かつてわが国には、8人10代の女性天皇がいらっしゃいました。その歴史を学びましょう。
まずは、推古天皇について、どんな記録が残っているのか、今はどのように評価され論評されているのか、どんなエピソードがあるのか、調べてみませんか。
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<これまでに投稿されたコメント一覧>
・明正女帝と後桜町女帝(吹上御所の雑草)
・女性上皇、女性天皇、将来の女性皇太子が同時に実存した3年間。(浜名 勇三)
・元明女帝(浜名勇三)
・推古女帝(浜名勇三)
・第41代持統天皇(浜名勇三)
・追記第41代持統天皇(浜名勇三)
・第44代元正天皇?(浜名勇三)
・第48代称徳女帝(第46代孝謙女帝)(浜名勇三)
・ひょっとして、日本の女性天皇、もうちょっと多かったかも…というお話①(シロキジ)
・第117代 後桜町女帝(浜名勇三)
・「皇統譜」に含まれる皇族の範囲(浜名勇三)
・手白香皇女は皇后ではなく女帝だったという説あり(浜名勇三)
・朝日新聞(昭和生まれ)
まずは、推古天皇について、どんな記録が残っているのか、今はどのように評価され論評されているのか、どんなエピソードがあるのか、調べてみませんか。
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<これまでに投稿されたコメント一覧>
・明正女帝と後桜町女帝(吹上御所の雑草)
・女性上皇、女性天皇、将来の女性皇太子が同時に実存した3年間。(浜名 勇三)
・元明女帝(浜名勇三)
・推古女帝(浜名勇三)
・第41代持統天皇(浜名勇三)
・追記第41代持統天皇(浜名勇三)
・第44代元正天皇?(浜名勇三)
・第48代称徳女帝(第46代孝謙女帝)(浜名勇三)
・ひょっとして、日本の女性天皇、もうちょっと多かったかも…というお話①(シロキジ)
・第117代 後桜町女帝(浜名勇三)
・「皇統譜」に含まれる皇族の範囲(浜名勇三)
・手白香皇女は皇后ではなく女帝だったという説あり(浜名勇三)
・朝日新聞(昭和生まれ)
興子内親王 = 明正女帝の即位(御年8歳)
860年ぶりの女帝が着した礼服は、宝冠、白の大袖、小袖という装束で、8歳という御年のため新調せざるをえなかった。
公卿の二条康道日記より
「袞竜ヲメスベキ御事ナレドモ、女帝ニマシマセバ、古代ノタメシニ任セ、白キ御衣ナリトゾ聞ヘシ。」
これは、平安時代の弘仁11年頃より以降、即位儀には男帝は袞衣で、女帝は白(帛)衣とする故実によったためである。
今日もであるが、当時の人も、天皇が即位する時、男帝と女帝とでは装束が相違するということを、多くの人は知らなかったようである。
しかし面白い事に、当時、上方浮世絵師の大成者と言われる西川祐信が描いた「百人女郎品定」の中に見られる女帝の装束は、男帝の装束なのである。
その挿絵からは分かりにくいが、女帝が着装している赤の大袖には、その両袖に竜の縫い取りの他に大袖全体に日・月などの刺繍が総計で12も施されている。これが、袞衣である。
西川祐信は上方の人間であるゆえ、江戸よりは天皇家への関心があったと思われるが、男帝の装束としたその本心は、いまだ論争されている。
智子内親王 = 後桜町女帝の即位(御年24歳)
8歳の幼女と24歳の成人とでは、その即位儀は異なることが少なくなかった。
後桜町は伝統に則り、当時内蔵寮が保管していた「古物」の女帝装束が運び出されており、これは「礼服御覧」と呼ばれる儀式で、新帝即位にあたり、事前の男帝と女帝の礼服を内覧することである。
智子内親王による女帝即位であるから、男帝の装束は返され、残された女帝の礼服を着装する予定であった。
この予定された女帝の礼服は、古代最後の女帝である孝謙=称徳女帝が即位儀に使用されたものと考えられている。
