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国立アーカイブ・メキシコ映画の映画の大回顧「エナモラーダ」鑑賞後雑感

2025-01-19 17:39:47 | 日記
昨日1月18日のブニュエルの「忘れられた人々」に引き続き、今日19日も「エナモラーダ」を観てきた。エナモラーダとはメキシコ語ですなわち愛らしい。

メキシコ史というのは詳しくない。多分、南北戦争後、原住民は南に追いやられたのは間違いないとか、そもそも原住民に対し大航海時代以降西欧からの入植者が多かった筈という程度の物でしかない。

一応実話ベースというか設定は現実のメキシコをベースにして、脚色がどこまでという感じじゃないかと思う。

そういう前提で自分が考えたものとして、以後読んでもらいたい。

簡単に言えば、革命軍の将軍がある土地へやってきて、支配している政治的権力寄りの既得権益がある富裕層に革命の為の資金や協力を迫り、そこに駐留するという状況。そこで、富裕層のなかのある名士の娘に将軍が恋をするという話。

この作品は1946年公開なので、戦後すぐの筈である。にしては、ゴージャスなセットな気がする。手が込んだ作りこみ。昨日の忘れられた人々は一般大衆の貧窮や家や親なき子たちが路上や廃墟に住む、或いは、家で鳥や家畜などを飼ってあばら家・掘立小屋に住む描写が多かったがこちらは家の中のインテリアや壁に掛けられた絵画、富裕層たちの衣装など、貧乏くさくは全然ない。

昨日の忘れられた人々にでてくる子供たちの恰好は半袖のTシャツにジーンズ、浮浪者なども小綺麗さはなかった感じとは大違いだった。

そういうテーマからいけば、民主化といえど、西欧からの価値観が持ち込まれ、政治的に優位に立っている者とそうでないものに分かれるという面はつよくあったのではないかと思う。大まかに人々を分ければ、西欧からの移住者で富裕層(統治者層)、移住したが貧しい労働者(革命派層)、マイノリティになった原住民という具合かな。

この映画では、最終的には周囲はともかく、富裕層(元成り上がり?)の娘が政府軍が来た際に身を引く形で撤退する将軍とその革命軍に許嫁を捨てて突いていくという話にはなっていた。

因みにこの映画上のヒロインは一目惚れした将軍を時に罵倒し、殴りつけ、将軍が載る馬に爆竹を投げつけて将軍が振り落されるなど、相当自分に自信を持ち粗野であると将軍を拒絶しているシーンが目立った。それに対し、父は俺もお前の母を他人から奪ったと娘に告げたり、将軍如何に詰め寄られお金や資産、美人の妻をやるから命だけは助けて欲しいなどのセリフも出てくる。将軍の方も一目惚れしたとはいうものの、粗野だとか家柄を出され娼婦と一緒になれと言われると、彼女らだって立派に他人の為に仕事をしていると言う趣旨の事を言い返したり、美人の妻を差し出すという事をいう様のは台木にかけるから認めないという類の事を言い返す場面があった。

また、その様な展開の中で、友人の牧師がその土地の富裕層と将軍の仲立ちに入り、略奪的支配を咎め、将軍が身柄を開放し行動制限の解除を許可した者は将軍が惚れた女の許嫁だから略奪婚は反対するといった場面もあったと思う。キー・モメントには宗教画と壮麗な教会、アベマリアの唱和などなかなか凝っていた。キリスト教カトリック文化?それもメキシコなのだろう。

なかなか大胆なやり取りが面白く、男勝りの良家のお嬢様と少々乱暴な風貌の将軍が実は似た者同士だったという感じが面白い。

色々あるが、将軍が娘に告白するもあしらわれ、その後娘が親と許嫁が予定通り結婚式を始めるシーンがあった。結婚式を行い、届を受理するというくだりがあった。結婚というのは教会や牧師の面前で誓いを述べて式を挙げたという証明が西欧の婚姻文化として婚姻届けと連なっていて、姓が変わる事を述べる所もあった。まさにその直後、正規軍が革命軍を排除しに街へ攻撃をしながら侵攻してくるという状況。

