少し前の記事ですが、こんなに苦労して書かれたものが埋もれているのはもったいないと思ったので、まとめて転載させてもらいます。
地球生物会議ALIVE HOME > 畜産動物 > 畜産農家で働いて(1) 家畜の悲鳴を聞いてください
http://www.alive-net.net/animalfactory/fact/work/work1.html
畜産農家で働いて(1)
家畜の悲鳴を聞いてください
私たちが牧場と聞いて思い浮かべるのは、草原の中で牛が草を食み、のんびり寝たり歩いている様子のはずである。でももしかしたら、現代の子供の頭に思い浮かぶのは、牛舎の中に繋がれた無表情の疲れた牛の姿かもしれない。
私は、C県のある一軒の酪農家で働いている。意外にもC県には酪農家が多い。数年前までは、北海道に次いで2番目の酪農家の戸数を誇っていた。そんな数の牧場がC県の一体どこに?と、感じる方も多いだろう。実はけっこうな住宅街の中でもその姿はみられるのだ。時代の流れで周りには次々と家が建てられ、昔からその土地でやっていた酪農家の存在は、いつのまにか肩身の狭い存在となっていった。
もちろんそこに草原などなく、遠目から見ればちょっと大きな建物があって中をのぞいて牛がいることにびっくりしてしまうような、住宅街の中にありながら、さほど違和感を感じないような飼い方を牛はされているのだ。
その飼い方は不自然そのもの。経済動物としてしか扱われない牛には、約畳一畳分のスペースしか与えられず、牛は一生のほとんどをそこで過ごすのだ。そこでびっくりするのが、その寝床がゴムマットであるということ。
糞尿をそのマットの上でしてしまえば、ぐちゃぐちゃになったそこは、まるでスケートリンク状態。足元が滑って寝起きすることさえ困難になってしまうのだ。寝起きにさえストレスを感じてしまう現状。問題は他にも山積みだ。
牛は、生まれた瞬間に母牛とはすぐに引き離される。母牛から直接母乳をもらうことなく人間から人工的に作られた代用乳を飲まされ、「大きくなれよ~、早く成長しろよ~」と牛乳をたくさん生産してくれる牛になるように育てられる。
生まれて3カ月もすると、子牛の頭から角が目立ってくるようになる。そうすると、「じゃあそろそろ除角する時期だ」ということで、角がまだ小さいうちに焼きごてなどの方法を用いて角をとってしまうのだ。苦痛を伴わないよう麻酔を施すが、本来あるべきものを取り除いてしまうのは人間の都合でしかない。いざ成長した時に、角は危険で邪魔なものでしかないものだからだ。
2年も経たないうちに人工授精を施された牛は、分娩して、牛舎に繋がれっぱなしの生活をおくるようになる。能力として望ましいのは一年に一産のペースとされる。分娩後、2~3カ月後に再び人工授精され、妊娠しながら乳を搾り取られるということになるのだ。これは牛にとっては大きな負担で、2~3回それが繰り返されれば牛の体はボロボロ。内臓はフル稼働で休む暇もない。疲れきった牛は様々な病気を発生し、能力も限界を迎え、用無しとなった牛は肉として売られて一生を終える。人間でいえばまだ30代くらいの若さだろうか。残念ながら、これが日本にいる牛の現実。
もちろん、このような牛の生態を無視した酪農の在り方を見直そうと、牛を中心とした酪農スタイルを実現させている酪農家も少なくない。しかし、一方では全く逆の大量生産・作業の省力化を目的とした大規模農場のスタイルを実現させる、または、夢見る酪農家も多い。
冒頭で、子供たちにこんな牛の姿が記憶されると言ったが、最近では、生産者と消費者の交流を目的としたイベントを牛乳の販売者側が企画し、それに参加した子供たちが、このような牛を目にしているからだ。そして、大人たちに、この飼い方がもっともであるかのように教えられる。なかには、角焼き体験などと称して除角も体験させたりしている。
子供だけではない。牛について何も知らなければ、大人でさえ間違った知識を植えつけられてしまうことになるのだ。 「でも、かわいそうだけど仕方ないんだよ、経済動物だからね」と言われてしまえば、言われた方は諦めてしまう。私も実際そうだった。北海道で研修生としてはじめて現場を知った時、どんな残酷な現実を目の当たりにしても、経済動物という理由が全てをはぐらかしていた。そして慣れていってしまった。
