世の中色んな人がいます。
食べ物の好き嫌いもそうだし
得意不得意もそうだし
そういう本質的なところだけでなくて、
その人のその時期によっても、
家族の状況によっても、
本当に違った色を見せます。
そもそも、それを無理やり他人の手で変える必要などないというのは、私の基本的な考えです。
だから、そのままでいたいのであればそのままでいることが尊いのだろうと思いますし、変わっていきたいのであればそれもまた尊いのだろうと思います。
そのときに、もし後者の人が手助けやアドバイスを必要とするなら、自分の知っていることを伝えてあげたいですし、
前者の人には余計なことはしようと思いません。「私以外の第三者からみても社会のルールから外れているとなれば」ちゃんと言いますけど。
ただ、ここで大事なのは、
そのままでいたい人もいれば、
多少苦労しても変化を求めたいという人もいるということです。
更に、変わっていくことをほとんど苦にしない人もいます。
それって、本人か、その人の近くにいる人にしかわからないし、
本人や近くにいる人ですらわからないことだってあります。
しかも、その時その時で変わっていくものでもあります。
ずっと頑張ってきたけど疲れちゃった、
とか
ずっと頑張ることを避けていたけど何かのきっかけに頑張りたくなった、とか。
そんな、1人1人違う、しかも変わっていく状況の中で変わらぬ対応をしていくというのは、
効率が悪いですし愛もないでしょう。
場合によってはその人を傷つけるでしょう。
だから、色んな引き出しを持っていたほうが良いかなと。
薬でも食べ物でも、勉強方法でも、その時期によっても事情によっても、合う合わないはそれぞれ違う。
だったら、それぞれが合うやり方を見付けられたら良いし、色んな方法を知っていたほうが助けになることも増える。
専門云々ではなくて、このような本当にシンプルな考えに基づいて色んな本を読んでいるわけです。
誰かを無理やり変えるために読んでるのではないんですよ。そんな事は私だってしたくありません。だけど、必要な時に引き出しとしてあれば、必要かもしれない人に届くでしょう。ただそれだけ。
それが必要かどうかはその人が決めればいいし、それが自然です。危険やリスクがあると思ったらそもそも提案すらしないし、主治医の先生に確認してもらうこともあります。
でも引き出しがなければ材料を示せない。
だから、引き出しは多い方がいい。
私はまだここが弱いので、まだまだ勉強中、四苦八苦ですが。だから未熟なのは正直に認めます。それに対して抵抗は申し訳ないけれどないです。だって本当のことだから認めるしかないでしょう。これも至ってシンプル。
でも、何年も経って技術が上がっても、他人を支援する以上自分のやっていることを疑う気持ちは拭えないし、私は無理には拭わないと思います。なぜなら、私がお世話になってきた先生たちがそうだったから。
みなさん、正直な自分の気持ちを持ち続けながらも、寄り添って、導いていく柔軟で素直な先生たちだったので、そういう姿が私の中では理想のイメージなんです。
話は変わりますが
「事実が確認でき」、「社会的にみて不当」だと思ったら批判はしますけど、だからと言って私はその人の全てを否定するつもりもありません。
なぜなら、その人にも家族がいて、大切な人達がいて、その大切な人達にとってその人もまた大切な人だから。その人を必要としている人も必ずいるからです。
優れている面はたくさんありますし、そういうところは尊敬します。だって本当のことですから。
私はそういうところは分けて考えます。相手から見て私がどうとかはどうでも良いけれど、
私から見たときに「全部だめ」をしてしまうと、私のフィルターから見た世の中が敵ばっかりになっちゃいますからね(笑)
これはゲシュタルト心理療法の世界の話にもなりますね。
合わないから全部だめ、もしませんし、
同じように、
好きだから全て崇拝、みたいなこともしません。
一時的にそういうことはあるでしょうけどね。
0か100かというのは、私はとても窮屈に感じるのです。私は。
どうしたら、双方が共存できるでしょう?
だって、これも単純な話。
両方必要としてる人がいるのは事実で間違いないんだから、世の中には両方必要なんでしょう?
共存って、難しいのですか?