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水田の広がる小高い丘の上に、原の辻遺跡はあった。
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中国の史書である『魏志倭人伝』には、邪馬台国の時代に、「一支国」のことが記録されている。
原の辻遺跡は、この一支国の中心集落だったと考えられている。
(魏志倭人伝の和訳抜粋より)
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓の国を経て、しばらく南にしばらく東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。
そこからはじめて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
住んでいるところは四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。良田が無く、海産物を食糧として自活し、船によって南北から米穀を買い入れている。
また一つの海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。
広さは方三百里ほどで、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、南北から米穀を買い入れている。」
博多からのジェットファイルで壱岐島に来ている。
福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、1時間程の船旅だ。
島へ着いてからは車で移動し、原の辻遺跡を見学した。
(2010.07.26 長崎県壱岐市郷ノ浦町にて)
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中国の史書である『魏志倭人伝』には、邪馬台国の時代に、「一支国」のことが記録されている。
原の辻遺跡は、この一支国の中心集落だったと考えられている。
(魏志倭人伝の和訳抜粋より)
帯方郡から倭に行くには、海岸に沿って航行し、韓の国を経て、しばらく南にしばらく東にすすんで、その北岸の狗邪韓国に到着する。
この間は約七千里である。
そこからはじめて一つの海を渡り、千余里にして対馬国に到着する。
その大官はヒコ(卑狗)といい、副をヒナモリ(卑奴母離)という。
住んでいるところは四面を海でかこまれた孤島で、広さは方四百余里ばかりである。
土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。
千余戸がある。良田が無く、海産物を食糧として自活し、船によって南北から米穀を買い入れている。
また一つの海を渡り、千余里すすむ。
この海の名は瀚海といい、一支国(壱岐)に到着する。
官はまたヒコといい、副はヒナモリという。
広さは方三百里ほどで、竹木や叢林が多く、三千ばかりの家がある。
田地は少々あるが、田を耕すだけでは食するに足らないので、南北から米穀を買い入れている。」
博多からのジェットファイルで壱岐島に来ている。
福岡市の博多港から島の南西部の郷ノ浦港まで約67km、1時間程の船旅だ。
島へ着いてからは車で移動し、原の辻遺跡を見学した。
(2010.07.26 長崎県壱岐市郷ノ浦町にて)
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