そんな私も、後にALIVEと出会い、家畜の問題に取り組んでいたことを知り、勇気をもらうことができた。
実際今の仕事をしているから、これで生計を立てている経営者側の言い分も分かるし、動物の苦しみも痛いほどよくわかる。だからいつも矛盾のなかで仕事をしている。
今、こうして家畜の在り方が見直され、問題意識を持っている人がたくさんいるなら、動物たちにも未来が望める。消費者の方は、まず近くに牧場を見つけて足を運んでみたらどうだろうと思う。まず目で確かめてみるのが一番。生産者と世間話をするのもいいと思う。自分の見方が変わる場合もあれば、生産者の方が変わる場合もあるかもしれない。問題を自分に近づければ近づけるほど、視野は広くなる…気がする。小さなことからこつこつと、ではあるが、実は一番大事なことなんじゃないかと私は思う。
畜産農家で働いて(2)
子牛・・だけど、家畜
連載ということで、これからはテーマを決めてわかりやすく話をしていこうと思う。
家畜として産まれた牛の短い一生。今回は子牛を取り上げて話をすすめていこうと思う。
時々テレビなどで、牛の出産シーンが放映される事がある。周りで見守る人々は、「わぁ~産まれた~」「へぇ、すぐ立つんだ~」と声をあげて、生命の誕生に感動し喜ぶ。
いわゆる、微笑ましい光景、生命の力強さ、という意味合いのもとテレビで流されるのだと思う。
しかし、それから親子が一緒に成長していく姿など見たこともない。
一度、某メーカーの牛乳のCMで、草原の中で子牛が母牛のおっぱいをつっつくシーンが流れたが、実際にはそんなことそうそう有り得ない。なぜなら、母牛と子牛は出産後すぐに引き離されるからだ。
母牛は人間同様子供を産んで乳を出すようになる。最初は初乳といって、子牛に免疫がつくように栄養たっぷりの濃度の濃い乳をだす。一週間くらいで他の牛と同じくらいの濃度の乳に戻り、それから毎日毎日乳を搾り取られる生活を送るようになる。
一方子牛は、母を親だと認識できないうちに引き離され、小さな囲いに入れられる。
本来子牛は、野生の本能で産まれてすぐに立ち上がり、母牛の乳を必死に探す。しかし現実となると、母牛の初乳は人間がバケットミルカーという機械で搾り、その初乳を哺乳瓶に入れ替え、人間が飲ませるという、なんとも不可思議なことをやっている。
なぜわざわざそのような手間のかかることをするのかというと、親子がお互いに親子であるという認識を持たれてしまうと人間にとって不都合が生じるからだ。
いざ別れた時にお互いを求めて鳴き叫ばれたら、近所迷惑で苦情が来るし、母牛の乳を憶えてしまった子牛は、哺乳瓶を加えないようになってしまうなど、理由は他にもいろいろあるが、全て人間の都合なのである。
子牛はこうして親を失い、家畜としての運命に翻弄されることとなる。
乳牛をを扱う農家で産まれた子牛はまず、雄か雌かによってこの先の運命が決まる。
雄が生まれた場合、将来的に乳を出さないのだから農家にとっては用無しなのである。だから一般的に、生後2~3週間で売りにだしてしまう。子牛は肥育農家(牛乳生産の農家ではなく牛を肉として売るために育てる肉牛専門の農家)に引き取られ、子牛のうちに去勢され育てられる。ほどよく大きくなった頃に肉として出荷される。
まさに雄牛の一生は短い。
雌が産まれた場合は、将来乳を出せるようになるため人間が世話をして育てていくようになる。
狭い囲いに入れられて、人工哺育で育てられる。人間でもそうだが、やはり抵抗力の弱いうちは風邪をひいたり下痢をしたりしやすいもの。下痢をしないようにと、与える牛乳の量は子牛にとっては十分ではない。決まった時間に決まった量を与えられるのみ。飲みたいときに飲む事はできない。いつもお腹をすかせているので、囲いの柵をしゃぶったりしてしまう。そこで雑菌を体内に取り込み結局下痢をしてしまった
りする・なんとも悪循環である。
大規模な牧場になると、子牛の数も半端じゃない。毎日出産があるというくらいの牧場もある。
子牛専用の囲いがズラーっと並んでいて、そこにズラーっと並ぶ子牛たち。子牛専門の従業員が世話をするわけだが、それだけの数の子牛がいれば目が行き届かないのも現実。体調を崩し、そのまま死んでしまうことも少なくない。でもそういった所だと麻痺してしまうのだろうか。そんなこと日常茶飯事・で片付けられてしまう。