最近は形骸化した、或いは、個人主義的に核家族で配偶者と子、それに親の観に範囲が小さいのが通常になった、つまりは、家より職能を重視して労働の場が血縁や地縁が絡む家ではなく他社が集まる企業になったからなんだろうけど、そもそもは一般的に女性が他家へ嫁ぐというのはここでも変わらず、ある意味結婚式というのは婚姻関係になったという公示でもあり、婚姻後嫁いだ先の新たな構成員・労働者としての歓迎会でもあった筈なのだ。そこには婚姻同時者間が排他的に関係を結ぶという事、それをもって男系ならそちらの家の親族に対して配慮義務をもって嫁ぐ前の家から離れて生きるという事を含んだ訳である。

あとは、この映画もミュージカルというか音楽が上手く取り入れられていた。特に、将軍が自分では下手だから歌わずに、ギターをもった歌い手3人に求愛の歌を歌わせるシーンなども大変よかったね。

凄くラテン系というか、濃い演出がなされており、カトリック文化を背景に富裕層と革命軍にスポットが当てられた作品なのでゴージャスな所も随所に見られた作品だった気がする。

以上



国立アーカイブ、メキシコ映画の大回顧・ルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」についての雑感

2025-01-18 19:19:39 | 日記

今日はメキシコ映画、ルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」を学芸員さんのトークショー付きで見てきた。ブニュエルはのんき大将か何かを20年位前に見たがよく突っ込んでは見ていなかったが、今日の話で分かった。マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」並にかっちり撮ってある。これは1950年公開だが、マルセル・カルネの天井桟敷の人々は1945年の筈。つまり、終戦の年に公開したことになっていて、どうやってあの戦争のさなか、物資が不足していたのにいつ、どこで、あれだけの撮影を出来たのかという事が色々言われていた。僕は今から23年位前に大学のテキストが天井桟敷の人々だったのでほぼ前文訳した。

もっともこの時代の映画は日本では溝口健二辺りが違いのかもしれない。ルイス・ブニュエルは前衛的な所からハリウッド的な映画も作ってたみたいだ。しかし、それは今日改めて意識したのに近いので今はこれ以上触れない。

昨日の「次の夜明け」もよかったが、今日の「忘れられた人々も」もよく撮れてた。演技演出はオーソドックスというか誇張が強い気はするが、本当にかっちり作りこんである気がした。音楽はそれだけでもいい感じ。

メキシコにはアメリカ西海岸へ27年位前に行った際に、ロスァンジェルスからオプショナルツアーでサンディエゴ経由で、ティファナに行った事がある。たかだか3時間位いただけであるが、道すがら色々アメリカ社会とメキシコの関係を感じる事が出来た。

では、何を見たか?バスガイドが日本人で、メキシコたどり着く前に、農園が車窓から見えれば、あそこで働いている人々の多くは短期就労ヴィザで自給が200円位で農作業をしているとか、国境を越えたメキシコ側に車検工場があってアメリカ人が車検の整備料安さに車検を受ける為に車を向上へ出して日帰り~2泊位観光をすることが多い、国境沿いには監視等が海から国境にまたがってこまかく(1㎞毎に?)建てられているなど、説明を付けてくれ、成程スケールが違うなぁと思っていた。

今日見た「忘れられた人々」は貧困層の泥沼的トラブル・惨状を扱っており、今と違うのは薬物が出てこないところかもしれない。当時もあったのかもしれないが、作品上は煙草を少年が吸う場面は頻繁に出てくるが、大麻や覚せい剤は出てこない。

家なき子、親なき子、子沢山で親がいても仕事や経済的に恵まれず酒浸りになってる親、無理やり14歳で犯されて産んだ子を嫌々育てている、物乞いなどをしている人たちが時に複雑に反目し、衝突する様な社会が描かれている。昨日の「次の夜明け」は貧困の子供や労働者等社会の底辺にフォーカスを直接的に当ててない。どちらかといえば、教育を受けた方が売春や政治犯的に扱われる様に堕ちた所と政治的腐敗などだった気がする。

