概略
文豪・森鷗外の小説デビュー作「舞姫」は
明治23(1890年)、雑誌「国民の友」に
発表された。
19世紀のベルリンを舞台に、日本人青年と
ドイツ人女性との悲恋を流麗な文語体で
綴った短篇小説。
海外渡航が夢のまた夢だった時代に書かれた
異国情緒溢れるモダンな物語は、恋と出世との
相克というテーマや鷗外の実体験への興味が
相まって読み継がれていく。
ストーリー
ドイツへ留学した若きエリート官僚である主人公
太田豊太郎は、ベルリンで会った踊り子、エリス
と恋に落ちる。
やがて上司の意に背いたとして免職されるものの、
旧友の引き立てで伯爵の通訳をこなし再び信頼を
得る。
栄達か愛情かー。
人生の岐路に立たされながら恋におぼれていく豊太郎
だが、妊娠したエリスとの仲を明かさぬまま、出世に
つながる伯爵からの帰国の求めを受け入れてしまう。
そんな裏切りの顚末が日本への帰途に記した手記の形
で語り起こされる。
発表の2年前、26歳の鷗外は陸軍軍医として4年間の
ドイツ留学を終えて帰国していた。
物語にはこの留学時の体験も投影されているとされる。
批評
明治維新から20年余りが過ぎ、近代日本文学の出発を
告げる坪内逍遥の「小説神髄」もすでに発表されていた。
「近代的な個の概念が芽生え、人々に自己表現の欲望が
生まれる。
一方で、<小説神髄>で江戸期の戯作のような勧善懲悪
の撤廃が唱えられた。
その合わさったところに恋の煩悶を告白する<舞姫>が
生まれた。」と考える。
当時、西洋から入った「恋愛」という観念が浸透しつつ
あったことに注目する。
それまで男性にとって重要だったのは家であり出世。
その出世と並べて何年も思い悩むだけの価値があるもの
として「恋」が描かれた。
そこに新しさがあった。
実際、豊太郎の選択は論議を呼んだ。
評論家のI氏は明治23年に発表した評論で、豊太郎の性格を
分析。
エリスを捨てて帰国する筋書きは理屈に合わないとして
<功名を捨てて恋愛を取るべき>だったと主張した。
鷗外も、豊太郎とエリスの間にあるものは<真の愛>ではない
などと反論し、「舞姫戦争」として文学史に刻まれることにな
る。
痛切な悲恋ゆえか、モデル論争も収まらない。
恋人エリスのモデルとされるドイツ人女性が鷗外を追って来日し、
親族らの説得で帰国させられたことが後に分かった。
平成23年刊の「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」
では、教会の出生薄などを基に「現在のポーランドに生まれた
20~21歳女性」という新たなエリス像が示された。
道徳観
高校教科書に採録される文学作品は、芥川隆之介「羅生門」
中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」が定番。
難読な文語体ながら「舞姫」はこの3作品に次いで多い。
今でも授業で扱うと、豊太郎の選択をめぐり議論が盛り上がる
と聞く。
ただ、道徳論に終始するのはもったいないと感じる。
SNS全盛で情報交換は密になったが、そこで見せるのは
他人向けの顔でしかない。
今の若い世代にも、自分のすべてを打ち明け、丸ごと引き受け
てほしいという欲望はあるはず。
その意味で、自らを美化せず、悪い部分をもえぐるように告白する。
「個の叫び」のような「舞姫」は古びれていない。