踏み出す

日常生活の中で感じたことをアウトプット

お酒

2021-07-03 22:37:22 | 日記

飲酒の体内サーモスタットが欲しい

 

お酒の限界や適量って何歳になっても分からないものです。飲み屋さんで酔いつぶれているのは、若者だけではありません。大の大人も相変わらず酔いつぶれています。新型コロナウィルスの影響で店舗における飲酒が減り、そのような光景を目にする機会も減りました。しかしそれでも新型コロナウィルスが落ち着き始めて、店に人が流れると2年前と同様な光景を目にすることはあると思います。

 

なぜ人は飲み過ぎてしまうのでしょうか。星の王子様にものんだくれが登場します。飲んだくれていることが恥ずかしくて、お酒を飲んでしまうと記憶しています。ちょうど良い飲酒は体にも良いと聞きます。飲み過ぎてしまうのは、なぜなんでしょう。お酒が美味しいから、雰囲気が楽しいから、ストレス発散をするために等、理由は人それぞれなんだと思います。因みに私は飲酒中に飲めなくなるということは、基本的にありません。酔っぱらってもお酒を飲み続けることができます。それも朝まで飲むことを苦とはしません。しかし遅い時間まで飲んでいると当然のように翌日も身体内にアルコールが入った状態となります。二日酔いの経験はありませんが、お酒が分解されていない状態はあります。しかも厄介なことにお酒の味を明確に分かることはありません。ビールも発泡酒も違いが明確に分かりません。

 

例えば飲酒は22時や24時までと決めて、翌日に備える方法もあるかもしれません。または飲酒量を単純に減らすことも考えられます。何より酒の違いが分からないんだから、根本的に飲まなければ良いのかもしれません。一度お酒を飲んでしまうと判断力が鈍ってしまい、自分の許容量を超えて飲んでしまうのが問題です。なので、、、冒頭に着さしたような体内サーモスタットがあれば良いなと考えます。明日の幼児や現在の体調を考慮して飲酒の限界値が見えるかされたら、必要以上な飲み方をする必要がないのではないでしょうか。特になんとなく飲酒の席にいる人はご自身のお酒に対するサーモスタットをもつことで、自他ともにこの人は飲酒限界なんだなというのを可視化できれば、不必要なストレスを感じることなく飲酒を楽しむことができるのではないでしょうか。

 

そんなことを考えずに飲めるだけ飲みたいという方もいるだろうし、寧ろそんなコチャコチャ考えながら飲みたくない方もいるでしょう。しかし何となくお酒を飲んでいる方がたには、サーモスタットを示すことができれば、自身の生活にもプラスかなとも考えます。


愛情?

2021-07-02 17:52:20 | 日記

人の感情は難しい

 

「片膝をつきバラの花束をもって意中の相手にプロポーズ」「校舎の裏で長年言えなかった想いを伝える」「口で伝えられない想いを手紙にしたためて渡す」素敵な場面ですね。しかし、なかなか人の感情表現はこのように綺麗なことばかりではありません。寧ろもっとトゲトゲしかったり複雑であったり汚さもあるかもしれません。

相手のことが好き過ぎて怒鳴ってしまう、泣いてしまう、冷たい言葉を投げつけてしまうということもあるとのことです。それは寂しさを上手く表現できずに、また相手が上手く汲み取れずに生じるとのことです。本当に難しいもので言葉の刃を向けて傷つけてきた相手には、素直に愛情を感じることはできません。

 

本当は傷つけたくないのに自分でも自分を止められず刃を向けてしまうのは、なぜなんでしょうか。相手と距離をとれば、もう自分が傷つかなくてよくなるからなのでしょうか。答えは本人にしか分からないのかもしれません。若しくは本人にも分からないのかもしれません。

 

私自身もそのような状況を経験したことがあります。相手方から攻撃的な言葉を一方的に投げつけられ続け、最後には寂しいからと言われたことがあります。正直に申し上げると、その時の私には理解が及ばない言動でした。しかし落ち着いてから、なぜそのような言動に至ったのかを聞いたり調べたり自ら考えてみると、上手く伝えられない感情をぶつけたという見方もあるのかもしれないと考えるに至りました。考えるには至っても、理解には結びつかないというのが正直な所ではあります。ただ人の感情や見方というのは、一方向からだけ考えても及ばないとは感じております。相手の立場に立って考えてみると見えてくるものもあります。

 

全ての人に対して相手の立場に立って理解を深めることは、現実的に難しいことです。しかし自分の身近な方であったり大切な方であるならば、辛いかもしれないけれど一度相手の立場に立って考えるということも必要なのかもしれません。

 

そうしなければいつまで経ってもその関係に進歩はないし、どこかで相手が悪いとしか考えれなくなるのではないかと考えます。先程も記載しましたが、全ての人に対してできることではありません。あくまでも色々なことがあっても今後もその人と関係が続くならば、適度な距離を保ちつつ相手の考えに想いを寄せるのも必要ではないでしょうか。