捨てられた人々では暴力やたかり、いびり、盗み、性的強要などが複雑に絡み合い、加害者も親を知らず被害者でもある、被害者だが加害行為を報復として時に行うという具合で話が展開されていると思う。このメキシコ映画特集には色々な映画が上映されていると思うが、この作品は公開当時、その様な事件はメキシコにはないといった反応が一般から出ていたようである。また、オープニングにこの作品でははっきりと実話ベースだという断り書きがでてくる。又、昨日の次の夜明けでもこのような話は普遍的であり、現実に起こりうることだと断りが出ていたはずである。

さて、この映画に描かれる様な状況は今の日本には簡単には見当たらないと思うが、後進国にはこれに近いものがある。インドなんかそうだと思う。ヴェトナムやタイも外れはいまだにこんなもんだろうが、10年前に行った際はサイゴンやハノイ、バンコックなどの都市部は間違いなく開発され、日本のバブルの頃に近づきつつあった。20年位前はこういう感じは残っていたけれど。東南アジア、インドネシアやカンボジア、マレーシアなども行く所に行けばまだ残っていると思う。

また、今回の忘れられた人々のトークショーでも触れられていたが、映画が戦後は一大娯楽産業であり、今はデジタル加工全盛の時代だが、生の演奏、沢山のエキストラ、セットやロケなども大変凝っていると思われた。

国立アーカイヴのメキシコ映画の特集で2本観たが予想以上に面白かったので、今日もエナモラーダを見ることにしている。

 

 

 


「ROLLING STONE ブライアン・ジョーンズの生と死」と「ボブ・マーリー ラスト・ライブ・イン・ジャマイカ レゲエ・サンスプラッシュ」

2024-02-22 22:51:00 | 日記

たまたま時間的に都合がつき、音楽映画2本梯子しました。

1本目、ボブ・マリーのジャマイカでのラスト・ライブとインタヴューなどの映像。どうやら来月ジミー・クリフのライブ映画もやるみたい。

僕はボブ・マリーって1986年位にスライダーズの村越”ハリー”弘明さんが東海ラジオの深夜番組でDJしてた時に”Harder they come"をジミークリフでなくて、ボブ・マリーとウェイラーズの演奏でかけてたのが最初の出会いかもしれない。ラジオの放送等でそれからたまに耳にした感じ。サウンド・ストリートとか。

さて、ボブ・マリーのライブ映画。ドイツ人とベルリンの配給会社がクレジット観てたら作ったみたいだった。

ライブ盤聞いた方がいいかもしれないし、ライブ音源映像としてはなかなかいいな。ガンジャ(大麻)を育ててるとか吸いながら歌ってる。反抗・反骨などの旗手として描かれてる所もある気はするが、自分は時代の仇花とか産物としてみてた。ギターを書き流しながらという勝手なイメージがあったが、どっちかっていうとショーン・ライダーとハッピー・マンデイズの原型は個々辺りかもしれないという感じはした。何故死んだかが気になるが、今はまだ調べてはいない。前に読んだ気もするが忘れている。37歳で死んだというのは覚えていた。どっちかっていうと、ジミー・クリフさんの方がまだ存命で、映画にHarder they comeの主演をしているので、音楽業界や政治的権力の不当支配と戦った印象が強くある。これはあの曲の詩の通り、ジミー・クリフの方が生き延び、「(全てを奪い取る事は出来ない、)自分は自分の取り分を掴み取る」的な実践が長く生きて音楽活動してと乗ったからだと思う。コーラス・シンガーの女性群やイベントで用意された観客のバック・ダンサー的ダンスなどもあって、自然体且野性的なボブ・マリーの歌唱やステージでの立ち居振る舞い、ジャマイカの音楽産業の雰囲気の生の息吹が感じられて、なかなか心地よかった。これは因みに1979年のライブで、彼が死ぬ前年位らしい。映画の中で字幕説明が出ていた。

ただ、ボブ・マリーを神格化してみる気にはなれない。いい例えではないとは思うが、その5年後、尾崎豊が彗星のごとくでてきて、すぐに覚せい剤等で逮捕され、その後5年位でおかしくなって不審死を遂げている。25歳前後と37歳では後者の方が長く生きた分、より人生を楽しんだ感じはあるが、ジミー・クリフならもう75歳は越えている気がする。若くして美しく死ぬだけではない生き延びる強さがジミー・クリフの方が彼らよりあると思うのだ。

