■レトロゲーム高騰化から考える価値感
世にわかりやすく物事の凄さ・大切さを伝えるための手段として、よく使われるのは”数字”ではないでしょうか?
昨今レトロゲームの高騰化が注目されています。「価格」という”数字”故、注目されやすくなります。ゲームになじみのある人にも無い人にも、誰にでもわかりやすく”レア”という概念が伝わるのです。(こういった例はゲームに限った話ではありませんが)
そしてこのレトロゲーム高騰化の話題があがると、よく見かける”説”のようなものが引っ付いてきます。
それは
『高いからといって、必ずしも万人にとって面白いモノとは限らない』説です。
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よく言われる作品かも。私は大好きです!
これはとっても当たり前。その作品の感じ方は人それぞれなのですから。
しかしわざわざこんな当たり前すぎることが、言われてしまっている現状はなんとも悲しき事態ではないでしょうか?
そんな当たり前な事を言われようと、現在レアと謡われているゲームを買う人にも”理由”は当然ながら数多にあるのでしょう。
しかし、数多の中で1つだけ疑問を感じる”理由”がその中にあるとするならば・・・
もし買う理由が「レアだから」だった場合です・・・
■レアを買うにも訳がある可能性
以降お話する”レア”という概念はここでは、『市場価格が現在高い品物』と定義してお話します。
レアなゲームになるには、
「市場人気」「話題性」「希少性」など、一言でまとめれば「人気」になればレアになっている気がします。これ以上の市場の原理やらをここで語ろうとは思いません。
このレアなゲームをもしもわずか1つだけ、この「レアだから」なる理由で買ったとしても、様々なケースが想定されます。
たとえば・・・
「とあるハードをコレクションしていて、最後の数本がどうしてもレアだった」
「ある会社が作ったゲームのコレクションの頂点になるような作品がレアだった」
「単に面白そうだと思った」
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先日話題になったレアソフト。
・・・など 「レアゲームを買う根本たる原因・理由・根拠」 とも言えるでしょうか、それがはっきりしているのであれば仕方ありません。むしろ応援したくなります。
しかし、最終目標が「レアだから」であり、そこで終わってしまっている人もいるのではないでしょうか。どうもそのような存在を感じたり、上記のように根本たる理由が表面的な発言からは見えにくい時があったりするのでしょう。
↓
それ故に当たり前の考え『高いからと言って、面白いとは限らない』などと言われてしまっている、言う人はその行動を批判的に見ているのではないでしょうか?
(そもそも高くなった理由=面白いのみって考えて買う人って意外に多いのかも?ならばこのような発言がよく出てくるのも納得。)
「価格」は大事な価値の1つであることに違いはありません。この原則を誰しも否定はできません。
ここで言いたいのは、「価格という価値感のみで見ている人」がいる可能性がある。その価値感に頼っているのはどうも面白くはないと思ってしまうのです。。
■レアって何だ???オールレアであり、オールノーレアなプロモーションビデオ
「価格という価値感のみで見ている人」
正直私の経験からでもわかる面も確かにあります。
とある作品が数百円で売っていたが購入せず。
→しかし数年後に高騰化。なんて例は最近では珍しくないかも知れませんね。
ここで感じた思いは、
「損得勘定」と「自分の価値感の無さ」
この2つでしょうか。
後々手放す際に少しでもお金になれば良いと思うこともあります。
また、なぜそこで気になったのにも関わらず、買わなかったのか。
結局、昔の私なのです。「価格という価値感のみで見ている人」というのは。
昔ということなので、今の私はそのときよりちょっとは変わったのではないかと自負しています。それはこの「プロモーションビデオ」を追い始めてからだと思います。
私がこの趣味を追い始めて、価値感が変わったと思われる理由を挙げていきます。
私はこれで変われた!(怪しさ満点風)
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1つめ
「ゲームプロモーションビデオ」はほとんど市場価格はありません。
ほとんどと書いた訳は、プレゼントや人気作品系とかだとあったりはします。
「ぽっぷるメイル」「慶応遊撃隊活劇編」のプレゼントビデオは高額でとどまっている印象があります。
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参照:駿河屋より
この時、ぽっぷる買取33,000円。慶応買取5,500円。ちゃんと市場価格があるのはこの2つくらいな気がする。
それでもほとんどのモノは「価格という価値感のみ」で見ることができないのです。
これが理由で悲しくなるときもあります。
手にいれるまで中身がわからないケースが多々あります。それもまた面白みの1つなのですがね。
そこそこなお値段が掛かったビデオを見てみると、なんと全長1分。まあショックでしたね。
あと上書きされている時。これはもう仕方ありません・・・
しかし、嬉しいことも当然多くあります。
画質が標準で残されているので当時のCMがキレイに残っていることが多かったりします。
また開発者の姿・声が見れたり、当時の風景が生生しく見れたり。
未発売ソフトの情報がさらりと載っているとまあ嬉しいものです。
上記の例で上げた品々のどれも値段はバラバラ。上から下まで。
そんなのこそ、値段で見ていると出会いはなかったでしょう。
2つめ
そしてどれもかしこも、現存数は少ないです。
当然ながら販促物、使用される期間は短く、役目が終わればもう意味は持ちません。捨てられる運命なのです。現存数が減ると、レア化しやすくなるのは世の摂理。
そう、数で言えばつまり「全てレア」なのですよ!
