心の底から戦争をなくしたいと考えている人は靖国神社など必要としない。
心の底から過去の過ちを繰り返さないと考えている人は靖国神社など必要としない。
心の底から強気をくじき弱気を助けるべきと考えている人は靖国神社など必要としない。
心の底から金や権力よりも大切なのは命だと考えている人は靖国神社など必要としない。
神社など必要ない。
war crime(戦争犯罪)で検索
https://www.google.co.jp/search?q=war+crime&safe=off&hl=ja&site=webhp&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ei=bRnIUpDTC4jhkAXF7IGwCg&ved=0CAcQ_AUoAQ&biw=1411&bih=922
―転載―
明日に向けて(776)安倍首相の靖国参拝強行を批判する
http://blog.goo.ne.jp/tomorrow_2011/e/6d978d00f11d19df86ffd24e9cf5fb18
2013年12月30日 23時00分00秒 | 明日に向けて(701)~(800)
守田です。(20131230 23:00)
年末の諸事に奔走していて、明日に向けての更新が滞ってしまいました。申し訳ありません。
小泉原発ゼロ宣言の背景にある自民党政治の変容を論じていましたが、ある意味ではそれを象徴するような安倍首相の靖国参拝の強行と、中国、韓国政府の猛反発、アメリカ政府の不快感、EUやユダヤ人団体の批判などが行われました。
もちろん僕も安倍首相の靖国参拝強行を許せません。しかしこの問題をめぐっては賛否両論を含めて、かなり論理が錯綜していることを感じています。歴史的経緯を追って考えている論考が少ないのが残念です。
なぜ首相の靖国参拝は認められないのか。論点を整理しておきたいと思います。
まず中国や韓国が非常に強い抗議を行っているのは、靖国神社に、第二次世界大戦後の東京裁判でA級戦犯とされた人々が合祀されているからです。合祀とは、申請のあった人物を靖国神社側が認めて「魂を招き」、それまで祀られていた魂と一緒に祀るということです。
これに対して、中国が激しく批判するのは、中国がA級戦犯を、日本の進路を誤らせて中国侵略戦争を起こし、中国民衆、のみならず日本民衆をも悲惨な戦火の中に巻き込んだと捉えてきたからです。この点は、日本民衆にとって極めて重要なポイントながらほとんど論じられていません。
中国は日本との国交回復のときに、戦争における対日賠償請求を国家としては自己放棄してくれているのです。なぜか。先にも述べたごとく、中国は大多数の日本民衆をも軍国主義者の犠牲者と捉えたからです。中国の賠償請求が、犠牲者である日本民衆の上にのしかかることをよしとしなかったのです。これは当時の中国政府が、世界の民衆の利害は一つであるという「国際主義」の立場をとっていたことに影響されたものです。残念ながら現在の中国政府はこの素晴らしい観点をまったく継承していません。
私たちにとって考えなければならないのは、A級戦犯は、「国のために命を捧げた」のではなく、国の進路をあやまり、多くの人々に命を捧げることを強制した人々であるということです。だから中国がA級戦犯合祀を認めないと宣言したのは、私たち日本の民衆の立場にも合致するものです。こうした人々を祀る場に日本の首相が赴くことが許されてよいはずがないのです。
これに対して「右翼」の人々は、繰り返し、東京裁判は戦勝国の側が行った一方的なものであるから無効だと主張しています。安倍首相も本心はそちらの側にあるのでしょう。アメリカはこれに反発して「失望」を示しているわけですが、しかしだから安倍首相の参拝は国益を損ねたという批判は僕は妥当だとは思えません。
東京裁判は、確かに戦勝国側の裁判です。しかしそこには日本軍のむごい侵略を受けたアジア民衆の怒り、苦しみ、嘆きが強く反映されており、単なる戦勝国の側の一方的な裁きだったのではありません。その点で、A級戦犯らが裁かれたことには社会的正義があるのです。
東京裁判に決定的に欠けていたのは、むしろ戦勝国の側の戦争犯罪への裁きです。アメリカによる日本全土の空襲、原爆投下、沖縄上陸作戦の強行による民間人の大量虐殺が裁かれていないことこそ、東京裁判の欠陥なのです。
しかし日本政府も右翼勢力も、ただの一度もこの点を批判などしてきませんでした。その意味で、東京裁判の不当性を批判してきたなどとはまったく言えないのです。右翼など「愛国」といいながら、日本に住まう人々がこれほど酷く殺された歴史を一度も批判してこなかったことが僕には理解できません。というよりこの人たちの国を「愛する」気持ちに少しも誠意など感じられないのです。この点で、右翼による東京裁判批判はまったく的を得ていないことをおさえる必要があります。