細かい事はライブのパフォーマンスや音源を映像とともに聞けば説明は深く要らないと思うので、ここでは触れない。が、面白く思ったのは彼が来てたつなぎみたいなのが、背中に一番といれられてたりして面白かった。大麻については別にだね。炭鉱労働者がきつい肉体労働を続ける為にも使われたと言われてた気がするが、そういうのが時代的慣行であり、現実の社会の一面で、文化ともいえなくはない気はする。

若くして夭逝してしまったボブ・マリーの映像をみて、ジャマイカや野生といったものを思い出したが、同時に彼の死を悼む様な感じもあり、今の時代の雰囲気から行くと少々寂しい感じも個人的にはした。

映画は新宿のシネマカリテ山で見た。

たまたま時間があったので、その足で100m位離れたK's Cinemaさんで「ローリング・ストーン ブライアン・ジョーンズの生と死」をみた。17時25分位にシネマカリテを出て、17時半にはK's Cinemaの席で上映開始でした。

この映画で指摘されてるブライアン・ジョーンズはストーンズやブリッティッシュ・ロックやポップスをよく聞いてる人には言うまでもないことかもしれない。

自分は1970年生まれで、高校に入る頃、地方局が深夜番組でストーンズのスティル・ライフなどを放送したり、ストーンズがロン・ウッドをメンバーチェンジで入れて、新機軸を何とか商業ベースに乗せようとしていた時で、ビートルズやストーンズのリバイバル的なプロモーションがあった時代だ。背景にはヴィデオやCDなどがニューメディアとして登場してきて、コンテンツとしてワールド・ワイドに売ろうという時代であった感じ。MTVなどが世界中で流されたたし。

流行ってはおり、偉大だと言われるが当時の最新のJPOPやJROCKの方が勿論若者にはビビッドに響く。そういうものだ。ストーンズも薬物問題から抜け出して、歳をとっても元気にロックだみたいな売られ方をしていたと思う。少数の人がブライアン・ジョーンズの事を言う人もいたけど、深く突っ込む人はいなかった。自分が生まれる前の年位に死んでいる。はっきりこの映画位真相を言うなら言えばいいのにっていう。映画を観終わった後、ロックも体制側の支配の道具にしかなってないのかもなと思ってしまった。

映画について言えば、ブライアン・ジョーンズの人となりを追い、なぜ死んだか。そして、それはどういう扱われ方をだれにされたかという面を深く追求し、彼を殺して真相を隠している者達を糾弾しているような感じの映画だった。

27歳でブライアンは死んでいるので、本当に可哀そうだ。エリック・クランプトンは辛くておかしくなりながらも生き延びて自分らしさや生きる意味を取り戻した。勿論、離婚や子供を事故で失くすという様な辛い事を乗り越えてだ。

ブライアンの方が中流家庭で馬力が利かなかったのかもしれない。

ブライアンやボブ・マリーはジミー・クリフやエリック・クランプトンの様にはそうできなかった。ただ、神格化手放しで彼らをしたいとはだから思えない。自己管理も出来ないような所があり、年相応の若者だったという面だって否めないからだ。

マイケル・ジャクソンも本当に今たまたま思い出したが可哀そうな気がする。

ストーンズで今も現役で活動を続けているキースやミックはどうだろう?ブライアンについて、彼らは彼の死後、この30年位全然触れる事などない。そういう所がいまいちストーンズが好きになれない理由なのかもしれない。ジャニーズのジャニー喜多川がショー・マスト・ゴー・オンと言ってたらしいが、彼らもそうだったからだろう。ピンハネされて破産寸前だったのかもしれない。

その様にタブロイドやマスコミ、音楽業界がしていたのかもしれない。

簡単に言えば、この映画は国家側が彼を都合よく統治する為、警察権力を使って、薬物事件をでっちあげ、彼をおかしくして追い込み、彼が殺された事まで飲酒と薬物による事故死として処理してしまった事を暴いているドキュメント映画だった。そして、当時彼の近くにいた者がユダの様に裏切って、彼を殺した的な話でした。この映画とは別に2006年前後に別に映画化されているみたい。いつかそっちの方も観てみたい気はする。が、あまりに悲しい話。

