
チボリ公園の前で、じっと公園を見つめるアンデルセンの銅像。
(12月15日のブログ参照 )

安住の地に佇む
アンデルセンの安堵の気持ちが伝わってくるようです。
王立劇場 (学校でもあった) でオペラ歌手への夢が破れ、
演劇を志すもなかなか才能が開花しなかったアンデルセンは、
学友の勧めもあり、物を書くことを始めます。
17歳の時には、
すでに処女作 『The Ghost at Palnatoke's Grave』 (邦題なし)
を出版していました。

Jonas Collin
ジョナス・コリン (1776年ー1861年)
王立劇場の責任者のひとりであったジョナス・コリンは、
アンデルセンの文才を認め、語学学校への進学を勧めます。
ジョナス・コリンは、
フレデリック 6世と同様、アンデルセンの支援者となります。
アンデルセンは、
『Helsingør ヘルシンゲル』 というコペンハーゲンから北東に
位置する街の学校で、
寄宿舎生活 (一説には教師宅に下宿していたとも) を
送ることになります。
ヘルシンゲルは、英語では 『Elsinore エルシノア』 ・・
シェイクスピアの悲劇 『ハムレット』 の舞台となった街です。
(ヘルシンゲルについては追って紹介します)

後年、アンデルセンは、
このヘルシンゲルでの日々を 『生涯最悪の時』 と語っています。
学習障害の一種である 『失読症』 という障害が
あったアンデルセンは、
学校に溶け込めず、ひとり疎外感を味わっていました。
名作 『みにくいアヒルの子』 は、
この時の心境から生まれたといわれています。

学校を卒業できないままコペンハーゲンに戻ったアンデルセンは、
当てのない放浪の旅に出ます。
イタリアを旅した体験から生まれた作品 『即興詩人』 は、
アンデルセンの出世作となりました。
『即興詩人』 が発表され、世に認められたのは1835年 ・・
17歳の処女作から13年の歳月が過ぎていました。
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