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天正遣欧少年使節

2024-04-07 04:34:32 | 日記

長崎県・大村市

白いボディをめかせた航空機が、紺碧の空に

溶け込むように飛びたっていった。

大村湾沖に浮かぶ長崎空港(大村市)は、

対岸の森林公園から眺めていると、騒音

も聞こえてこないために、おもちゃの航空機

が飛んでいるようにも見えた。

波も穏やかだった。

長い橋を渡って、ときたま大型バスやタクシー

がやってきた。

公園のベンチのわきには、洋装姿の少年4人の

像が建っていた。

どれも顔がまるく、幼い表情だが、キリッとした

りりしさが漂っていた。

「天正遣欧少年使節」と呼ばれた。

使節の派遣

19年間も続いた「天正」時代の最大のヒーローは

織田信長であった。

一向宗をはじめとする仏教を嫌っていた信長だが

キリスト教には寛容であった。

ポルトガルの宣教師、ルイス・フロイスとも度々

会い、安土城(滋賀県近江八幡市)の城下に学問所

「セミナリオ」も作らせた。

フランシスコ・ザビエルにはじまるキリスト教の

布教はこの時代、安土のほか、京や堺などでも、

短い間ながら、全盛期を迎えた。

少年使節の派遣はヨーロッパの人々に「日本」

国の存在をアピールするのがネライで、4人が

乗ったポルトガル船は天正10(1582)年2月

長崎港を出港した。

その4ヶ月後、「天下布武」を目指していた

信長は、本能寺で自害した。

「天下人」が豊臣秀吉、ついで徳川家康に

移るとともに、キリスト教には徐々に不寛容

となり、やがて弾圧の対象となった。

大旅行中の少年使節はもちろん、そんな事は

全く知らなかった。

4人は伊東マンショ、原マルチノ、千々石ミゲル

中浦ジュリアンで、出発自の年齢は13~14歳で

あった。

ジュリアンを除く3人は、日本で最初にキリシタン

大名となった大村純忠のほか、大友宗麟や有馬晴信

ら九州のキリシタン大名の「名代」とされた。

ローマ・バティカン宮殿

インド洋からアフリカ南端を経て、2年半を

かけてヨーロッパに着き、ポルトガルやスペイン

で大歓迎を受けた。

クライマックスは1585年3月、ローマ・バティカン

宮殿での教皇グレゴリオ十三世との謁見であった。

式典で司会役の神父は「彼らは世界の果てなる日本

からはるばる来て、猊下のもとにひざまずいたので

あります。(略)いまや地球の周りを全て回らなけ

れば行けないほど遠く離れた国が改宗しました。」

とたたえた。

だが、"ハレ"の式典に、名代ではないジュリアンだけは

列席できなかった。

 

深井進学公務員ゼミナール

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鎌倉時代の産業史(農業編)