しかし、称徳女帝の即位以来、使用することのなかった礼服は、そのままでは着用する事ができず、結局は白絹の大袖、小袖その他を新調している。
それらは総じて白を基調としているが、なぜか、「沓」だけは男帝と同じ赤であった。
そして後桜町女帝は、明正女帝が挙行しなかった重要な儀礼すなわち大嘗祭を行っている。
大嘗祭については、1500年に即位した後柏原天皇より以降、後奈良天皇、正親町天皇、後陽成天皇、後水尾天皇、明正女帝、後光明天皇、後西天皇、霊元天皇は挙行できなかった。
何故ならば費用が莫大で、天皇家の権威だけでは、その費用を調達できなかったからである。
さらに、後桜町女帝は、明正女帝の御代にあった院政がしかれることは無く、天皇親政の統治形態となっている。
『日本の女性天皇』荒木敏夫 著(小学館文庫)を参考とする。
第43代 元明 太上天皇(女性)が生きており、
第44代 元正天皇(女性)が在位していた。
元正天皇は、母・元明 太上天皇の内親王である。
その718年、
46代・48代となる孝謙(称徳)天皇が生誕した。
718年から721年までの3年間、
43代の女性天皇、
43代天皇を母とする実娘の44代天皇、
46代・48代の女性天皇となる3人が相見えていたのである。
46代・48代 孝謙(称徳)天皇は、45代 聖武天皇の内親王である。
孝謙(称徳)天皇は阿倍内親王と言った。
阿倍内親王は738年に立太子して皇太子となった。
743年5月5日_____
皇太子となった阿倍内親王は内裏で「五節(田)舞」を舞った。
その場に、
44代 元正 太上天皇と 45代 聖武天皇がいた。
749年_____
45代 聖武天皇の譲位により、
その実娘である皇太子阿倍内親王が即位した。孝謙天皇である
これより前の史実として_____
35代・37代 皇極(斉明)天皇は、天智天皇と天武天皇の実母である。
元明女帝(阿閇内親王) 707年 即位
父 天智天皇
母 蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘
680年 氷高内親王(元正女帝)を出産
683年 珂瑠(軽)親王(文武天皇)を出産
※ 707年 文武天皇 崩御
元明女帝の生母は皇族ではないが天皇として即位している。
推古女帝 「日本書紀」より
推古 2年 三宝興隆を命ずる詔を発令
推古11年 朝廷に中国風の儀式を取り入れるために大楯や靱を作らせる
推古13年 元興寺を造らせる
推古15年 神祇をあつく祀るように命じる
推古14年 厩戸皇子に勝鬘経などの講説を命じる
推古32年 僧官を定める
① 「日本書紀」によると、「推古天皇の夫・敏達天皇は仏法を信けたまはずして文史を愛みたまふ。」と記されている。
② 敏達天皇は仏教嫌いなこともあり、その在位中には物部守屋の排仏が行われている。
①と②から分かるように、推古女帝が仏教を保護し実践したということは、
推古女帝は亡夫・敏達天皇の遺志を継ぐための女帝ではなく、
自分の考えと意思にもとづいて政治を行った見識高い女帝であることが分かってくる。
推古女帝は蘇我氏の傀儡という説もあるが、
推古32年、推古女帝は大臣・蘇我馬子からの「葛城県地域の支配要求の上奏」を「その地は大王家(天皇家)の土地であるゆえ臣下に与えるわけにはゆかぬ。」として断固拒否していることを見ると、推古女帝は傀儡ではなかったということが分かってくる。
第41代 持統天皇
父 天智天皇
母 蘇我遠智娘
夫 天武天皇(天智天皇の同母弟)
夫である天武天皇の崩御後、称制天皇として、次の天皇として草壁皇子が即位するまで、政務を執った。
持統天皇
697年 第42代 文武天皇に譲位して最初の太上天皇を称する
第44代 元正天皇
父 草壁皇子
母 第43代 元明天皇
722年 良田百万町歩の開墾を命じる
723年 「三世一身の法」を定めて土地私有を認める
在位中、
・ 「養老律令」「日本書紀」が成立