子牛が産まれたーと、心底嬉しく思ったことはない。いつも罪悪感に苛まれる。
でもそんな私の痛みなど、この子たちの運命に比べたら痛みでもなんでもない。
苦しいのはいつだって人間じゃない。悲しいのはいつだって人間じゃない。
人間以下と勝手に位置づけられた動物たちの方。
だからこの子たちを救えるのも、そう位置づけてしまった人間の方。
根本的におかしな方向へと突き進んでしまっているこの業界。今、引き返さないと将来しっぺがえしが来ると思う。
畜産農家で働いて(3)
牛舎も猛暑、牛も夏バテ・・
地球温暖化の影響は、牛・いやいや、動物たちにとっては人間以上に深刻な問題になっているのは目に見えて明らかだ。生態系を崩したり異常な行動を生み出したり、逃げ場のない状況にどんどん追いやられてしまっている。
牛はそもそも暑さに弱い動物。種類によってはそうでないものもいるが、日本で一番目にする白黒の牛、ホルスタイン種は、暑さには非常に弱い。この牛が快適とする温度は15度前後。冬の寒さなど問題ではないのだ。
しかし30度を超える日が連日のようになってしまった日本の夏は、牛にとってまさに過酷なものとなっている。
牛舎の中で牛がどのような状況におかれているか想像していただきたい。
わかりやすく例を出すと、電車のシート(7人がけ)にびっしり7人座って、隣の人とはどうしても肌が触れ合ってしまう。暑いのにクーラーは効かず、大型の換気扇が一日中大きな音で回っている・こんな感じである。
日が遮られているぶん外ほど暑くはないものの、牛同士の体温(38度)からは逃れられない。
よだれを垂らし息は荒く、食欲も減退する。牛の夏バテだ。だからこの時期は、牛の体力低下に伴い事故が多発する。
特に出産。人間でも辛いであろうこの時期の出産は牛にとってもダメージが大きい。
なので、この時期の出産をなるべく避けたい蓄主は、計算して繁殖時期をずらしたりする。牛の事を思ってのことだ。
しかし、そんなことはお構いなしと、私が勤めている牧場の牛乳の出荷先の組合は、とんでもない事を提案した。この暑い時期7、8月に出産させたら補助金のようなものを出しますよ、と言うのだ。
と言うのも、その組合では毎年9、10月になると牛乳不足という事態が起こるのだ。なぜそうなるかというと、牛は産後2~3カ月後に一番乳を出すピークを迎えるわけで、9~10月にそのピークをもってきたいとするなら、 7~8月に出産させなければならないからだ。
逆を言えば、それを生産者側が避けているから9~10月の乳量が減るわけなのだ。
牛を飼ったこともない人間にそんなことを言われるのだから生産者側もたまったもんじゃない。
そんな話に乗るほど生産者も牛に対して手荒な真似はしない。
こういったところでも、生産者側とメーカー側の問題が浮き彫りになる。
この暑さを乗り切るために、繋ぎ飼いの牛舎も様々な対策を行っている。
そんなことするなら、涼しいところに放牧したほうがよっぽど合理的ではないかと思うのだが、もうこの土地で都市酪農を始めてしまった以上、そこから動くことは困難。牛舎の暑さ対策を考えるほかないのだ。
一番普及しているのは、牛舎の天井に大型の換気扇を数台設置して風を送るもの。
あと、最近かなり出回ってきたのが、牛の背中の上に水の通ったパイプを設置し、定期的に霧状の水が牛の背中の上に噴射される仕組みのもの。換気扇の風により、牛の体や寝床がびっしょりに濡れてしまうことはない。
そして、まだまだ普及率はひくいものの、牛舎用のエアコンもあったりする。これは、人間の使うクーラーとは別物で、川の水を上手く利用して空気を冷却させるものだ。このように、牛舎作りの技術はどんどん進歩していて、牛は土からどんどん遠ざかっていくばかり。都市酪農でもこのような技術を導入することで存続は可能となり、後継者のいる牧場はさらに規模を拡大していくだろう。
私が酪農ヘルパーをして、いろいろな牧場をまわっていた頃、後継者がいないから自分の代で終わりだな、なんて言っていた酪農家の方が、後継者のいる牧場に比べて圧倒的に多かった。しかし、酪農家自体の戸数は減ったとしても、牛の数はさほど減らないであろう。一軒の牧場の規模は拡大するばかりで、牛の使い捨て現象が起こり始めるのではないだろうか。