ブライアン・ジョーンズの事はなんとなくわかる。最初のデヴューの頃は優等生路線で、スーツやジャケットを着て、こぎれいな格好で出て来ていたが、段々おかしくなっていったというか不良路線として、忌み嫌われるようになった。音楽を演奏する事にはたけていたけど、わかりやすく売れる物を作る方にはなく、寧ろヒール役として定着してしまった。

彼の婚外子の娘や当時彼と仲が良かった関係者の一部が彼の死を事件として扱った現地の警察当局に対して再捜査を要望しているという事をこの映画はラストで述べていた。

本当かどうかはわからない。ただ、ある程度、客観的に矛盾している死亡解剖と事件当時の周囲の証言などから行くと、さもありなんといった印象は否めない。天気同様、お寒い話だった。

エンディングで流れる歌の死にはジム・モリスンやカート・コバーン、イアン・カーティスなども歌われていて、謎の死は如何に作られたか。今後見直され、真実が明らかになり、人々の認識も新たに築かれ直されるのかもしれない。だが、恐らくは多くの人はそれを看過したまま、真実は闇に葬り去られるという既定路線の現実は厳然と今後も続く予感がした。

DATE 22th FEB 2024


雑記 映画「二匹の牝犬」

2024-02-19 22:06:25 | 日記

1964年3月公開の東映映画「二匹の牝犬」

 

およそこの映画が作られてから丸60年たった2024年2月中旬に、この映画がつくられてから6年後生れた私はこの映画を初めて見た。

映画のオープニングにも字幕で説明されるが売春防止法施行され、廃止された赤線から放擲されていく娼婦が店から立ち去る中、千葉出身で20歳前後の女性が年増の売春宿の女将的存在の女性に故郷に帰っても喰えないから何とかならないかという所から始まる。

これは一応虚構ではあると思う。しかし、そうではないかもしれない。どちらかなのかは未確認だが、ありうる話としてこのシナリオを描いたのだと思う。

証券マンの営業とトルコ風呂で働く女性が主役。演じるのは杉浦直樹と小川真由美。

客の預かり金に手をつけたり、客の売りを決めた後に勝手に買いをだしたりしている証券マンが杉浦演じる関根。その関根に売買を出している客の一人が小川演じるトルコ風呂従業員の隠れ娼婦朝子。

こういう雰囲気は80年代位迄は探せばあったかもね。ちなみに、マルサの女が出て来たのは80年代後半以降かな。バブル期は結構裏金やポケットマネーで本人が知らないまま、株取引がなされていたりして、そのまま宙ぶらりんになっている株式なんて多いっていう話はあった気がする。何故名乗り出なかったか?答えは贈与税とカ、何処から金を作ったかの刑事や民事責任を問われうることが怖くてそのままだったとか言われてたな。

今はネットで証券マンの営業って要らなくなってしまって、無店舗営業、直接売買する本人が自己責任で発注し管理する時代。証券会社も中小零細ほぼなくなりました。時代ですねぇ。

ん?裏金?多分、賭場開帳して儲けてその金で愛人名義で株買ったとかかな。現金で何かの対価として利益を上げたが、所得税とか逃れて株買ったとか。自分名義だとにらまれるし。1980年代一杯は株式取得税っていうのがあった気がする。

株屋推奨の株が上手くいかなければ、顧客に当たりそうなの回したとか。今よりは高度成長期からバブルは勝手に増えた銘柄は多いといえば多いと思う。これは雑感です。

この映画では証券会社を舞台にしたシーンもある。娼婦の朝子が稼いだ金で株の売り買いを関根に電話で伝え、金を喫茶店等でわたして、ついでにあれこれ話をする。関根は女性事務員にも手を出していたのかもしれない。

大まかな話としてはトルコ風呂(本番なしの性風俗・体を揉んだり洗う合法サービス)での労働と隠れ違法売春で稼いだ金で株を買って利殖に走る朝子。

担当の株屋が関根だが実はあまり予想は当たってなくて、勝手に客の金で株を買って外しては別の客の金を損失補填につかったり、それで更に損失を膨らましたりという様な有様。勿論、株取引だけでなく損失補填の為に競輪で儲けて、損失補填をしようとして失敗したなども描かれている。

