かつてわが国には、8人10代の女性天皇がいらっしゃいました。その歴史を学びましょう。
まずは、推古天皇について、どんな記録が残っているのか、今はどのように評価され論評されているのか、どんなエピソードがあるのか、調べてみませんか。
<これまでに投稿されたコメント一覧>
・明正女帝と後桜町女帝(吹上御所の雑草)
・女性上皇、女性天皇、将来の女性皇太子が同時に実存した3年間。(浜名 勇三)
・元明女帝(浜名勇三)
・推古女帝(浜名勇三)
・第41代持統天皇(浜名勇三)
・追記第41代持統天皇(浜名勇三)
・第44代元正天皇?(浜名勇三)
・第48代称徳女帝(第46代孝謙女帝)(浜名勇三)
・ひょっとして、日本の女性天皇、もうちょっと多かったかも…というお話①(シロキジ)
・第117代 後桜町女帝(浜名勇三)
・「皇統譜」に含まれる皇族の範囲(浜名勇三)
・手白香皇女は皇后ではなく女帝だったという説あり(浜名勇三)
・朝日新聞(昭和生まれ)
まずは、推古天皇について、どんな記録が残っているのか、今はどのように評価され論評されているのか、どんなエピソードがあるのか、調べてみませんか。
<これまでに投稿されたコメント一覧>
・明正女帝と後桜町女帝(吹上御所の雑草)
・女性上皇、女性天皇、将来の女性皇太子が同時に実存した3年間。(浜名 勇三)
・元明女帝(浜名勇三)
・推古女帝(浜名勇三)
・第41代持統天皇(浜名勇三)
・追記第41代持統天皇(浜名勇三)
・第44代元正天皇?(浜名勇三)
・第48代称徳女帝(第46代孝謙女帝)(浜名勇三)
・ひょっとして、日本の女性天皇、もうちょっと多かったかも…というお話①(シロキジ)
・第117代 後桜町女帝(浜名勇三)
・「皇統譜」に含まれる皇族の範囲(浜名勇三)
・手白香皇女は皇后ではなく女帝だったという説あり(浜名勇三)
・朝日新聞(昭和生まれ)
興子内親王 = 明正女帝の即位(御年8歳)
860年ぶりの女帝が着した礼服は、宝冠、白の大袖、小袖という装束で、8歳という御年のため新調せざるをえなかった。
公卿の二条康道日記より
「袞竜ヲメスベキ御事ナレドモ、女帝ニマシマセバ、古代ノタメシニ任セ、白キ御衣ナリトゾ聞ヘシ。」
これは、平安時代の弘仁11年頃より以降、即位儀には男帝は袞衣で、女帝は白(帛)衣とする故実によったためである。
今日もであるが、当時の人も、天皇が即位する時、男帝と女帝とでは装束が相違するということを、多くの人は知らなかったようである。
しかし面白い事に、当時、上方浮世絵師の大成者と言われる西川祐信が描いた「百人女郎品定」の中に見られる女帝の装束は、男帝の装束なのである。
その挿絵からは分かりにくいが、女帝が着装している赤の大袖には、その両袖に竜の縫い取りの他に大袖全体に日・月などの刺繍が総計で12も施されている。これが、袞衣である。
西川祐信は上方の人間であるゆえ、江戸よりは天皇家への関心があったと思われるが、男帝の装束としたその本心は、いまだ論争されている。
智子内親王 = 後桜町女帝の即位(御年24歳)
8歳の幼女と24歳の成人とでは、その即位儀は異なることが少なくなかった。
後桜町は伝統に則り、当時内蔵寮が保管していた「古物」の女帝装束が運び出されており、これは「礼服御覧」と呼ばれる儀式で、新帝即位にあたり、事前の男帝と女帝の礼服を内覧することである。
智子内親王による女帝即位であるから、男帝の装束は返され、残された女帝の礼服を着装する予定であった。
この予定された女帝の礼服は、古代最後の女帝である孝謙=称徳女帝が即位儀に使用されたものと考えられている。
しかし、称徳女帝の即位以来、使用することのなかった礼服は、そのままでは着用する事ができず、結局は白絹の大袖、小袖その他を新調している。
それらは総じて白を基調としているが、なぜか、「沓」だけは男帝と同じ赤であった。
そして後桜町女帝は、明正女帝が挙行しなかった重要な儀礼すなわち大嘗祭を行っている。