規模を拡大するということは、それだけ経費もかかりリスクも高い。乳量をたくさん搾らないと採算が合わないのだ。牛は若いうちに出来るだけお産させてたくさん搾る。大体3回くらいお産したらもう廃用・。肉として処分してしまう。そして新しい牛、新しい牛・と、牛が使い捨てされるのだ。
品種改良や、牛舎・搾乳機の技術進歩の中で、こういった現象をどうしたら食い止められるのか・。
まず一人でも多くの人が現実を知り、考えることから、解決への一歩は踏み出されると、心から思う。
(写真:と畜場で柵につながれた牛たち)
畜産農家で働いて(4)
トラックに積まれた牛の行方・・
皆さんは時々、国道や高速道路を走行中に、牛を乗せたトラックを目にすることがあるのではないだろうか。
あの牛はどこからどこへ行くのだろう。 きっとそんな疑問が頭をよぎると思う。
どこからどこへ・、そしてどんなふうに・。長距離なのか、立ちっぱなしなのか、水は飲めるのか、考えたら気になって仕方がない。
●牛を運ぶ人々:家畜商
牛を運ぶのは、家畜商という家畜を売買できる資格を持った人たちで、畜主ではない。私は以前、北海道で酪農研修していた頃、家畜商の方に質問してみたことがある。
「この牛たちはどうしてこんなにトラックいっぱいに積み込まれるのですか?」の問いに、「運転中のゆれやブレーキで、牛が転倒しないようにあえて隙間をつくらないんだ。」と答えた。
「 でもこの牛たちはここから遠くへ運ばれるんですよね?ずっと立ちっぱなしで疲れないのでしょうか。」
「そりゃあ牛はいつも寝てる動物だから立ちっぱなしは疲れるさ。だから長距離で移動する場合は、牛の胴体にベルトを通して、上から吊るすようなかたちにしておくんだ。足の力が抜けても支えられるようにね。」
「じゃあ水は?水はどうやって飲んでるんですか。」
「水はね、僕なんかはガソリンスタンドで飲ませたりするんだよ。契約しておいてね、そこで水をもらえるようにしてあるのさ。」
私はこのことを聞いて、その時は単純にホッとしてしまった。
●牛の一時預かり:育成牧場
しかし、そもそもどうして牛が長距離、移動する必要があるのか。
それにはいくつか理由がある。
一つは、生後6ヶ月の牛が、一時的に育成牧場へ預けられるためだ。育成牧場とは、生後6ヶ月の牛を、出産する数ヶ月前までの間管理しますよ、という育成専門の牧場のことである。○○高原観光牧場と名のつく所は育成牧場である場合が多い。あの広大な土地に放牧されて、幸せそうに草を食んでいる姿はなんとも微笑ましい。
しかしあの牛たちは、もともと全国の牧場から一時的に預けられている状態の牛で、期限がくればまた、もとの牧場へ帰ってゆく。関東の牛が、北海道の育成牧場まで預けられるケースも多い。
お金を払ってわざわざ育成牧場に預けるのは、搾乳牛になった時に耐えられるだけの丈夫な体につくりあげておくためだ。草を目一杯食べることによって消化機能をスムーズにしたり、大きく健康な心肺機能をつくったり、繋ぎ飼いになっても耐えられる足腰にしておいたり・・。
育成牧場でのんびり自由に健康的に過ごした後には、繋ぎっぱなしの過酷な労働が待っているというわけだ。
それでも自分の生まれた所へ帰れるのだから、まだいいのかな・・・。
●牛のせり:家畜市場
もう一つの長距離輸送は、牛のお引っ越しだ。畜主に、売ると判断された牛は、家畜商によって家畜市場まで運ばれそこでせりにかけられる。
せり落とされた牛は再びトラックに積まれ、せり落とした主の所まで運ばれる。その主の牧場がそこから近ければ牛の引越しは一日で終わるが、例えば北海道の牛を関東や関西、九州の人が買えば、その引越しは2日、時にはそれ以上になる。
そんな長い間の移動は人間でも辛いのに、一日のほとんどが食べるか寝るかの牛には想像を超える辛さだと思う。しかし、移動中の辛さもさることながら、移動後の生活もまた、牛にとっては辛い・・。
環境の変化や餌の変化は、牛には大変なストレスになる。他の牛からのイジメにも合うのだ。