そして何より自分自身の在り方や立ち居振る舞いを見直すことが重要なのかもしれません。他人を変えることはできません。人が変わるのはあくまで自分で自分を変えたい、若しくは変わりたいと強く思ったときです。仮に自分の言動で他人が変わったと見えても、それは相手が自ら望んで変わったから変わっただけです。若しくは何かしらの力で屈服させているだけです。

 

相手に対する見方を変える、若しくは本当に相手を変えたいと思うなら自分が変わる以外に方法はありません。自分の何を変えるかは分かりません。しかし何より自らの意志で自らの変化や進歩しようとする姿勢が、自分を変えていけるのではないでしょうか。そのためには自分自身を諦めてはいけないと考えます。

 

結局ついてきてくれない人は、どれだけ説得してもついてきてくれません。あくまで普段からの自分に対して何かしらの評価を下さし、その人なりの判断基準でその人についていくかどうかを決めます。なのでやはり自分自身の人格を磨き続けることが大事になります。お金や年齢、地位というのは時とともに増減します。それは自らコントロールするのは難しいです。それでも人格を磨くというのは積み上げ続けることができます。たとえ途中で少し崩れても、そこからやり直せば良いのです。

 

私も人格を積み上げ続けていきます。


怒り

2021-07-01 22:03:56 | 日記

必要以上に怒る人がいる

 

怒鳴りつける、いつまでも怒りをぶつけ続ける、いきなり怒り出す、手を出す、余計な一言を付け加える、ネチネチと同じことを言い続ける、人格を否定する etc etc

 

人に怒りをぶつける時はどういう時なのでしょうか。価値観をもった人と人の関わり合いの中で、ぶつかり合うことや相容れないことはあるのが自然だし、そのようなことがあっても関係を続けていけるのは素敵だと思います。しかし時に自分の感情”だけ”をぶつける人がいます。特に相手が自分より弱い者に向けて、怒りをぶつけます。何より厄介なのは、そういう人に限って怒りをぶつけた相手から好かれていると思っている人もいることです。どういう考え方をするとそのような結論に至るのか、私には理解が及びません。寧ろあんな言い方をしてしまって、自分は嫌われたんじゃなかろうかと考える方が自然だと思います。

 

上司と部下、親と子、恋人同士等において、どうしても上下関係を作る人に多く見られるように感じます。相手を自分より下だと認識しない限り、理不尽に自分の感情をぶつけることは難しいからです。逆説的にいうと自分より上だと認識している相手には、そのような表現は用いません。肩書なのか、相手への気持ちなのか、もしくはその環境を受け入れているのかは分かりません。

 

ただ私が思うのは、そういう方はいつか下に見た相手から、見下されるということです。人生においていつ力のバランスが変わるかは分かりません。仮に今は上にいる感覚であっても、時を重ねるとその立場が逆転していることはあり得ます。それは例え親子関係においても、全てを否定できるものではないと思います。あくまで人は人として尊重することが大事です。少なくともその人自体を否定する言葉を投げつけるのは、かんかすべきではないと考えます。

 

しかしなぜこのような思考に至ってしまうのでしょうか。それは自分自身が同様の扱いを受けてきたからではないでしょうか。今いる環境ではないとしても過去のどこかや、場面の異なるどこかでこのような扱いを受けてきたから、自らも同様の行いをするのではないかと感じております。もしかすると自分でも悪いと感じながら、自分を止めることができないのかもしれません。最も不幸なことは、悪いことだと思っていない場合です。これが普通だからとか、誰々もやっていたから、逆説的に自分が同様の行いを受けてきたからと思っているのかもしれません。こういう方に対して掛ける言葉を私はまだハッキリと見つけることができておりません。

 

人である以上、誰かと自分を比べることは否定できません。しかし自分にとって大切な存在である相手の存在を否定するということは、自分自身を否定することになるのではないでしょうか。そう考えるとまず自分を愛せる環境が何より大事なのかもしれません。相手に愛を求めるのではなく、あくまで自らが自らを愛せるということです。何事も外側に原因を求めていては、いつまで経っても自らが抱える問題を解決することは叶わないのかもしれません。


時間の使い方

2021-06-30 23:16:55 | 日記

自分の時間に優先順位をつける

 

1日は24時間です。良く言われることですが、その全人類へ平等に分け与えられた有限な時間をどのように使うかで自分自身と他者に違いを生むことができます。同じ1時間でも読書しても良いし、ぼーっとしても良いし、電話をしても良いしです。ようはその費やした時間に後悔しないなら、全く問題ないことだと思います。必ずしも読書>ぼーっとしている時間とはなりません。

 

