オスカー=ハインリヒ(ハインツ)・"プリッツル"・ベーア(Oskar-Heinrich (Heinz) "Pritzl" Bär、1913年5月25日 - 1957年4月28日)は、第二次世界大戦時のドイツ空軍のエース・パイロットである。
1944年2月14日184機目に撃墜したボーイング B-17Fを検分するベール少佐。
エース・パイロットとは空中戦で5機以上の敵機を撃墜した軍隊パイロットを呼び表す呼称である。
ベールは、西部戦線、東部戦線、地中海戦域といったドイツ軍が戦った全ての主要な戦域で1,000回以上の作戦任務に出撃し戦闘を行った。ベーアは18回撃墜されたがこれを生き延び、空中戦で220機の撃墜を記録した。
ザクセン訛りの強いベーアは1934年にヴァイマル共和国軍に入隊し、1935年に空軍に転籍した。当初は整備士であり後に輸送機のパイロットとなったが戦闘機パイロットとしての正式な訓練は受けていなかった。ベーアは自身の最初の撃墜記録は1939年9月のフランス国境でのことであったと言っていた。
バトル・オブ・ブリテンの終結までにベールの撃墜記録は17機にまで増え、バルバロッサ作戦に参加するために東部戦線へ移動すると更なる戦果を駆け足で積み重ねていき、1942年2月には撃墜数90機で柏葉・剣付騎士鉄十字勲章を授与された。
第二次世界大戦の残りの期間にベールは世界で最初のジェット戦闘機の1機であるメッサーシュミット Me262に搭乗していた時の16機を含めた130機の撃墜数を追加した。
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これだけの戦果があれば通常は待望の柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字勲章が授与されるはずであった。しかし、ヘルマン・ゲーリングのベーアに対する個人的な嫌悪がベールの反抗的な性格や軍規遵守精神の欠如と相まって、ベーアがこの勲章を授与されることを阻んだ。
第二次世界大戦後、ベーアはパイロットとしての仕事を続け、1957年4月28日にブラウンシュヴァイク近郊で航空機事故により死去した。
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