うろうろとする日々

現代思想2023年7月号特集=<計算>の世界

現代思想の7月号の巻頭インタビューは森田真生氏です。当然計算について語っているのですが、

この中で彼が中高時代にバスケットボールをやっていて、そのコーチが山伏であったことと、かれの研究のスタイルの関係があることが述べられます。

青土社 ||現代思想:現代思想2023年7月号 特集=〈計算〉の世界

あちらこちらで語られていますが、例えば『絶版本』の中でも山伏の長谷川智氏からもらった本について書いています。それだけ彼に対しての影響力が強い人なのでしょう。もしかすると彼の独立研究者としての生き方はあるいみ世界を山伏のように歩く方法なのかもしれません。山伏も一般のひとを案内して霊場などを回ることで収入を得るのかもしれません。彼も一般のひとに数学というか、その世界観を”案内”しているのかもしれません。

ということで、全然関係ないのですが、養老孟司氏が7月8日の毎日新聞にデイビッド=チャーマーズの『リアリティ+』の書評を寄せているが、おそらく養老氏にとってのリアリティとは森田氏的な世界観によるものなのだろう。そういった意味で世界観が文化的背景を持つという当たり前のことは確かに事実としてある。

しかし、哲学はそういった背景そのものを解き明かすところから”対話を求める”ものではないだろうか。

そうすると、おそらくは”学”というのは論文を書いて、そのような違う文化的背景の人とも対話する手段なのではないだろうか。養老氏にしても専門の解剖学については、文化的な背景は違う人とも”解剖学”という”学”の中では対話しているのではないだろうか?

リアリティを切り取って掘り下げていくとどこかに日常的=普通に生活しているとき、とは違う感覚や疑問が生じてくる。それを掘り下げる手段がさまざまな”学”で、そこを過剰に切り取ったのがチャーマーズが+といっているところではないだろうか。

そう考えるとその+に付き合うことを拒否するような養老氏の書評はどうなんだろうという気がしてくる。

チャーマーズはその+を提示することで他との対話を求めているのだと思う。

一方森田氏のいうことも、おそらく最後はそういった文化的な背景をベースにした世界観を求めていくと、”学”としての方向よりもリアリティというのは彼がいっているように身体性と密接につながったものになり、ある人たちにはわかるけど、それ以外の人には対話不可能なものになってしまうのではないだろうか。

それは彼が影響を受けた山伏として、自ら山に登ってパワーを得る?というような生き方かもしれないが、彼に興味を持つ人がみな、例えば庭造りをやらないといけないわけではないだろう。そういえばウィットゲンシュタインも庭をやっていた時代もあったような。その辺も彼のことばの中にはあるのだろうか。

ウィットゲンシュタインもまた、いろいろなことをやったけれども哲学を職業にしたとはいえない人だったと思う。ラジオで高橋源一郎氏が森田氏に収入はどうしているのか?というようなことを聞いていたが、残念ながら回答はあいまいだった。高橋氏にとっては結構そのあたりは重要なところで、彼自身最後は大学で教えることもやっていたわけで、それはやはり生活のこともあったのだろう。しかし、彼の師である長谷川智氏はどうやら最後まで特定の大学や学校に就職することはなかったようである。講師としてはいくつかの学校で教えたようであるが。森田氏の今後の方向に非常に興味があるが、ぜひとも長く活動してほしい。

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