一つ確かなことは、何も考えないまま何となく過ごす時間が多くなると、得られるものがさほど増えていきません。忙しさに追われて自分を振り返る時間がないことも問題ですが、それよりも何となく過ごす時間が多くあることを危惧します。これに加えて考えている振りであったり、悩んでいる振りの時間も同様に得られるものがさほど増えるとは思えません。これのやっかいな所は答えに至るプロセスを踏んでいると錯覚してしまうことです。あれがこうだ、これがあーだと考えていると頭を使っている風になるし、少なくともその事項に対して頭を使っているのでやっている感を得ることができます。しかし同じことに繰り返し悩んでいても、何も解決には至りません。かと言って解決に向けた具体的な行動を起こすわけでもないので、何も物事は前に進まず、ただ時間が過ぎていくだけです。

 

ただ何となく過ごしてしまう、または過ぎてしまう時間を減らすにはどうすればよいのか?私は読書とメモの書き出しと睡眠だと考えております。言い換えるとインプット・アウトプット・休息です。読書は自分の知らないことを発見したり知っていることをより肯定できたり、今ある時間をただ過ぎ去るものとしないために有効です。またメモの書き出しは、頭の中でグルグルと周っている考えを視覚的に整理することができます。最後に睡眠は心身のリセットとなり、悩んでいたり考えがまとまらない事柄も寝て起きると覚悟が決まっていることもあります。何より精神的に疲れても、肉体的に疲れても自分自身を正しい判断へ導くことは困難です。

 

では私は上記の3つをできているかというと、ほとんどできておりません。。。特に睡眠は最優先で削ってしまう傾向があります。やらなくてはいけないことを目の前にしても、何か別のことに目を向けてダラダラといらない時間を過ごしてしまいます。それでもやらなくてはいけないことは目の前からなくならないので、結果的に期日ギリギリに徹夜して提出することが多々あります。また私はどこかで少々寝なくても大丈夫という感覚があります。それは何か証左があるわけではなく、今までそうだったからという最も危険な判断に基づいています。睡眠以外は読書に関しては、ようやく少し身についてきたと思えます。常にカバンの中に書籍を入れて、いつでも開けるようにしています。少し時間がありそうな時は取り出して少しずつでも読んでみます。メモの書き出しについては、PDCAノートをつけておりましたが、最近は手を離れてしまっております。やった方が自分自身にとって有益だと分かってはいるのですが、どこかで面倒くさいという感情が勝って結局手つかずとなっております。

 

自らにとって重要だと捉えている3要素を改めて認識し、1つ1つ取り組めることから再度はじめます。


自分自身

2021-06-29 23:07:22 | 日記

自分のことを自分が理解することが大事

 

よくよく分かっていたことではありますが、私は私自身をよく理解しておりません。本日も改めて感じることがありました。心の距離が近しい人から、助言を多分に含んだ苦言をいただきました。私は私をどのように見てもらいたいか、そして私が私をどのように見ているか、理解しかねる所があります。理解することから逃げているのかもしれません。よく言う自分の内部と会話することを、一人ですることが物凄く下手なのかもしれません。

 

自分の目指すもののために、自分自身をどのように見せていくかというのも重要です。しかしそのためには、自分の目指すものを定める必要があります。よく目標をもてと言われますが、そんなに簡単な話ではありません。目指すって何か?何で目指さなくてはいけないか?そもそも目指す必要があるのか?私は良く分かっておりませんでした。

 

しかし最近、何となく分かって来たことがあります。それは今日は昨日より良い日にするために存在するということです。そして明日は今日より良い日にするために存在します。その良い日にするのは自分自身です。なぜなら自分が生きている自分の人生だから。つまりまず自分の人生=1日を良い日にすることが目指すべきことです。あとは良い日の定義をどうするか?ということだけです。

 

良い日の定義は、人それぞれ違います。試験の合否が発表される日に落選を知った場合は、良い日と思えないかもしれません。しかし生きている限り人生は続いていきます。その日その時に良いと思えないものも、いつの日か良いものに変わる可能性は大いにあります。我々にできることは、ただただ今を一生懸命生きるということなのかもしれません。

 

過去の色んなことや、どうやっても納得できないことも10年経てば今はまだ出会っていない人と、そのことを笑い話にできているかもしれません。また今は何とも思っていなかったことが、のちのち大きな転換点だったということはあります。例えばあの時YESと返事したことが今の立ち位置を作ったとか、あの時NOと返事したことが一緒にいられる関係性を育んだとか数限りなくあります。

 

ただ一つだけ守った方が良いと思っていることは、順番です。伝える順番、注目する順番、耳を傾ける順番です。これは自分自身の中で明確な優先順位が決まっていない限り、判断することができません。現代は本当に情報が溢れています。人のうわさ話もひとっ飛びで拡がります。しかも尾ひれは2倍3倍となって拡がります。

 

人生=1日に後悔しないように、自分自身の軸となる言葉や信念をもつことが重要です。