2024-04-06 00:26:34 | 日記

概略

肥料農具などの改善や米の品種改良の進展を背景として

畿内・瀬戸内などの温暖地域を中心に麦を裏作とする二毛作

がはじまる。

牛馬耕は一般化し、牛は耕作用、馬は運搬用として使われる。

また、灌漑のために水車も用いる。

農業生産が著しく向上したので、手工業や広い範囲での流通を

進展させた上、貨幣経済の普及をもたらす

上記の中でポイントとなる3点を以下に示す。

肥料

従来の肥料として人糞尿があり、刈敷草木灰という

新たな肥料が使用される。

刈敷とは、刈った草葉を地中に埋めて発酵させて作る肥料で

草木灰とは、ワラや落ち葉、枯れ草などを燃やして作る肥料

である。

草木灰の成分は、石灰・リン酸・カリウムでそれぞれ肥料として

役に立つ特徴がある。

石灰はアルカリ性で土の中では、微生物が活動しやすくなり、病原菌

が寄り付きにくい。リン酸は花や果実の生育を促し、カリウムは根や

球根を太らせる。

二毛作

1年のうち2回、同じ耕作地に作物を栽培することである。夏期に米

冬期に麦を栽培することが一般的とされる。温暖地域が中心という

事実を裏づけるエピソードを鎌倉時代より後世の昭和という時代で紹介する

東北地方では戦前期、二毛作は困難であった。暑い時期が短い地域で二毛作

をすれば収穫や植え付けの時期が競合し、水稲(米)・裏作物(麦)共に

収穫が落ちるので小作料を米でとる地主はなかなか許可しなかった。この

エピソードから寒冷地域の二毛作は厳しいとわかるが、次のエピソードで

封建社会ゆえの地域差であったことが証明される。

戦後の農地改革で土地が自分のものとなり何でも自由に作れるようになり、

他の作物にも挑戦した結果、所得が上がることとなる。更に政府の試験研究

機関が晩植用の稲の品種と肥栽管理技術の開発、裏作物の品種と環収技術の開発

表裏作物が競合しない技術の開発に動き出し、1例だがササニシキが誕生する。

手工業

農業生産の増大で作り手において原料作物の収穫が増加し、手工業の大量生産が

可能となる。

故に、農民は富を蓄えることができたので品物を容易に入手できるようになる。

すなわち、手工業品は商品として確立する

結果として商業活動が盛んになる。

 

 

浪漫ー古(いにしえ)の彼方へ

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歴史・哲学・自然現象を幅広く紹介しています。

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舞姫ー森鷗外

2024-04-05 02:00:45 | 日記

概略

文豪・森鷗外の小説デビュー作「舞姫」は

明治23(1890年)、雑誌「国民の友」に

発表された。

19世紀のベルリンを舞台に、日本人青年と

ドイツ人女性との悲恋を流麗な文語体で

綴った短篇小説。

海外渡航が夢のまた夢だった時代に書かれた

異国情緒溢れるモダンな物語は、恋と出世との

相克というテーマや鷗外の実体験への興味が

相まって読み継がれていく。

ストーリー

ドイツへ留学した若きエリート官僚である主人公

太田豊太郎は、ベルリンで会った踊り子、エリス

と恋に落ちる。

やがて上司の意に背いたとして免職されるものの、

旧友の引き立てで伯爵の通訳をこなし再び信頼を

得る。

栄達か愛情かー。

人生の岐路に立たされながら恋におぼれていく豊太郎

だが、妊娠したエリスとの仲を明かさぬまま、出世に

つながる伯爵からの帰国の求めを受け入れてしまう。

そんな裏切りの顚末が日本への帰途に記した手記の形

で語り起こされる。

発表の2年前、26歳の鷗外は陸軍軍医として4年間の

ドイツ留学を終えて帰国していた。

物語にはこの留学時の体験も投影されているとされる。

批評

明治維新から20年余りが過ぎ、近代日本文学の出発を

告げる坪内逍遥の「小説神髄」もすでに発表されていた。

「近代的な個の概念が芽生え、人々に自己表現の欲望が

生まれる。

一方で、<小説神髄>で江戸期の戯作のような勧善懲悪

の撤廃が唱えられた。

その合わさったところに恋の煩悶を告白する<舞姫>が

生まれた。」と考える。

当時、西洋から入った「恋愛」という観念が浸透しつつ

あったことに注目する。

それまで男性にとって重要だったのは家であり出世。

その出世と並べて何年も思い悩むだけの価値があるもの

として「恋」が描かれた。

そこに新しさがあった。

実際、豊太郎の選択は論議を呼んだ。

評論家のI氏は明治23年に発表した評論で、豊太郎の性格を

分析。

エリスを捨てて帰国する筋書きは理屈に合わないとして

<功名を捨てて恋愛を取るべき>だったと主張した。

鷗外も、豊太郎とエリスの間にあるものは<真の愛>ではない

などと反論し、「舞姫戦争」として文学史に刻まれることにな

る。

痛切な悲恋ゆえか、モデル論争も収まらない。

恋人エリスのモデルとされるドイツ人女性が鷗外を追って来日し、

親族らの説得で帰国させられたことが後に分かった。

平成23年刊の「鷗外の恋 舞姫エリスの真実」

では、教会の出生薄などを基に「現在のポーランドに生まれた

20~21歳女性」という新たなエリス像が示された。

道徳観

高校教科書に採録される文学作品は、芥川隆之介「羅生門」

中島敦「山月記」、夏目漱石「こころ」が定番。

難読な文語体ながら「舞姫」はこの3作品に次いで多い。

今でも授業で扱うと、豊太郎の選択をめぐり議論が盛り上がる

と聞く。

ただ、道徳論に終始するのはもったいないと感じる。

SNS全盛で情報交換は密になったが、そこで見せるのは

他人向けの顔でしかない。

今の若い世代にも、自分のすべてを打ち明け、丸ごと引き受け

てほしいという欲望はあるはず。

その意味で、自らを美化せず、悪い部分をもえぐるように告白する。

「個の叫び」のような「舞姫」は古びれていない。

 

