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国立アーカイブ・メキシコ映画の映画の大回顧「エナモラーダ」鑑賞後雑感

2025-01-19 17:39:47 | 日記
昨日1月18日のブニュエルの「忘れられた人々」に引き続き、今日19日も「エナモラーダ」を観てきた。エナモラーダとはメキシコ語ですなわち愛らしい。

メキシコ史というのは詳しくない。多分、南北戦争後、原住民は南に追いやられたのは間違いないとか、そもそも原住民に対し大航海時代以降西欧からの入植者が多かった筈という程度の物でしかない。

一応実話ベースというか設定は現実のメキシコをベースにして、脚色がどこまでという感じじゃないかと思う。

そういう前提で自分が考えたものとして、以後読んでもらいたい。

簡単に言えば、革命軍の将軍がある土地へやってきて、支配している政治的権力寄りの既得権益がある富裕層に革命の為の資金や協力を迫り、そこに駐留するという状況。そこで、富裕層のなかのある名士の娘に将軍が恋をするという話。

この作品は1946年公開なので、戦後すぐの筈である。にしては、ゴージャスなセットな気がする。手が込んだ作りこみ。昨日の忘れられた人々は一般大衆の貧窮や家や親なき子たちが路上や廃墟に住む、或いは、家で鳥や家畜などを飼ってあばら家・掘立小屋に住む描写が多かったがこちらは家の中のインテリアや壁に掛けられた絵画、富裕層たちの衣装など、貧乏くさくは全然ない。

昨日の忘れられた人々にでてくる子供たちの恰好は半袖のTシャツにジーンズ、浮浪者なども小綺麗さはなかった感じとは大違いだった。

そういうテーマからいけば、民主化といえど、西欧からの価値観が持ち込まれ、政治的に優位に立っている者とそうでないものに分かれるという面はつよくあったのではないかと思う。大まかに人々を分ければ、西欧からの移住者で富裕層(統治者層)、移住したが貧しい労働者(革命派層)、マイノリティになった原住民という具合かな。

この映画では、最終的には周囲はともかく、富裕層(元成り上がり?)の娘が政府軍が来た際に身を引く形で撤退する将軍とその革命軍に許嫁を捨てて突いていくという話にはなっていた。

因みにこの映画上のヒロインは一目惚れした将軍を時に罵倒し、殴りつけ、将軍が載る馬に爆竹を投げつけて将軍が振り落されるなど、相当自分に自信を持ち粗野であると将軍を拒絶しているシーンが目立った。それに対し、父は俺もお前の母を他人から奪ったと娘に告げたり、将軍如何に詰め寄られお金や資産、美人の妻をやるから命だけは助けて欲しいなどのセリフも出てくる。将軍の方も一目惚れしたとはいうものの、粗野だとか家柄を出され娼婦と一緒になれと言われると、彼女らだって立派に他人の為に仕事をしていると言う趣旨の事を言い返したり、美人の妻を差し出すという事をいう様のは台木にかけるから認めないという類の事を言い返す場面があった。

また、その様な展開の中で、友人の牧師がその土地の富裕層と将軍の仲立ちに入り、略奪的支配を咎め、将軍が身柄を開放し行動制限の解除を許可した者は将軍が惚れた女の許嫁だから略奪婚は反対するといった場面もあったと思う。キー・モメントには宗教画と壮麗な教会、アベマリアの唱和などなかなか凝っていた。キリスト教カトリック文化?それもメキシコなのだろう。

なかなか大胆なやり取りが面白く、男勝りの良家のお嬢様と少々乱暴な風貌の将軍が実は似た者同士だったという感じが面白い。

色々あるが、将軍が娘に告白するもあしらわれ、その後娘が親と許嫁が予定通り結婚式を始めるシーンがあった。結婚式を行い、届を受理するというくだりがあった。結婚というのは教会や牧師の面前で誓いを述べて式を挙げたという証明が西欧の婚姻文化として婚姻届けと連なっていて、姓が変わる事を述べる所もあった。まさにその直後、正規軍が革命軍を排除しに街へ攻撃をしながら侵攻してくるという状況。

最近は形骸化した、或いは、個人主義的に核家族で配偶者と子、それに親の観に範囲が小さいのが通常になった、つまりは、家より職能を重視して労働の場が血縁や地縁が絡む家ではなく他社が集まる企業になったからなんだろうけど、そもそもは一般的に女性が他家へ嫁ぐというのはここでも変わらず、ある意味結婚式というのは婚姻関係になったという公示でもあり、婚姻後嫁いだ先の新たな構成員・労働者としての歓迎会でもあった筈なのだ。そこには婚姻同時者間が排他的に関係を結ぶという事、それをもって男系ならそちらの家の親族に対して配慮義務をもって嫁ぐ前の家から離れて生きるという事を含んだ訳である。

