肉体を与え、
或る者にはのろまなりの
肉体を与えるのである。
人を仕合わせにしたり、
不幸にしたり、
父は善くしたり
悪くしたりするのは、
カルマの々の義務ではない。
人間がその原型に一歩でも
近づくように守護するのが、
唯一の義務なのである。
徳になること、
損になること、
また喜びと苦しみ、
好機会や窮乏というようなものは
魂自身が自分の一時的な
住居をつくる
建築材料のようなものである。
カルマの神々は
余計なものは何も加えず、
又、勝手に何もへらすことはない。
ただ魂のつくる力を
調節するだけである。
そして、人間究極の運命、
即ちその人の原型が、
生死の轍を踏んで行くにつれ、
出来るだけ早く達成、
できるようにされるのである。
しかし、
我々は個人の為に選ばれた
この“運命”は絶対的に
固定したもので
変えられないものだと
思ってはいけない。
人間の時には、
環境へ普通でない反発をして
自分の運命を変えることが出来る。
例えば、目に見える環境、
見えない環境がその人の力に余る
悲惨なもののように思えても、
人間の運命のプランの中には
自殺ということはないのである。
その個人の為につくられている
プランはいつも、
苦しみ、
悲しみ、
悩みを乗り切って
絶えず努力することであって、
そうしたものに
屈服することではない。
同じように個人は自分の為に
特に用意されたわけではない機会を
掴むこともある。
例えば、或る宗教の教師は、
見かけは特に宗教
教師らしくなくても、
教師らしくすることはできるし、
自分の為に新しい機会を
掴むことも出来よう。
また、或る人のカルマとしては
予想されてないのに、
他の人の行為によって調子を
狂わされたカルマも少くない。
このように、
個人にとって都合のよい事だろうと、
不都合な事だろうと、
実際に働いていないカルマの
大貯蔵がいつもあり、
新しいカルマが
この貯蔵から差し引かれたり、
加えられたりする。
それで、最終的には、
えこひいきや不公平が
あるわけではないのである。


カルマの法則 その9 カルマの活動力

2009-07-18 10:00:39 | カルマの法則

第44図
また面白いことには、
カルマの型には数種あって、
個人はその中の一つか、
いくつかに関係があるが、
全部に関係をもつ必要はない。
最も普通なカルマ的なつながりは
愛と憎のつながりであるが、
また階級や人種のつながりもある。
例えば或る人が
僧侶階級に生れたとすると、
その人は僧侶階級が
全体として行った善や悪を或る程度
分担することになる。
或る特別な民族の
間に生れて来た個人は、
何世紀もの間、
その民族がつくって来たカルマに
よって不利となったり、
助けられたりするのである。
また、特別な仕事に
くっついているカルマもある。
ペリクレス(アテネの政治家、
紀元前495頃-429)の従者や、
シーザー(ローマの将軍、政治家、
紀元前102-44)の副官は、
彼等の長官が生れかわって、
再びその人生の夢を実現しようと
働き出す時はいつでも、
その長官とカルマ的つながりで
引っ張られるものである。
このような時には、
共通な仕事でつながっている
この人達の間には情緒的な
つながりはあるかもしれないし、
全然ないかもしれない。
彼等を結びつけているつながりは
仕事の上の
カルマ的なつながりであって、
彼等はお互いに共通の仕事をするのに
助け合ったり、
妨害し合ったりするのである。
 魂のカルマ、又は働いている魂の
この大きな問題は次のように
大略暗示することができる。
カルマの働きと意味を
完全に理解するには、
大師の智恵が必要である。
しかし、
カルマの原則を理解することは、
人生の可能性、
自己の可能性についての概念に
大変革を起させることである。
神智学は、
カルマの大観をする場合、
非常に倫理的なので、
44図に示されているものは、
カルマについて知るべきことを
要約するのに一番よい方法だろう。


力ルマの法則 その10 3次元 記録 削除*セットアップ図表

2009-07-18 09:58:00 | カルマの法則

あゝ愛よ
汝と我とは
神と協力して
万物のこの悲哀の体系を
理解し得たり
我々はそれを
こなごなに粉砕することなく
神の真要求に
近く皆造せん。
愛と美の経綸により、
万有全体の体系を建てた
一つなるものがある。
しかし、
人類進化の現段階では、
その経綸は天に在って、
地上にはない、
しかし、
一つなる神は、
御自分の意志が、
 “天に於いて成るように、
地上でも”
 或る日まで
持って居られるのである。
神の一かけらともいうべき
数限りない魂の一つ一つが、
現在の体系を粉砕する為に
大生命()と共に働き、
神の心からの望みに
一層近い体系を
再建しようとするまでは、
その日は来ることは出来ない。
神は大再建者で、
以前に建設したものを
ぶちこわしては、
真要求に近いものを再建される。
全世界は神のカルマであり、
神の行為である。
我々は神の御指導に
従いさえすればよい。
どのようにして万物に関する
我々の体系を
粉砕したらよいか、
そしてどのようにして
我々の真要求に
近いものをつくるかを、
神は我々の心奥に
ささやいて下さる。
我々の一人一人が、
自分の心の中の
本当の望みの
ヴィジョンを見る時、
そして自分一人の為にではなく、
凡ての人々の為にもっとよい、
もっと神的な体系が
あるようにと願って、
これまでの全体系を
ぶちこわすことを望む時、
きっと、
自分の各行為が、
神の真要求に従って、
ロゴスの行為
そのままであるように、
自分のカルマをつくって
行く術を知るのである。

【特別寄稿】
一つなる神は、
御自分の意志が、
 “天に於いて成るように、
地上でも”
 2012年12月吉日まで、
いよいよそれを
実行すべき方法が
伝授されたのである。
これまでに、
大変御苦労なされたのが、
シリウスで、
第九秘伝(世界主)になられた
仏陀により、
父より伝授されし、
秘法を太陽に
→ 地球のサナート・クメラへ。
神の一かけらともいうべき
数限りない魂の一つ一つが、
秘法により、
現在の体系を粉砕すべく
起ち上がったのです。
その秘法を用いて、
生命誕生以降の造りし
善悪凡てのカルマを
一瞬の内に削除・粉砕し、
一瞬の内に父より預かりし
生命の完全なるストリーに
セットアップ。
この「削除」
「セットアップ」を
打ち出す事により、
秘伝。
グンダリニー。
チャクラ。
超人。
超能力。
新人類。
3次元地上の天國、
神の心からの望みに
一層近い体系が
再建されるのです。
その秘法が、
今、正に、
公開されようとしております。
その、
一部を公表しております。

 ※gooプログのアクセス。
【大生命の方程式】 http://blog.goo.ne.jp/fjmt8888_2009/

 ※yahooプログのアクセス。
【大生命の方程式】 http://blogs.yahoo.co.jp/fjmt8888
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