今日はメキシコ映画、ルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」を学芸員さんのトークショー付きで見てきた。ブニュエルはのんき大将か何かを20年位前に見たがよく突っ込んでは見ていなかったが、今日の話で分かった。マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」並にかっちり撮ってある。これは1950年公開だが、マルセル・カルネの天井桟敷の人々は1945年の筈。つまり、終戦の年に公開したことになっていて、どうやってあの戦争のさなか、物資が不足していたのにいつ、どこで、あれだけの撮影を出来たのかという事が色々言われていた。僕は今から23年位前に大学のテキストが天井桟敷の人々だったのでほぼ前文訳した。
もっともこの時代の映画は日本では溝口健二辺りが違いのかもしれない。ルイス・ブニュエルは前衛的な所からハリウッド的な映画も作ってたみたいだ。しかし、それは今日改めて意識したのに近いので今はこれ以上触れない。
昨日の「次の夜明け」もよかったが、今日の「忘れられた人々も」もよく撮れてた。演技演出はオーソドックスというか誇張が強い気はするが、本当にかっちり作りこんである気がした。音楽はそれだけでもいい感じ。
メキシコにはアメリカ西海岸へ27年位前に行った際に、ロスァンジェルスからオプショナルツアーでサンディエゴ経由で、ティファナに行った事がある。たかだか3時間位いただけであるが、道すがら色々アメリカ社会とメキシコの関係を感じる事が出来た。
では、何を見たか?バスガイドが日本人で、メキシコたどり着く前に、農園が車窓から見えれば、あそこで働いている人々の多くは短期就労ヴィザで自給が200円位で農作業をしているとか、国境を越えたメキシコ側に車検工場があってアメリカ人が車検の整備料安さに車検を受ける為に車を向上へ出して日帰り~2泊位観光をすることが多い、国境沿いには監視等が海から国境にまたがってこまかく(1㎞毎に?)建てられているなど、説明を付けてくれ、成程スケールが違うなぁと思っていた。
今日見た「忘れられた人々」は貧困層の泥沼的トラブル・惨状を扱っており、今と違うのは薬物が出てこないところかもしれない。当時もあったのかもしれないが、作品上は煙草を少年が吸う場面は頻繁に出てくるが、大麻や覚せい剤は出てこない。
家なき子、親なき子、子沢山で親がいても仕事や経済的に恵まれず酒浸りになってる親、無理やり14歳で犯されて産んだ子を嫌々育てている、物乞いなどをしている人たちが時に複雑に反目し、衝突する様な社会が描かれている。昨日の「次の夜明け」は貧困の子供や労働者等社会の底辺にフォーカスを直接的に当ててない。どちらかといえば、教育を受けた方が売春や政治犯的に扱われる様に堕ちた所と政治的腐敗などだった気がする。
捨てられた人々では暴力やたかり、いびり、盗み、性的強要などが複雑に絡み合い、加害者も親を知らず被害者でもある、被害者だが加害行為を報復として時に行うという具合で話が展開されていると思う。このメキシコ映画特集には色々な映画が上映されていると思うが、この作品は公開当時、その様な事件はメキシコにはないといった反応が一般から出ていたようである。また、オープニングにこの作品でははっきりと実話ベースだという断り書きがでてくる。又、昨日の次の夜明けでもこのような話は普遍的であり、現実に起こりうることだと断りが出ていたはずである。
さて、この映画に描かれる様な状況は今の日本には簡単には見当たらないと思うが、後進国にはこれに近いものがある。インドなんかそうだと思う。ヴェトナムやタイも外れはいまだにこんなもんだろうが、10年前に行った際はサイゴンやハノイ、バンコックなどの都市部は間違いなく開発され、日本のバブルの頃に近づきつつあった。20年位前はこういう感じは残っていたけれど。東南アジア、インドネシアやカンボジア、マレーシアなども行く所に行けばまだ残っていると思う。
また、今回の忘れられた人々のトークショーでも触れられていたが、映画が戦後は一大娯楽産業であり、今はデジタル加工全盛の時代だが、生の演奏、沢山のエキストラ、セットやロケなども大変凝っていると思われた。
国立アーカイヴのメキシコ映画の特集で2本観たが予想以上に面白かったので、今日もエナモラーダを見ることにしている。