・ 大隅隼人や陸奥蝦夷との抗争が激化する
第48代 称徳女帝 (第46代 孝謙女帝)
764年 孝謙上皇が称徳女帝として重祚
769年 習宜阿曽麻呂が道鏡を皇位につければ、「天下泰平ならん」という宇佐八幡の神託を上奏する。
称徳女帝は道鏡を寵愛していた(ようである)が、和気清麻呂を宇佐に遣わして神意を確かめさせたところ、「天つ日嗣ぎは必ず皇儲を立てよ」と託宣あり。
称徳女帝は詔を発し、「道鏡には皇位を継がせない。」と宣言する。
※ 称徳女帝と道鏡との関係については平成の今現在に至るまで面白おかしく語られているが、最終的に称徳女帝は道鏡を皇位から完全に遠ざけた。
このことから、称徳女帝は恋に溺れる女性などではなく、皇位を狙う輩を詔によって完全に排除した賢帝であると言える。
これからもどうぞご教示よろしくお願いいたします。
さて、私め、少々わき道にそれたテーマで恐縮ですが。
日本の女性天皇、現在の皇統譜では8名10代、ということになっています。
でも、実はもうちょっといらっしゃったかもしれない、というお話を少し。
お一方は神功皇后。
第14代天皇仲哀天皇の皇后であり、第15代応神天皇の母親、といわれているお方です。
古事記では「息長帯比売(おきながたらしひめ)」という名前になっています。
三韓を攻めるようにという神様の信託を無視したために神罰が下って亡くなった仲哀天皇にかわって朝鮮半島に攻め入ったという勇ましい伝説が古事記などに記されています。明治以前の史書ではこの方を15代天皇と認めたものも結構あったとか。
中国の元代の史書「宋史」も、神功皇后を「天皇」として記録しているようです。
征伐から帰国後は皇位を狙う仲哀天皇の別腹の息子たち(香坂王・忍熊王)を倒圧し、60年以上も応神天皇の替りに政治をとっていたと記紀に記されています。年数などそのまま鵜呑みにできませんが、当時は摂政という定義もはっきりなかった時代。これだけ長期間政権をとっていれば、当時の人々もこの方を天皇的な存在として認識していたのではないでしょうか。
三韓征伐の話を事実ではないとし、皇后の実在そのものも疑問視する研究者もいるようですが、古事記や日本書紀などでは、欠史八代といわれる初期の男性天皇方などよりも、ずっと豊かなエピソードが存在しており、なんとも想像力をかきたてられるご存在なのです。
実は仲哀天皇と応神天皇は本当に親子なのかという疑問も歴史研究家の間で渦巻いています。
仲哀天皇の死後から応神天皇の誕生まで一年以上と時間が空きすぎているためです。
妊娠中の神功皇后がおなかに石を巻いて出産を遅らせ、三韓征伐から帰国後出産したというかなり無理めなお話が古事記にあります。
ひょっとすると王朝交代があったのではないかと。
もしかして皇統は仲哀天皇でいったん途切れ、神功皇后(天皇)からあらたな皇統が女系でスタートしたのかも…なーんて想像すると、男系男子派から矢が飛んできそうなのでこのへんにしておきますねw
明治時代はお札にも印刷されたほどの人気だったとか。
戦前・戦中の小学生の教科書などに神功皇后の三韓征伐の話はよく記載され、日本の韓国併合の正当化に利用されたようです。
そのせいか戦後はちょっとタブー視されるようになっちゃったんでしょうか、専門的な研究もやや少ないようですが、中々侮れない存在感をお持ちの方と言えるのではないでしょうか。
父 第115代 桜町天皇
母 藤原舎子
1762年 桃園天皇の崩御により践祚
1763年 即位
在位中に「宝暦事件」より重大な「明和事件」が発生するも、後桜町女帝には無関係であった。
※ 明和事件により、あまりにも過激すぎる尊皇思想を主張し続けた山県大弐が処刑され、竹内敬持は遠流となった。
後桜町女帝は何ら関係しておらず。
後桜町女帝は大嘗祭を行い親政をし、上皇(院)となっては、幕府からも朝廷からも軽んじられていた第119代の光格天皇を陰に日向に補佐し盛り立てた、賢帝(院)と言える。