繋ぎで飼われている場合は隣の牛との争いになるが、お互いつながれていて自由に身動きはできないから、睨み合ったり頭突きをしたりしてどちらが強いかを見せ付ける。
フリーストールの牛舎(つながれる事なく、全頭が大きな枠の中で自由に歩き回れる牛舎)では、もろにいじめに合う。この群れの中に入ってくるなと、リーダー格の気の強い牛が攻撃してくる。エサ場に近づけないように突いてきたり、隅っこに追いやったり。数日の間、新入りの牛はこの中で耐え続けなければならない。そのうち、仲間入りを認めてもらってるという事なのだろうか、その群れの中に順応している。
それでも、環境に慣れるまでには相当の時間と体力を要すると思う。
●牛が殺される場所:と畜場
肉になるために殺される運命の牛もまた、トラックで運ばれる。牛が肉になる場所「と畜場」へと運ばれるのだ。
肉になるのは、黒毛の牛だけではない。乳牛として今まで乳を搾られてきたホルスタインも、最後には肉として処分される。このことは意外に知らない人が多く、友達に言った時もびっくり驚いて、「かわいそうだね、搾られてあげくの果てには肉として殺されちゃうんだ。それじゃあ一生を人間に捧げてるんだね・。」と言っていた。まさにその通りである。
搾乳牛としての能力が低下したと畜主に判断されたら、もうその牛は酪農家にとっては用無しの存在で、廃用牛として処分されることになる。
乳量が低下した、繁殖率が悪い、乳質が悪いなどの理由で、別に年老いた牛ばかりが廃用牛になるわけではない。
今の工業的な大規模農場では、牛は3回ほどお産したらもう廃用牛となる。健全な飼いかたをしていればその2倍以上生きられるのに、短い間に牛を酷使する今の酪農スタイルが、牛の体をぼろぼろにしているのだ。
(写真:仕切りの向うには死が…)
畜産農家で働いて(5)
牛たちの最後・と畜場
前回もお話した通り、肉になるのは和牛など肉牛として育てられた牛だけではない。乳牛として生き、働いてきた牛もまた、最終的には肉として出荷される。それはそれとして理解しているものの、トラックに積み込まれる姿を見るのはやはり心苦しい。
「北の国から 遺言」を見たことはあるだろうか。始めの方に、牛をトラックに積み込むシーンがある。あんなふうに、大抵の牛は乗り込むことを嫌がり抵抗する。心苦しいくせに、私はその牛のおしりを押している……。
牛が肉になる場所「と畜(屠畜)場」。私は一度だけと畜場の見学をさせてもらったことがある。牛が殺されて肉になるまでの一連の流れを、説明を受けながら見せてもらった。
トラックで運ばれてきた牛は、まず係留場に降ろされる。私は昼過ぎに見学したので、すでにほとんどの牛が殺され肉になった後だった。
係留場には、残った約20頭の牛たちが静かに自分の最期を待っていた。
その時の牛の瞳は今でも忘れられない。とても澄んでいて、悲しみなのかあきらめなのか…。私と目が合うのだけれど何も求めてこなかった。
しかし朝の現場となると、集中して牛が運ばれてくるため大変な混雑で、とてもこんな光景じゃないらしい。
「そうだろうな…。」想像するに難しくない。
まず係留場で牛の体をホースで洗う。牛を、一頭おさまるくらいの囲いに誘導し、すぐさまスタンガンを眉間に撃ち失神させる。と同時に、囲いの横扉が開き、牛は倒れこむ。ピッシング(ワイヤを挿入して脳・脊髄を破壊する)という作業をほどこしたら、牛の後ろ足を吊り上げ逆さの状態にする。
そのまま後はレールで運ばれていき、流れ作業に入る。放血しながらぶらんぶらんと運ばれていく牛。
牛は失神した状態のまま解体されていくわけだが、ピッシングという作業をしているため痛みなどで暴れることはない。私も見ていて気づかなかったが、いつの間にか死んでいた。
解体作業員が各部所に配置されスピーディーに解体していく。
頭部切断(頭部→BSE検査)→ 蹄切断 → 剥皮 → 内臓摘出(内臓→内臓検査)→
脊髄除去→ 背割り(背骨から電動鋸で左右2つに切断する)→ トリミング(付着物除去)→
枝肉洗浄 → 枝肉検査 → 懸肉室 → 計量 → 急速冷却 → 冷蔵保管 → 出荷
おおまかにいうとこのような流れで牛は肉になる。