 

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二極化された学力

2024-04-04 07:18:38 | 日記

学力の二極化

「ゆとり教育」。そう呼ばれる理念によって、かつて、

学校は大きな変化を余儀なくされた。

平成10年に行われた学習指導要領の改訂。25年前のことだ。

いまでは、その年代層に見られる自主性の希薄さなどの特徴が、

「ゆとり世代」などと揶揄されることもあるものの、そこでは

探究的な学びが称揚された。文部省(当時)がまとめた資料には、

現在の指導要領かと見まがう表現が残される。

<自ら学び、自ら考える力>

子供を学校から、家庭や地域へと返し、新たに生まれた「ゆとり」

を保護者らと過ごすことで社会や自然の中から体験的に生きる力を

育んでもらう。理想実現のため、教育内容や授業時間は大幅に削減。

学校は週5日となった。小中高校で探求的な学びを行う

「総合的な学習の時間」が創設されたのも、この時だ。しかし、

この試みは2つの要因から失敗に終わる。

1つは探求型学習を指導できる教員の不足。

もう1つは、家庭や地域の環境に伴う学力の

二極化だ。

当時の改革は明らかに準備不足だった。

探究的な学びの指導法の研究も追いついておらず、

ノウハウの十分な蓄積もなかった。

多忙極まる教員

ゆとりを与えられて家庭に戻った一部の子どもを待ち受

けていた現実は、理想とかけ離れたものだった。

家庭の経済力や文化水準、地域の温度差などによる二極化である。

親に勉強を見てもらえる子供と放置される子供。塾に通わせる家庭

と費用を捻出できない家庭。居住地ごとの自治会や子供会が教育に

かける熱量の差・・。そんな「格差」は、子どもの学力に少なからず

影響を与えた。

ゆとり教育の功罪をめぐり、巻き起こった「学力低下論争」を背景と

して、国は平成20年の指導要領改訂で授業時間を増やし、「脱ゆとり」

へと舵を切った。だからといって問題が解消されたわけではない。

事業時間増と授業外の校務負担など多忙さに追われる教員。

事業研究の余裕もなく、多くの教員が探求型学習を扱いかねている。

ゆとり教育の時代と同様の構造も残る。それはデータからも明らかだ。

困窮家庭を支援するチャンス・フォー・チルドレンが昨年12月にまとめた

保護者調査による。と、小学生の子供が校外で運動や音楽などの体験活動を

「何もしてない」とした世帯は年収300万円未満で29.9%、

600万円以上(11.3%)の3倍近くにものぼった。学校も家庭も当時と同じように格差に

あえいでいる。このままでは,ゆとり教育と同じ轍を踏みかねない。

全社会の課題

新約聖書のマタイ福音書13章12節には、こうある。<持っている人は

さらに与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものま

でとり上げられる。条件に恵まれた人は更に好条件を得る。

恵まれなければ悪条件の甘受を余儀なくされ、正と負の

スパイラルで格差が拡大して行く。社会学で「マタイ効果」と

呼ばれる力学である。

自ら問を見い出し、力を付けていく子ども。その逆に、

体験活動の乏しさから問うことにつまずき、学びを諦めて

しまう子供もいる。

探究型学習のプロセスにマタイ効果が作動する可能性がある。>

その読解力は、その学力は、そして、それらを駆使して得た学歴は、

本人の努力だけで手に入れたものなのか、偶然の作用はないのか。

子供は親を選べず、家庭環境に人生が左右される。

その現実を冷笑的に捉えた「親ガチャ」という造語すらできた。

傘格差はゼロにできない。

だが黙認されるべきではない。

「教育格差は学校だけに、家庭だけに、解決を押し付けて済む

ような矮小なテーマではない。

社会全体が変わらなければならない。誰もが自らの問題として議論

しなければ、決して解決には向かわない。 

 

深井進学公務員ゼミナール

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