「後桜町院辰記」「禁中年中の事」「古今伝授の御記」など日記、記録など多岐多数にわたり記された。
皇后 (※ 皇后は「大統譜」に記載される)
太皇太后 (天皇の祖母)
皇太后 (天皇の母)
親王 (天皇の息子とその息子)
内親王 (天皇の娘と天皇の息子の娘)
王 (天皇の息子の息子の息子)
王妃 (王の妻)
女王 (王と同格の女子)
※ 皇族は養子縁組を禁止されている
※ 女性皇族は“平民と”結婚すると皇族としての身分を失い、皇統譜から外されて、平民となる
手白香皇女は、皇后ではなく女帝だったという説あり
第25代 武烈天皇 (仁賢天皇2年?に誕生)が子女なく崩御した後、継体天皇が第26代天皇となった。
継体天皇、名を男大述王(袁本杼命)、または彦太尊という。
男大述王は57歳の時に第26代天皇として即位されるよう要請され、
即位する前に、第24代 仁賢天皇の皇女にして、第25代 武烈天皇の妹(手白香皇女)と婚姻を結び皇后とした。
「古事記」によると、伊波礼の玉穂宮(磐余玉穂宮)で天下を治めていたとある。
「日本書紀」によると
継体元年正月甲申条、継体天皇は河内の樟葉宮に迎えらる、
継体5年 都を山背筒城に遷す
継体20年 磐余玉穂宮に遷る
当時、統治機能があったのは磐余玉穂宮であるとすれば、そこにいたのは誰であったのか。
継体天皇の皇后である手白香皇女であり、その手白香皇女が女帝として統治していたと考えられるのである。
第29代 欽明天皇 (継体天皇3年(509年?)誕生)
父 第26代 継体天皇
母 手白香皇后
第29代 欽明天皇には、異母兄である第27代 安閑天皇、第28代 宣化天皇がいる。
安閑天皇に子女なく、宣化天皇には皇子がいたのであるが、手白香皇后が生んだ皇子が欽明天皇として即位した。
このことから、継体天皇とは名ばかりであり、ゆえに宣化天皇の子女には皇位継承権が無かった。
実際には手白香が女帝であるからこそ統治し、その皇子である欽明天皇が即位した。
これが、手白香は皇后ではなく手白香女帝であるという説の所以である。
岩井克己の酷い東宮家バッシング記事を載せ続けた朝日が、「え、突然こんなまともな記事を」と驚く内容です。
公平に学術的に歴史を見た場合、男系男子が絶対的なものではなかった。
女帝は「女性だから」という理由で中継ぎにされたわけでない。その時の状況でそうなっただけ。
男子が継ぐのが当然の風潮になったのは、中国から男子優先の思想が入ってきたから。
日本の伝統を守るというなら、古代日本は女性優位だったのです。
男系男子派というのは、やはり男性が上でありたいという願望で、歴史の中の都合の良い部分だけを取り上げているにすぎません。
男系男子が立法化されたのは、たかだか百数十年前。側室が認められていた時代です。
もはや行き詰っています。
現代で、女性で、「側室を認めろ」なんてトンデモ発言をしている人がいます。
ではお世継ぎを産んだ側室は、新年の挨拶にバルコニーに並ぶのですか。お后より上位に。
皇室カレンダーにも写るのですか。
それとも側室は陰の存在として、一生日陰で暮らすのですか? 我が子を自分で育てることも無く。
考えただけで荒唐無稽です。
★今も昔も日本人は嘘が嫌いだから、無い事は記録しなかった。
★まだ、天皇制が流動的で、豪族、氏族の駆け引きや戦いで、大王(天皇)が空位であったり、または複数の大王(天皇)が同時に存在したりして、正統な大王(天皇)の政治空白時期がしばしばあった。
★文字記録が残される時代になると、男尊女卑の中華文明の影響を受けて、女帝の存在を、皇后、天皇の姉妹、娘などに置き換えて記録した。
…などと色々空想してみました。…遺伝子解析の無い時代、血脈の正統性は、誰が父親かよりも、どの母親から産まれたかが、重要だったと思います。
もうお一方は飯豊青皇女。(古事記では飯豊王)