牛がスタンガンで失神してから解体が終わるまでは、本当にあっという間だった。あの係留場で見た20頭あまりの牛は、あっという間に牛肉になっていた。見学中、牛に対して人間は冷静に対応していた。手荒な扱いは見受けられなかったし、非常に迅速に対応していたと思う。
私が見学したと畜場では、毎日120頭ほどと畜するという。そこだけで120頭。全国的にみると一日に5000頭にもなるという。ちょっと想像しがたい頭数である。一体どれだけ日本人は肉をたべているのか。そしてどれだけ無駄に捨てているのか。
外食産業がものすごい勢いで浸透しているこの世の中で、食べられることもなく、捨てられている肉の量も半端じゃないだろう。私が接してきた牛たちがどれだけ無駄死にしているのかと思うと悔しくなってしまう。お店で出てくる料理、食卓に並んだ料理が全てで終わってしまわないように、その背景にある過程を子供たちには知ってもらいたい。
こうして牛は肉となり、畜主のもとにはお金がはいる。別に畜主はお金の亡者ではなく、これが畜産業の在り方なのだ。
ただそれを、利益追求の工業的スタイルで牛を使い捨てするのか、牛を中心とした自然派の酪農スタイルで牛を大切に育て存続していくのかによって、家畜に対する扱いに差が生じるわけだ。
私が、酪農の経験も知識も全くない状態で北海道の酪農家にアルバイトしに行ったときは、あまりにむごい現実に「人間やめたい」とまで思ってしまったほどだ。私は、自然も動物も大好きだったし、いわゆる「北海道に憧れて」的なノリで行ってしまったものだから、その理想と現実のあまりのギャップと、アルバイト先のご主人の、牛に対しての虐待ともとれる行為に愕然としてしまって、自分が人間であることに罪の意識を感じるようになってしまった。
きっと、もともと罪悪感は心のどこかにあったのだろう。そして、こういった現実を目の当たりにして、自分の中にあった罪悪感の意味を知ってしまったのだと思う。
畜産農家で働いて(6)
太陽も青い草も知らない牛
牛の上には空ではなく屋根がある
足元には土ではなくマットがある
目の前には草ではなく穀物がある
近代酪農には牛の自由はなく人間の
エゴがある
農業がまるで工業のように成り立っている今の畜産。その不自然さが生み出すものは、利益であり人間の豊かな暮らしのはずであった。
しかしながら現実はどうもそうはいってないようだ。輸入飼料、設備投資、堆肥処理などにより経費はかさむ一方。牛の病気や事故の多発で治療ばかりに時間とお金を費やし、機械が故障すれば修理や交換。多頭数の管理も今やコンピュータの時代だが、生き物相手だから結局そういうわけにもいかない。
そういった問題に年中振り回され、心のゆとりもなく不満ばかりがつのり、乳価が安い政府が悪いと責任をおしつける。その中で一番振り回されているのが結局牛なのだ。
今回はそんな自由を奪われた牛たちの現状についてお話しようと思う。
今はつなぎ飼いの牛舎よりも、牛がある程度自由に動き回れるフリーストールという形の牛舎が主流になってはきているが、まだまだつなぎ飼いの牛舎も多く存在する。
そんな牛の一生を軽く紹介したい。まず生まれ落ちてすぐに母親と引き離され、小さな枠の中で人口哺育によって育てられる。もうその時点で首にヒモを通してその辺りの柱に結び付けておく場合も多い。そのような場合は子牛がヒモに絡まったりして思うように動けなかったり、無理な体勢になってしまったり。人間が気付くまで何時間もそのまま、なんてことになる。
大きくなり動きが活発になり、力も強くなると、親牛と同じように牛舎にしっかりつながれるようになる。
そこからもう一生つなぎっぱなしという自家育成の場合もあれば、前にお話したように育成牧場に預ける場合もある。
時期がきて人工授精を施され妊娠。出産だってつながれたまま行われる。そして乳がでるようになり、搾乳生活が始まる。その最初の出産から4カ月程たつと再び人工授精が施される。
妊娠しながらもお乳をだすのだ。そして出産する2、3カ月前に搾乳をやめる。この期間を乾乳期間といい、次の出産に備える。その間もつながれたまま。
一年に一回ペースの出産は、牛にはかなりの負担となり牛の体をぼろぼろにする。しかしそのペースで出産させることが経営を安定させる手段とされている。