二人の出会いは科白として証券会社が並ぶ所で朝子がうろうろしていた所を関根が話しかけたと述べられる。関根は朝子に客と営業という関係でなく、個人的な関係を持ちたいと代金受け渡しの喫茶店で迫る。朝子は300万(現在で言えば6000万位?)になったら、全てを許すという様な感じで関根に答え、株取引のオーダーを入れる。だが、しかし、恐らく朝子は関根推奨の銘柄にばかり売り買いを行ったからか、その株が暴落してしまい、増えた筈の資産が紙くずとなってしまう。勿論、株だけにしていたわけでなく、現金も持っていた。

関根は損失補填をする余裕などなく、朝子は関根と結婚して損失補填を求めず、風俗から足を洗った。関根はむしろ朝子が風俗で稼いでくれる方が良さげな腹すらある感じで、朝子が甲斐甲斐しく普通の主婦であることにはあまり喜んではない。

というのも、その直前に朝子の妹の夏子が朝子の後を追って、朝子を売った年増のポン引きのばあさんに迫って、関根の上司が客になり、夏子がゆすりを掛けに行った際に関根が上司から後始末をつけてくれとなって、関係を持ってしまっていた。株が暴落して、トルコ風呂の同僚らと慰安旅行先から関根を捜しに東京へもどり、関根は捕まらずに自宅へ戻ると、夏子が男を連れ込んでいた。事もあろうにその相手が関根だった。夏子をどやしつけ、居候を拒否して、千葉へ送り返す。

関根は、どうやら、罪の意識もなく、より若い夏子に溺れ、朝子に隠れて、夏子に住むところ与え、そこで夏子との関係を続けていた。因みに、夏子役には緑魔子。

朝子は証券会社の上司に関根の非行を聞き、ポン引きの婆さんに夏子と関根の関係をほのめかされ、ついにその現場を押さえてしまう。

朝子はナイフ片手に関根に迫る。関根は朝子をなだめ、セックスでごまかそうとするが、腹や背中を刺され傷を負うが、逆に首を絞めて朝子を殺してしまう。関根も朝子を絞め殺した後に、力尽きて死ぬ。夏子は同じ建物の別室に住む男の部屋で遊んでいたが、二人の行状をみつけて警察に電話して話をエンディングへ。証券マンがトルコ風呂の女性と心中かという様な見出しがすられた新聞記事が写され、その後、吉原のネオンが写されて映画が終わる。

筋を書いてしまったが、印象としては朝子は食えないから自ら体を売った。親は頼りにならない。姉妹だって敵ですらある。でも、本当は体など売りたくなく、普通の主婦がいい。金があればいい生活ができるなどが朝子を通して提示される一女性の本音であろうという感じ。今の女の人というか、社会では①自発的売春は職業選択や個人営業の自由として是か非か?②専業主婦は女性の地位向上にはつながらないから駄目か、はたまた女の幸せか?などが強くとらえ方として違和感あるかもしれない。

バブル崩壊の頃まで、結婚して安定的に生活苦が来ないならそれはあまり問わない人多かった気がするけどな。むしろ、早く結婚して、子供持ってみたいなのも普通にあった気はするけどな。

逆に自立する事と稼ぐ金の多寡は必要十分以外や分相応でない部分は成り立たないっていうかんじですかね。

株を持つという事は、経営者と同じ地位に立つことでもある。例え、イニシアティブを持つことはなくても、リスクも有限で引き受ける地位を買っているのだから。そういう点で株式の金融機能みたいな所ばかりにフォーカスが当てられすぎ、商売や開発の危険負担の分担という面を全然指摘しないのは今も昔も変わらない気がする。一人の頭のいいやつに全部を任して、持ち逃げとカ暴利貪られても気づかないとかだとどうしようもない。リスクもあるが、うまみもある。喧嘩して落としどころを掴むという意味でも案外悪くないものという面もあると思うが。商売を継続するには本気度が問われる所なんだと。合理的な解決法を見つける為に、ディベートをするという様な姿勢は日本にはありそうでない。ある所にはあるのかもしれない。

最後に吉原あたりだと思うけど、今はあんなにけばけばしいネオンってないもんな。何か高級とかいうと気づかれない様な感じにはしてある気がする。子の映画みたいに拗れると女の側にはヤクザ紛いの人が通常ついてる方がフツーなんだろう。立ちんぼとか景気悪いと歌舞伎町もあれば、小さい飲み屋なんてのも未だにその手の溢れた人たちがやってる所で流行ってるんだろうな。面倒なのは、国会議員だけじゃない。そんなの確定申告するのかな?