この方も古事記、日本書紀の両方で、22代清寧天皇と23代顕宗天皇の間の一時期執政された旨の記録があります。
話は21代雄略天皇の時代にさかのぼります。
粗暴な方であったという雄略天皇は多くのライバル皇族を粛清していました。
しかし雄略天皇のあとを継いだ22代清寧天皇は后妃を立てず、子供がいませんでしたので後継者をどうするかが問題になってしまいました。
そこで立てられたのがこの飯豊青皇女。履中天皇の孫(若しくは娘)に当たります。
雄略天皇に殺された皇族の一人である市辺押磐皇子、その息子たちで身分を隠して播磨国に逃れていた2人の皇子の億計(オケ)王(24代仁賢天皇)と袁祁(ヲケ)王(23代顕宗天皇)が見つかるまで忍海の角刺宮(現在の奈良県葛城市)で政治を行ったという記録があります。(古事記では飯豊青皇女は市辺押磐皇子の妹で、オケ、ヲケ両皇子から見たら叔母、日本書紀では両皇子の姉とされています。)
古事記では清寧天皇の死後彼女が政権をとってその後二人の王子を探し出した、一方日本書紀では清寧天皇在位中にすでに両皇子が発見されていたが清寧の死後、両皇子がお互い譲り合って中々即位しなかったため、代わりに飯豊青皇女が崩御するまで政治を執っていたという風に、若干事実の順序に違いがあるものの、飯豊青皇女が天皇的な役割を果たしたことでは一致しています。
飯豊青皇女には天皇にしか使われない「尊」の尊称、その他その住まいには「宮」、その死には「崩御」という言葉が記紀で使われるなど、限りなく天皇的な扱いの記述になっています。
また、その墓は「陵」とされ、これも多くは天皇皇后のそれに使われる表現です。
宮内庁書陵部の資料にも「飯豊天皇」の名で埴口丘陵がその陵として記載されているようです。
古事記の下巻には仁徳天皇から推古天皇までの記述があるのですが、下巻のはじめに「19天皇」と記されています。
現在では仁徳~推古まで天皇と定められているのは18名。古事記は飯豊青皇女も天皇として数えていたのではないかと思われています。
平安時代に編纂された史書「扶桑略記」にも第24代天皇と記されています。
参考文献
「古事記なるほど謎解き100話」瀧音能之著 東京堂出版
「眠れないほど面白い『古事記』」 由良弥生著 三笠書房
「日本の古代王朝をめぐる101の論点」 新人物往来社編
ウィキペディア 「飯豊青皇女」
残念ながら天皇的お立場になって政治を行ったというのではないですが、日本史を紐解くと皇位継承候補としてお名前が挙がった女性皇族がさらに幾人かいらっしゃるようです。
○春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)
第27代天皇だった安閑天皇の皇后。父は第24代仁賢天皇(オケ・ヲケ王子のお兄さんのほう)。
傍系天皇として即位した大26代継体天皇の皇后となった手白香皇女とは異母姉妹となる血筋正しい方です。
日本書紀に、第29代欽明天皇が即位する前、欽明が自分はまだ若輩だからと言ってこの方を天皇に推したという記述があるようです。
現在、初の女性天皇と認定されている推古天皇が即位する以前の話。もし春日山田皇女が固辞しなければこの方が初の女帝になるところでした。飯豊王や神功皇后の話があざやかにまだ人々の記憶にあって、女性天皇がたつことに当時の人々は抵抗感がなかったかもしれません。
欽明天皇即位の年が史書によって異なることや、継体天皇が亡くなったときに百済の史書が「日本の天皇、太子、皇子、ともに薨ず」(継体天皇とその子供の安閑,宣化のことか?)などとあったことから継体天皇の死後、継承に何らかの混乱が起きたのではないか、とする学説もあります。ちなみに安閑、宣化は継体天皇が即位前に地方豪族の娘とのあいだにできた子供で、手白香皇女との子供が欽明天皇となります(手白香は皇后だったので嫡子は欽明)。安閑&宣化vs欽明という対立の構造があったのかもしれません。