大嘗祭については、1500年に即位した後柏原天皇より以降、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、明正女帝、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇は挙行できなかった。
何故ならば費用が莫大で、天皇家の権威だけでは、その費用を調達できなかったからである。
さらに、後桜町女帝は、明正女帝の御代にあった院政がしかれることは無く、天皇親政の統治形態となっている。
『日本の女性天皇』荒木敏夫 著(小学館文庫)を参考とする。
第43代 元明 太上天皇(女性)が生きており、
第44代 元正天皇(女性)が在位していた。
元正天皇は、母・元明 太上天皇の内親王である。
その718年、
46代・48代となる孝謙(称徳)天皇が生誕した。
718年から721年までの3年間、
43代の女性天皇、
43代天皇を母とする実娘の44代天皇、
46代・48代の女性天皇となる3人が相見えていたのである。
46代・48代 孝謙(称徳)天皇は、45代 聖武天皇の内親王である。
孝謙(称徳)天皇は阿倍内親王と言った。
阿倍内親王は738年に立太子して皇太子となった。
743年5月5日_____
皇太子となった阿倍内親王は内裏で「五節(田)舞」を舞った。
その場に、
44代 元正 太上天皇と 45代 聖武天皇がいた。
749年_____
45代 聖武天皇の譲位により、
その実娘である皇太子阿倍内親王が即位した。孝謙天皇である
これより前の史実として_____
35代・37代 皇極(斉明)天皇は、天智天皇と天武天皇の実母である。
元明女帝(阿閇内親王) 707年 即位
父 天智天皇
母 蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘
680年 氷高内親王(元正女帝)を出産
683年 珂瑠(軽)親王(文武天皇)を出産
※ 707年 文武天皇 崩御
元明女帝の生母は皇族ではないが天皇として即位している。
推古女帝 「日本書紀」より
推古 2年 三宝興隆を命ずる詔を発令
推古11年 朝廷に中国風の儀式を取り入れるために大楯や靱を作らせる
推古13年 元興寺を造らせる
推古15年 神祇をあつく祀るように命じる
推古14年 厩戸皇子に勝鬘経などの講説を命じる
推古32年 僧官を定める
① 「日本書紀」によると、「推古天皇の夫・敏達天皇は仏法を信けたまはずして文史を愛みたまふ。」と記されている。
② 敏達天皇は仏教嫌いなこともあり、その在位中には物部守屋の排仏が行われている。
①と②から分かるように、推古女帝が仏教を保護し実践したということは、
推古女帝は亡夫・敏達天皇の遺志を継ぐための女帝ではなく、
自分の考えと意思にもとづいて政治を行った見識高い女帝であることが分かってくる。
推古女帝は蘇我氏の傀儡という説もあるが、
推古32年、推古女帝は大臣・蘇我馬子からの「葛城県地域の支配要求の上奏」を「その地は大王家(天皇家)の土地であるゆえ臣下に与えるわけにはゆかぬ。」として断固拒否していることを見ると、推古女帝は傀儡ではなかったということが分かってくる。
第41代 持統天皇
父 天智天皇
母 蘇我遠智娘
夫 天武天皇(天智天皇の同母弟)
夫である天武天皇の崩御後、称制天皇として、次の天皇として草壁皇子が即位するまで、政務を執った。
持統天皇
697年 第42代 文武天皇に譲位して最初の太上天皇を称する
第44代 元正天皇
父 草壁皇子
母 第43代 元明天皇
722年 良田百万町歩の開墾を命じる
723年 「三世一身の法」を定めて土地私有を認める
在位中、
・ 「養老律令」「日本書紀」が成立
・ 大隅隼人や陸奥蝦夷との抗争が激化する
第48代 称徳女帝 (第46代 孝謙女帝)