ハハハハハ、角さんや助さんや、そろそろ次の街へ行きますか。

これにて、失敬仕るでござる。

以上

 

 

 


鑑賞雑感…「グッドナイト」より真夜中の処女、1959年松竹大船

2024-02-03 07:01:05 | 日記

「グッドナイト」より真夜中の処女、1959年松竹大船

 

なかなか派手なタイトルだ、1959年当時の方が食いついてきたのかなぁ?映画の宣伝のポスターには”「グッドナイト」より”という文言は削られ、”真夜中の処女”とされ、?とか!、!?みたいな印象を観る側に抱かせる様なタイトルの付け方をしている。

 

この作品では、朝鮮特需の後で高度成長期が始まった戦後の日本の首都東京が舞台なんだろうな。タクシーの運転手をしているが会社に雇われでなく、個人営業に変えたいという話が出ている。

主人公の男はタクシーのドライバーをしているが、家から飛び出していて、原因は先妻の子として後妻とその子と折が良くない事もある様な描写があったと思う。

小山明子が演じたのはカフェの女給、いまでいうキャバ嬢ってかんじかもしれない。客であるタクシーのドライバーの主人公と男女の関係をもっているが、同時に他の客とも出来ているのかもしれない。話が進むにつれて、明らかになるが、実は麻薬にも手を出していて、その麻薬を裁いているのが元官吏である男とその上司である税関の管理職。儲け話として、その上司をつかって麻薬を闇に流し儲けている。そして、その上司の娘を強引に結婚させた。

この映画は強引に結婚を親に押し付けられて、即座に逃げ出した処から始まるのである。そして、雨の中、とりあえず、金すら持ってはいなかったがタクシーに乗り、運命の相手となるドライバーと出会う訳だ。

金もないが話を聞いて、主人公のドライバーの男は小山演じるカフェの女給に居候させることを頼む。

初めは嫌がるが、結局、引き受けることになる。運命の悪戯である。

麻薬を闇に流してる役人の娘、且、元上司としてその親にたかっている元役人である薬の売人に強引に結婚させられた娘の逃避行を客であり、愛人でもある男に頼まれたわけである。

まぁ、一つに女性の自立というのはこの時代そんなに簡単ではなかったという事実が描かれていると言えなくない気がする。ここに、当時の統計なんかつけると余計なるほどなぁという証明になるかもしれない。ちなみに、これは1959年封切の作品で、売春防止法が施行されたのが1957年、赤線(公営売春)が廃止されたのは1958年。

映画にはある種のプロバガンダや社会の理想の模索と回答みたいなのがこめられていたわけである。

割に話はそういう仕組みがわかれば、単純かもしれない。実はこの政略的結婚から逃避した当時で言う未成年の女性は先妻の子供。偶然助けたドライバーの男性も先妻の子供で、会社からも個人営業として独立したく、仲間と共済組合をつくって営業をしていく設定。

ドライバーである男の所に逃げ出した新婦の奪回に押しかけてきて、悶着があり、最後に小山が役の売人を刺して自首するという感じの結末。勿論、その前に娘の親も自首するとか、小山演じるカフェの女給に悪いから遠慮しなさいと言ったりもするのだが。

最終的には、個人の自由を薬を闇で流して奪って儲けていた元役人の男が女給に殺され、女給は自首し、女給が愛人(の一人?あるいは紐?)として付き合っていたドライバーがその役人の娘と結婚して旅に出る所で話は終わる。また、その際、ドライバーの男の義理の妹か姉がドライバーが参加している共済組合の同僚と結婚するという様な所も描かれてたりする。

都市型で新しい核家族や大きな企業や政治からの不当支配からの個人の脱却など、戦後の理想と実現が描かれているのかもしれない。

以上