一方で問題にしなければならないのは、靖国神社にA級戦犯が祀られていなければそれで良いのかという点です。この点で、朝日新聞や、毎日新聞は、昭和天皇がA級戦犯合祀に非常に強い不快感を示し、合祀後は一度も参拝をしなかったこと。現天皇も参拝を行っていないことを紹介しています。天皇ですらが参拝などする気になれなかったのがA級戦犯であることを紹介することから、安倍首相の参拝を批判していることになります。
これは正しい批判だとは僕には全く思えまえん。そうではなく、靖国神社という「国家装置」そのものが、日本民衆を戦争や国策に駆り立てるものであったこと、このことが批判されなければならないのです。
そもそも靖国神社は本当に「国のために死んだ人」を祀っているのでしょうか。断じて否。もともと天皇のために、より正確には天皇を担いだ時の政権のために、命を投げ出した人々、ないし投げ出させられた人々を祀っているのでしかないのです。
多くの人々が知らないのは、例えば幕末で、幕府の側についた新撰組をはじめ、戊辰戦争で敗れていった側の藩兵などはすべて除外されている点です。西南の役をおこした西郷隆盛もそうです。
さらに第二次世界大戦を前にして、この国の進路をあやまらせないために、戦争に果敢に反対し、特高警察につかまって監獄の露と消えた人々なども入っていません。政府の戦争政策を積極的にせよ消極的にせよ受け入れ、侵略戦争に駆り出されていった人々のみが祀られているのです。これで「国のため」と言えるでしょうか。
しかも戦場に送られた兵士たちは本当に悲惨でした。もともと日本軍に人権意識が乏しく、暴力的虐待が構造化されているとともに、戦場における作戦指揮が極めて雑で、軍事的に意味がなく、徒労としか呼べないような多くの作戦が強行されたからです。
これには枚挙のいとまがありませんが、兵士たちは本当に消耗品のように扱われ、米軍に次々と酷く殺されたり、飢餓地獄の中を彷徨ったりしました。その意味で大半が国家政策の犠牲者なのです。
もちろん犠牲者である彼らの多くが、自らの受けた構造的虐待を、アジア民衆の側に向けていったこと、それこそ鬼のようになって、何千万ともいわれる命を奪ったこともけして忘れてはなりません。僕自身は、犠牲者である彼らの大きな罪を、背負っていきいたい、そうすることで犠牲になった人々の魂を安らげたいと思いますが、多くの兵士たちが、アジアの人々にとって自分たちの肉親を虐殺した「下手人」であったことはけして忘れてはならない事実です。
これらの人々を、「国のために殉じた英霊」としてしまってよいのでしょうか。絶対にいけません。それでは、これらの人々に犠牲を強い、さらには鬼へと転化させていった軍部や、戦争遂行者たちの罪がまったく消えてしまいます。
実は安倍首相が本当に求めるのもこの点にあります。自らの祖父である岸信介氏をはじめ、戦前の指導者が日本とアジアの民衆に対して犯した罪を、己のアイデンティティの問題としても永久に消し去りたいのでしょう。そしてそれこそが最も許されないことです。
私たちは、靖国に合祀されている人々を、国のあやまった政策の犠牲者としてとらえ、追悼していくことこそが問われています。英霊と呼ばれてこれらの人は満足でしょうか。けしれそんなことはない。あれほどひどい境遇に自分たちを陥れた社会構造にこそメスを入れてほしいと願っていると僕は思います。
そしてその中に僕は、先にも述べたように、私たちがその人々の罪を背負うことが含まれていると思います。罪を私たちが償うことで、罪を犯したまま亡くなった人々の魂を救いたいし、ぜひ多くの人々にそうした優しさを持って欲しいと思います。もちろんその優しさは、殺されたアジアの民衆の怨嗟を、片時も忘れるものであってはなりません。
その意味で、靖国神社は廃止されなければなりません。これにかえて、国家的な「追悼と反省」の場を作り出すべきです。そこに私たちはこう書きこむべきです。「安らかにお眠りください。二度と過ちは起こしません。あなたたちの受けた被害に謝罪します。あなたたちの罪を私たちが償います」と。
安倍首相は、本当に戦争の犠牲になった人々のことなど考えていません。アジアの民衆の痛みなど、なにほどのものとも思っていない。それだけではないのです。戦争に駆り出された日本軍兵士たちの苦しみ、悲しみ、その中で犯した罪への痛みもなにもない。兵士たちへの思いやりなどほんのかけらも感じられません。
これらの観点から、アジアと日本の戦争の中で亡くなった人々の魂を踏みにじる安倍首相の靖国参拝強行を僕は心の底から批判します。
「積極的平和主義」などとまたも大嘘をついて平和の心を踏みにじるこの首相をけして許してはなりません。本当の平和のために行動しましょう!
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2014/1/4
人の死を誤魔化すべきじゃない
靖国や人を祭る神社は、もう廃止すべき
戦争の悲惨を伝えるなら、神社などという
曖昧が当たり前なもので、残すべきじゃない
そういう曖昧が人の死を鈍感化させている