あとは、この映画もミュージカルというか音楽が上手く取り入れられていた。特に、将軍が自分では下手だから歌わずに、ギターをもった歌い手3人に求愛の歌を歌わせるシーンなども大変よかったね。

凄くラテン系というか、濃い演出がなされており、カトリック文化を背景に富裕層と革命軍にスポットが当てられた作品なのでゴージャスな所も随所に見られた作品だった気がする。

以上



国立アーカイブ、メキシコ映画の大回顧・ルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」についての雑感

2025-01-18 19:19:39 | 日記

今日はメキシコ映画、ルイス・ブニュエル監督「忘れられた人々」を学芸員さんのトークショー付きで見てきた。ブニュエルはのんき大将か何かを20年位前に見たがよく突っ込んでは見ていなかったが、今日の話で分かった。マルセル・カルネ監督の「天井桟敷の人々」並にかっちり撮ってある。これは1950年公開だが、マルセル・カルネの天井桟敷の人々は1945年の筈。つまり、終戦の年に公開したことになっていて、どうやってあの戦争のさなか、物資が不足していたのにいつ、どこで、あれだけの撮影を出来たのかという事が色々言われていた。僕は今から23年位前に大学のテキストが天井桟敷の人々だったのでほぼ前文訳した。

もっともこの時代の映画は日本では溝口健二辺りが違いのかもしれない。ルイス・ブニュエルは前衛的な所からハリウッド的な映画も作ってたみたいだ。しかし、それは今日改めて意識したのに近いので今はこれ以上触れない。

昨日の「次の夜明け」もよかったが、今日の「忘れられた人々も」もよく撮れてた。演技演出はオーソドックスというか誇張が強い気はするが、本当にかっちり作りこんである気がした。音楽はそれだけでもいい感じ。

メキシコにはアメリカ西海岸へ27年位前に行った際に、ロスァンジェルスからオプショナルツアーでサンディエゴ経由で、ティファナに行った事がある。たかだか3時間位いただけであるが、道すがら色々アメリカ社会とメキシコの関係を感じる事が出来た。

では、何を見たか?バスガイドが日本人で、メキシコたどり着く前に、農園が車窓から見えれば、あそこで働いている人々の多くは短期就労ヴィザで自給が200円位で農作業をしているとか、国境を越えたメキシコ側に車検工場があってアメリカ人が車検の整備料安さに車検を受ける為に車を向上へ出して日帰り~2泊位観光をすることが多い、国境沿いには監視等が海から国境にまたがってこまかく(1㎞毎に?)建てられているなど、説明を付けてくれ、成程スケールが違うなぁと思っていた。

今日見た「忘れられた人々」は貧困層の泥沼的トラブル・惨状を扱っており、今と違うのは薬物が出てこないところかもしれない。当時もあったのかもしれないが、作品上は煙草を少年が吸う場面は頻繁に出てくるが、大麻や覚せい剤は出てこない。

家なき子、親なき子、子沢山で親がいても仕事や経済的に恵まれず酒浸りになってる親、無理やり14歳で犯されて産んだ子を嫌々育てている、物乞いなどをしている人たちが時に複雑に反目し、衝突する様な社会が描かれている。昨日の「次の夜明け」は貧困の子供や労働者等社会の底辺にフォーカスを直接的に当ててない。どちらかといえば、教育を受けた方が売春や政治犯的に扱われる様に堕ちた所と政治的腐敗などだった気がする。

捨てられた人々では暴力やたかり、いびり、盗み、性的強要などが複雑に絡み合い、加害者も親を知らず被害者でもある、被害者だが加害行為を報復として時に行うという具合で話が展開されていると思う。このメキシコ映画特集には色々な映画が上映されていると思うが、この作品は公開当時、その様な事件はメキシコにはないといった反応が一般から出ていたようである。また、オープニングにこの作品でははっきりと実話ベースだという断り書きがでてくる。又、昨日の次の夜明けでもこのような話は普遍的であり、現実に起こりうることだと断りが出ていたはずである。

さて、この映画に描かれる様な状況は今の日本には簡単には見当たらないと思うが、後進国にはこれに近いものがある。インドなんかそうだと思う。ヴェトナムやタイも外れはいまだにこんなもんだろうが、10年前に行った際はサイゴンやハノイ、バンコックなどの都市部は間違いなく開発され、日本のバブルの頃に近づきつつあった。20年位前はこういう感じは残っていたけれど。東南アジア、インドネシアやカンボジア、マレーシアなども行く所に行けばまだ残っていると思う。

また、今回の忘れられた人々のトークショーでも触れられていたが、映画が戦後は一大娯楽産業であり、今はデジタル加工全盛の時代だが、生の演奏、沢山のエキストラ、セットやロケなども大変凝っていると思われた。

国立アーカイヴのメキシコ映画の特集で2本観たが予想以上に面白かったので、今日もエナモラーダを見ることにしている。