若いうちに出来るだけ搾り、2~3回出産させたら廃用。次の牛、次の牛……。(しかし実際は、こうすることで経営が安定してうまくいっているという話を聞いたことがない)
こうして牛の寿命は人間の勝手な利益主義のもとでどんどん短くなっていく。 牛が一生を過ごすそのスペースというと、一畳分ほどのゴムマットが敷かれているだけだ。
首を両柱にヒモでつながれ、振り向くこともままならないつなぎ方のところもある。自分のした糞尿でゴムマットはぐちゃぐちゃになり、体は汚れ、寝起きするときも滑って転んだり。足を怪我して傷口が膿んで腫れあがり、見るも無残なでこぼこの足になる。
本来ならば草の上を歩くことで自然に削れる蹄も、つながれた牛は伸びっぱなしで、「削蹄師」という蹄を削る専門の方(いわゆる「爪きりやさん」)にお金を払って削ってもらう。年に2回は行うべきと言われているが、畜主によっては経費削減のため廃用にするまで削蹄しないという人もいる。体を支えるはずの蹄が伸びきっていると、踏ん張ることもできないし、寝起きさえ苦痛を伴うものになってしまう。
つながれた牛にとって寝起きが唯一の運動なのに…。
このように、つながれた牛は一生を牛舎の中で過ごす。皮肉にも、太陽を浴び歩くことができたのは、と畜場に運ばれるためのトラックに乗り込むその一瞬だった、ということにもなり得る。
ただ畜主の人みんながみんな非情な人間だと思わないでほしい。つないで飼っていることに違いはないが、その中で牛のストレスをいかに減らせるか、工夫に工夫を重ねている人もいるし、牛舎の外のわずかなスペースを運動場にして昼間は牛を解放する牧場も多い。
確かに人間のエゴを優先させているのがつなぎ飼いであるので、このような形があってはならない環境にしていかなくてはならないのだが。
今、主流となってきているフリーストールの牛舎も、フリー(自由)という名称にまどわされるが、つなぎ飼いとの違いはつながれていないということくらい。ただ50頭以上飼うのであれば、つなぎ飼いの牛舎よりも効率的に作業ができるのがメリットなのかもしれない。しかし自由に動き回れるといっても、限られた囲いの中にたくさんの牛がいるわけで、自由とはほど遠い。
ついこの間、私は北海道にある牧場に少し研修に行ってきた。その牧場は自然と牛と人とを見事に調和させた酪農を実践しているところで、時代の流れにいろいろな批判を浴びながらも、自分と自然と牛の力を信じて一貫して循環型酪農を築いてきたそうだ。時代遅れだと近所の人にも農協にも農林水産省にも見放されたそんな牧場も、今では世界からも認められるほどの素晴らしい牧場になった。
「自然と牛が全てを教えてくれる、私たちはそれに気付き的確にとらえる感性を養っていれば、お金なんかかけなくたって自然とこんな牧場になっていくんだよ。」と牧場のご主人は微笑みながら言ってくれた。
現実にこのような牧場がある。お金をかけて立派な設備を作って高泌乳の牛を飼っていなくたって、きちんと消費者の声に応え生活している牧場がある。
近代酪農と言われているやり方に未来はみえない。酪農家の皆さんも、現状はわかるが、今に振り回されるのではなく、もっと未来をすえて畜産というものを考えていかなければならない。
畜産農家で働いて(7)
私たちの目には見えない牛の苦しみ
私は小さい頃から牛乳が大好きで、よく飲みよく育った。
牛乳パックには草原で草を食む牛の姿が描かれており、安心・安全、何の疑いを持つこともなく飲んでいた。学校でも家庭でも、健康のために飲みなさいと当たり前のようにすすめられていたし。
しかしながらその牛乳を提供してくれている牛の体が農薬と抗生物質漬けだったとは、恥ずかしながらこの業界に入るまで知らず、何も知らない恐さというものを痛感した。
不自然に「改良」された牛の体
改良に改良を重ねられた今の乳牛の体は、乳がたくさん出るようにつくられており、ピーク時には一日に50キロもの乳を出す。100年前に比べれば、その乳量は5倍以上にもなっている。
今でこそこのような牛が当たり前だが、野生だったらどうなのだろう。本によれば「全く自然の状態で自分の子牛だけを育てるためには、年間に百キロも泌乳すれば十分であろう」と書かれていた。年間に百キロ、今では2日でこの量を出してしまう。今の牛は年間で一万キロの乳量を出すくらいまで改良されているのだ。乳牛の改良と穀物の多給で、牛はもう乳を出す動物というより乳の出ちゃう動物にされたと言った方が合っているようだ。