私の想像ですが、欽明の前に春日山田皇女が一瞬候補に上がったのも、どちら側とも縁がある彼女に即位してもらって混乱収集するという思惑があったのかもしれません。結局は手白香皇女の息子である欽明天皇が即位し、彼の血筋で皇統は続いていきました。
参考文献
「日本の古代王朝をめぐる101の論点」第4章継体王朝10の論点
新人物往来社編
「シリーズ日本古代史②ヤマト王権」 吉村武彦著 岩波新書
○倭姫王 (やまとひめのおおきみ)
日本の古代史で、弟皇子が兄天皇の子を制圧し皇位簒奪したということで有名な「壬申の乱」。
こわいですね~、今もどっかで似たような話が…、あ、いえ、まあとにかく。
この乱の前夜、病床にあった天智天皇を見舞った大海人皇子(後の天武天皇)。
彼は天皇の弟でしたが当時皇太子的立場にいました。
後をよろしく頼むと天智天皇は弟に言うのですが、それに対する大海人皇子の回答がちょっと興味深い。
「自分も病を得ているので出家する。あとは(天智の)皇后(倭姫王)を天皇に立て、(天智天皇の息子の)大友皇子に政治を任せるとよいでしょう。」と言ったのです。
このあとすぐに壬申の乱を起こしているので、大海人皇子がこれをどこまで本気で言ったのかはわかりませんが、もうすでに二名の女帝が出現していた後の当時の人の感覚では女性天皇擁立が全く不自然ではなかったことわかる言葉ですね。
倭姫王(生没年不詳)は、飛鳥時代の皇族。舒明天皇の第一皇子・古人大兄皇子の子供という血筋の方です。残念ながらお子様はなく、大友皇子は彼女の子供ではありません。
現在の学会では彼女は結局即位しなかったというのが定説になっていますが、戦前は倭姫王の称制もあったのではないかという学説も出てきたらしいです。
参考文献
「日本の古代王朝をめぐる101の論点」第七章壬申の乱10の論点
新人物往来社編
○吉備内親王(きびないしんのう)
第45代聖武天皇の時代に起きた「長屋王の変」。
古代史好きの方はこの事件のこともよくご存知でしょう。父は天武天皇の子の高市皇子、母は天智天皇の娘の御名部皇女の子供で、血筋正しい皇族だった長屋王。財力もあり、左大臣にまで上りつめていましたが藤原家の謀略で濡れ衣を着せられ死に追いやられました。
その長屋王の正室だったのがこの吉備内親王という方です。
聖武天皇の子基皇子が幼くして死んだ時に長屋王が左道(呪詛)を行ったという密告がなされ、わずか数日のうちに長屋王は攻め込まれ死に追いやられます。
(数年後その密告者が、あれは濡れ衣だったと漏らし、長屋王の臣下だった者に殺されるという事件が後に起こっています。しかしその臣下はお咎めなしの処分となりました)
この事件で長屋王のみならずなんと何の罪もない吉備内親王と二人の間のお子様方まで自死においやられるという結果になりました。
実はこの吉備内親王という方、長屋王以上にお血筋がよいのです。
父親は天武天皇の子供の草壁皇子。母親は元明天皇。兄弟が元正天皇に文武天皇と、ご家族中天皇だらけというサラブレッド。長屋王と吉備の内親王の子供は、長屋王だけを基準にすると天皇から数えて三世王とかぞえられますが、実際は吉備内親王の血筋を基準に二世王と扱われたようです。女系のほうの血筋も当時はちゃんと認められていた例ですね。
お二人のお子様はもちろん、吉備内親王自身も皇位についてもおかしくないお立場でした。
藤原家の子女の光明子を皇后に立てるのに吉備内親王とそのお子様はライバル視され、藤原家に邪魔者扱いにされ、まとめて粛清されたのでは、という研究者もいるほどなのです。長屋王の側室でありながら藤原家出身の女性にはこの冤罪事件で何の累も及ばなかったそうです。
それにしても、お血筋がよすぎるゆえに罪もないのに粛清されてしまうなんて恐ろしい時代だったのですね…、
え?現在も?何の罪もないお血筋正しい内親王様がいわれないデマをふかれて苦しめられているって?はっ、ひいっ、そういえば…!