764年 孝謙上皇が称徳女帝として重祚
769年 習宜阿曽麻呂が道鏡を皇位につければ、「天下泰平ならん」という宇佐八幡の神託を上奏する。
称徳女帝は道鏡を寵愛していた(ようである)が、和気清麻呂を宇佐に遣わして神意を確かめさせたところ、「天つ日嗣ぎは必ず皇儲を立てよ」と託宣あり。
称徳女帝は詔を発し、「道鏡には皇位を継がせない。」と宣言する。
※ 称徳女帝と道鏡との関係については平成の今現在に至るまで面白おかしく語られているが、最終的に称徳女帝は道鏡を皇位から完全に遠ざけた。
このことから、称徳女帝は恋に溺れる女性などではなく、皇位を狙う輩を詔によって完全に排除した賢帝であると言える。
これからもどうぞご教示よろしくお願いいたします。
さて、私め、少々わき道にそれたテーマで恐縮ですが。
日本の女性天皇、現在の皇統譜では8名10代、ということになっています。
でも、実はもうちょっといらっしゃったかもしれない、というお話を少し。
お一方は神功皇后。
第14代天皇仲哀天皇の皇后であり、第15代応神天皇の母親、といわれているお方です。
古事記では「息長帯比売(おきながたらしひめ)」という名前になっています。
三韓を攻めるようにという神様の信託を無視したために神罰が下って亡くなった仲哀天皇にかわって朝鮮半島に攻め入ったという勇ましい伝説が古事記などに記されています。明治以前の史書ではこの方を15代天皇と認めたものも結構あったとか。
中国の元代の史書「宋史」も、神功皇后を「天皇」として記録しているようです。
征伐から帰国後は皇位を狙う仲哀天皇の別腹の息子たち(香坂王・忍熊王)を倒圧し、60年以上も応神天皇の替りに政治をとっていたと記紀に記されています。年数などそのまま鵜呑みにできませんが、当時は摂政という定義もはっきりなかった時代。これだけ長期間政権をとっていれば、当時の人々もこの方を天皇的な存在として認識していたのではないでしょうか。
三韓征伐の話を事実ではないとし、皇后の実在そのものも疑問視する研究者もいるようですが、古事記や日本書紀などでは、欠史八代といわれる初期の男性天皇方などよりも、ずっと豊かなエピソードが存在しており、なんとも想像力をかきたてられるご存在なのです。
実は仲哀天皇と応神天皇は本当に親子なのかという疑問も歴史研究家の間で渦巻いています。
仲哀天皇の死後から応神天皇の誕生まで一年以上と時間が空きすぎているためです。
妊娠中の神功皇后がおなかに石を巻いて出産を遅らせ、三韓征伐から帰国後出産したというかなり無理めなお話が古事記にあります。
ひょっとすると王朝交代があったのではないかと。
もしかして皇統は仲哀天皇でいったん途切れ、神功皇后(天皇)からあらたな皇統が女系でスタートしたのかも…なーんて想像すると、男系男子派から矢が飛んできそうなのでこのへんにしておきますねw
明治時代はお札にも印刷されたほどの人気だったとか。
戦前・戦中の小学生の教科書などに神功皇后の三韓征伐の話はよく記載され、日本の韓国併合の正当化に利用されたようです。
そのせいか戦後はちょっとタブー視されるようになっちゃったんでしょうか、専門的な研究もやや少ないようですが、中々侮れない存在感をお持ちの方と言えるのではないでしょうか。
父 第115代 桜町天皇
母 藤原舎子
1762年 桃園天皇の崩御により践祚
1763年 即位
在位中に「宝暦事件」より重大な「明和事件」が発生するも、後桜町女帝には無関係であった。
※ 明和事件により、あまりにも過激すぎる尊皇思想を主張し続けた山県大弐が処刑され、竹内敬持は遠流となった。
後桜町女帝は何ら関係しておらず。
後桜町女帝は大嘗祭を行い親政をし、上皇(院)となっては、幕府からも朝廷からも軽んじられていた第119代の光格天皇を陰に日向に補佐し盛り立てた、賢帝(院)と言える。
「後桜町院辰記」「禁中年中の事」「古今伝授の御記」など日記、記録など多岐多数にわたり記された。