これもまた現存数というわかりやすい数を元にした価値感の1つなので、よくあるものですかね。
でもやはりここがちゃんとした市場が無いゆえなのですが、この世に残り1個であろうと100個であろうと、値段はしっかりとつかないでしょう。
どれも高いかも知れないし、安いかも知れない。
市場がないからこそ店頭などで販売した際、売り手側がすべて高値・もしくは安値に設定することもありえます。
いわば価格と言う価値感のみで見た際に、オールレア・オールノーレアになりうる可能性があります。
しかし現実では、
現存数では少なくても、価格ではノーレアかも
現存数では多くても、価格ではレアかも。
現存数という数の根拠でさえ、あてにならずその価値を決めるのは自分なのです。
3つめ
実はこの現存数についてもどこからが多いか、少ないかもはっきりしません。
現存数は少ないとは確かに思いますが、その裏づけもなければ根拠もありません。
私が思っているよりも、残っている可能性だってあります。
数年の間に2~3度同じタイトルのプロモーションビデオを見ると、残ってる方かな?と考えてしまいます。過去に見た回数が1本だけなら少ないが、3本ならば多いとも感じてしまう不思議な世界。多い・少ないという数の根拠でさえ、自分の判断にゆだねられているのです。
つまるところ、数やら価格やらの価値感ですら頼りにならず、すべては自分に委ねられている趣味なのです。
■つまり何がいいたいのさ?
私のブログのタイトルでも使っている『価値ある無価値』
この考え方の言い換えは様々にできると思いますが、このコラムではこう解釈したいと思います。
「自分の面白さに正直に生きよう」
レアなので価格がいくら、世に何個しかない、世では好評・不評。
そんな世の中の価値感にとらわれすぎると、出会いを減らし、面白さを減少させると思っています。
◎ここで勘違いして欲しくないのは、こういった「レアだから買う」という価値感のみでいる人を否定するわけではありません。
それが「自分で考えた故の理由」であれば全く問題ないわけです。
自分で考えた面白い根拠がそこにあったのですから。
しかし誰かの、もしくは世の中からただ価値感を持ち込んでその行動をしているならば、もっと面白いものがあるよと言いたいだけなのです。
それは自分に隠れているはずです。価格が安い、いつでも手に入れられる、不評等々だったとしても、自分は気になる時は正直になると面白いものです。
一度
安い、いつでも手に入る、不評、
な評価のソフトを買って遊んでみましょう。
その理由に納得すれば「なんて自分は変わったものに惹かれることができるんだろう!」と褒めてみましょう。
その理由に納得できなければ「なぜなんだろう!?世の中変わっているな、自分も変わっているけど!」と褒めてみましょう。
世の価値感と自分の価値感を照らし合わせる機会は毎日のように訪れますし、同時に興味のないものは避ける事も増えているのも事実。
いつもなら避ける機会をたまにはあえてぶつかってみたら面白い・・・かも
このコラムを書くにあたって、「価格という価値感のみで見ている人」がどの業界にもいる、ないし増えている可能性があるということを前提に書きました。
この前提自体がずれている可能性も十分ありますし、そんな人が大勢にあって欲しくありません。
こんな長々と書いておいて、その前提が間違いであることが最良の結果をもたらす。そんなコラムだったのです。
なんにせよ、これだけははっきりと言えるわけです。
どこにでもあるはずです、自分の面白さが、自分という面白さが。