参考文献
「日本の古代王朝をめぐる101の論点」第9章藤原王朝10の論点
新人物往来社編
「古代日本裏面史 女帝」梅澤恵美子著 ポプラ社
○後白河法皇の姉 暲子内親王(しょうし/あきこないしんのう)(八条院)
第74代鳥羽天皇の皇女。
時代は下って院政真っ盛りの平安時代。
第76代近衛天皇が若くして亡くなった後、後継者問題が浮上しました。そのとき、候補の一人、雅仁親王は今様(今で言うところのJ-popみたいなもの?)ばかりにはまって暗愚だとされ、この 暲子内親王のほうが聡明だからという理由で候補となりました。
結局 雅仁親王(後の後白河法皇)に決定したのですが、男性天皇が主流になっていた当時でさえ、[無能の男子より優秀な女子のほうがまし」という話が出てきた、というのは興味深いですね。
まだ天皇が執政していた当時は血筋と同時にその資質も問われることが多かったようです。
暲子内親王は生涯独身で通しましたが、二条天皇を始め多くの皇族を養育したそうです。鳥羽上皇の資産を引き継ぎ、政治にも大きな影響力を持ち続けたようです。
しかし暗愚だと思われていた雅仁親王ものちに後白河法皇となり、平家、源氏の世にたくみに皇室を運営し、したたかに乗り切ったのですから、人ってわからないものですね。
参考文献
ウィキペディア 「暲子内親王」「後白河法皇」
でも、私はそうは思いません。現代の神社仏閣は来る者は拒まずで、誰でも参拝できます。しかし、神社や寺院が作られた最初の頃は、あくまでも、その氏族の先祖を祭る社であり、その氏族の後生を祈る寺院でした。関係の無い人間が参拝出来る場所ではありません。それこそ、マイ ゴッドであったと思います。時代が下るに連れて、神仏習合が進み、スサノヲ系は蘇民将来とか午頭天王とか、インドなどの神と一緒になり、どの氏族の神であるかより、どんなご利益があるかが重要になります。そんな流れの中で、伊勢神宮が今日まで天皇家の皇祖神を祭る社として続いて来たのは、必要以上に大衆化して、神としての清浄さを失わないように、畿内の中でもあえて不便な所に社が定められたと想像しています。こんな考えはいかがでしょうか?
2018/07/24 13:31
http://news.nicovideo.jp/watch/nw3700291
女性の天皇と聞くと、 女性皇族に皇位継承権が認められていない現代ではどうしても「皇位継承者不在のための中継ぎ」という印象を持たれがちです。
しかし推古天皇についての記事からも分かるように、かつて実際に即位した女帝は決して「中継ぎ」という扱いではありませんでした。それどころか、中には「その後の日本という国と、皇室制度の基礎を作った」と言っても 過言ではない女帝が存在したのです。
●持統天皇のまたの名は「高天原廣野姫天皇」
『小倉百人一首』には8人の天皇の歌が取り上げられていますが、その中に唯一取り上げられた女帝が、トップバッターの天智天皇の娘である第41代・持統天皇です。『日本書紀』によると、持統天皇は「高天原廣野姫天皇(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)」という別名も持っていました。
高天原といえば、太陽神・天照大神が治め、天津神がおられるという伝説の場所。天照大神が天岩屋(あまのいわや)に隠れ、世界が真っ暗になったことで有名な「岩戸隠れ伝説」の舞台となったのも、この場所でした。
持統天皇は国が民衆を統治する「公民制」を定め、「飛鳥浄御原令」の中で「日本」という国号を正式に制定し、「天皇」「皇后」「皇太子」も法的に定めました。
また今上天皇の譲位で耳にする機会の増えた「太上天皇(上皇)」も、退位後に孫で即位時15歳だった文武天皇を補佐するため、政治の表舞台に立ち続けた持統天皇が史上初でした。これにより、それまでの天皇の即位のための年齢や経験などの条件は緩和され、若い天皇も即位することが可能となったのです。
女帝・持統天皇には、まさに太陽神と重なるイメージがあったということなのでしょう。「日本という国」を確立したのは、古代の女帝だったのです。
●百人一首に取り上げられた唯一の女帝の歌
そんな持統天皇御製の歌は、当時の都があった大和盆地の夏の訪れを、爽やかに詠んだ歌です。
春過ぎて 夏来にけらし 白妙(しろたえ)の 衣ほすてふ 天の香具山
(春がいつしか過ぎ去って、夏が来たらしい。白い衣を干すという言い伝えのある大和三山の1つ「天の香具山」に、白い着物が干してある)
この歌の出典は『新古今集』の巻3・夏歌ですが、『万葉集』1巻にはその元となった歌が取り上げられています。
春過ぎて 夏来たるらし 白妙の 衣ほしたり 天の香具山
ちなみに、『万葉集』に取り上げられた歌が『新古今集』でこのように変化した理由は、『万葉集』の原歌が音に漢字をあてた「万葉仮名」で書かれていたためです。
爽やかな初夏の訪れを詠んだこの歌には、持統女帝の「いよいよ私の時代がきた!」という新時代への決意も秘められていたかも知れませんね。
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※2日前にニコニコニュースで出た記事ですが、国民の十分な議論を経ないままの「秋篠宮立皇嗣礼」が物議を醸している中、このようなニュースが出ることは画期的だと思います。