穀物をエサにすることの問題
牛は本来草食動物。草を食べ反芻し、4つの胃の働きで消化し栄養分を吸収する。人間が生きていくための人間の体のしくみ、牛が生きていくための牛の体のしくみ。しくみに違いはあるものの、この体の中の働きにはただただ感心するばかりである。
その草食動物の牛に穀物を与えると牛はどうなるのだろう。
牛は穀物を好んでよく食べる。草と穀物どっちを食べる?となったら、穀物の方をひたすら食べてしまうほどだ。でも本当にひたすら穀物だけを食べてしまうと牛は死んでしまう。牛には草などの粗飼料が必要不可欠なのだ。
近代酪農では、穀物と粗飼料を一気に混ぜ合わせたものを混ぜエサとして与えるのが一般的になってきた。草を断裁して牛が消化しやすい長さにし、栄養バランスや乳質アップなどを考え、飼料の種類や量を徹底的に計算し配合している。混ぜ合わせるときも、水分調節や、草の繊維質を損なわないような混ぜ方にするなど、畜主は神経をとがらせエサ作りを行う。
穀物を与えるということはそのくらい牛の体をデリケートにさせるものなのだ。こうして牛は穀物を摂取し乳に変換して人間に提供している。
穀物の大量給与の問題
穀物は草よりも安価で手に入りやすく、そのうえ乳量も増やしてくれるため、どうしても穀物多給型になってしまう。その穀物多給が、牛にどんな悪影響を及ぼし牛の体を痛めつけているかわかっているはずなのに、一時的な乳量の増加は穀物多給への道のりを畜主に歩ませてしまうようだ。
牛は穀物を多量に摂取すると、さまざまな内臓疾患におかされる。草を食べて健康に育つ牛には起こりえない病気が多発する。投薬治療や手術など、牛の治療もさまざまで、こうして牛には大量の抗生物質が投与され、抗生物質漬けの体になっていく。発病する牛もいれば、発病すれすれ、限界ぎりぎりの状態でなんとか踏みとどまって高泌乳を実現している牛もいる。このように牛の体をだましだまし使っているようにしか思えない穀物多給の近代酪農は、家畜の福祉という観点からはほど遠い距離に位置している。
(以前、北海道の臨床獣医師・岡井健さんが、ALIVEの会報に「家畜の疾病から見た日本の畜産」というテーマで連載されていた。さまざまな問題点、そして家畜が発症する病気についても詳しく書かれているので是非読んでいただきたい。会報No.64、65)
低い飼料自給率
そしてさらに問題なのが、飼料の自給率がとことん低い都市酪農だ。飼料の大半は購入飼料だ。都市酪農だけではない。あの広大な土地をもつ北海道でさえ自給率は60パーセントにも満たないようだ。草も穀物も海外で生産されたものが海を越え、この日本に届けられる。その飼料は保管や防カビなどの目的で農薬が散布されている。これを牛が食べるのだから牛が農薬漬けになるのも無理はない。目に見える牛の苦痛と目に見えない牛の苦痛。私たちが普段の生活では決して味わうことのない苦しみを、牛は生涯にわたって受け続ける。
処理できない家畜排泄物
本来の酪農のあるべき姿は、草地があって、その広さに見合った頭数が飼われ、その草地に糞尿が還元されてさらに草を育てる。そんな循環が農業を健全に末永く保つのではないのか。飼料を輸入に頼るということは糞尿を還元する自分の土地がないということだ。循環どころか糞尿は行き場のない廃棄物扱いで邪魔者にされるようになってしまった。還るべき場所がない糞尿は蓄積されるばかりで行き詰まりを見せる。
その姿はまるで日本の酪農の未来そのもののようだ。糞尿問題、環境問題が叫ばれるようになると、国は糞尿施設をつくれという。処理の限界を超えているのに無理な話だ。根本的な見直しではなく、その場しのぎの政策はさらに悪循環をもたらすのではないだろうか。
終わり
http://www.alive-net.net/animalfactory/index.html
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鉄壁の向こうの隠された涙 場の真実
http://youtu.be/6615MRraHv8
2013/12/6