久しぶりに、村上春樹さんの作品を読んだからかもしれない。
「アフターダーク」にも出てくる、
「自分であることを演じている」キャラクター。
「ダンス・ダンス・ダンス」の五反田くん。
如月小春さんも、また、こういう、
「自分が自分であることの嘘っぽさ」に
とても敏感だったのだろう、と思う。
たとえば、「おいしいトロが食べたい」と思うとき、
それは、本当に自分が思っているのか、それとも、
誰かあるいは何かに、そう思わされているのか?
資本主義社会は、人々の欲望をエネルギーにして回っている。
だから、そこでは、資本が、自己増殖のために、
すべてを動かしている、と言えないこともない。
ちょうど、遺伝子が自己保存のためにすべてを
動かしているのであって、われわれはその乗り物に
過ぎない、というのと同じように。
マトリックス的な世界?
そうやって、考えてゆくと、
いったい「自分」はどこにあるのか?
最低限の生理的欲求はいいとして、
しかし、それだけでは、自動機械だ。
それを越えて、「自分」があるとしたら、
それはどこにあるのか?
本当の自分、なんて幻想に過ぎないのか?
「我疑う、ゆえに、我あり」
こうして疑っている自分は、
確かにここにいる??
でも、この疑問だって、
誰かからもらったもの、
どこかの本で読んだものかもしれない。
もちろん、ある環境の中で生きている以上、
そこを離れて「自分」があるわけもない。
目の前を流れてゆく「トロ」と「霜降りサーモン」のうち、
「トロ」を取るのが自分なのだろう。
トランペットとトロンボーンのうち、
トロンボーンを取るのが自分なのだろう。
でも・・・
それは本当に「自分」なのか?
普通はこんなこと考えていると、
生きてゆけないので、忘れている。
もともと、答えが無いかもしれないし。
でも、如月小春さんは、きっと、
忘れられなかったのだろう、と思う。
都市 ソレハ ユルギナキ全体
絶対的ナ広ガリヲ持チ 把握ヲ許サズ 息ヅキ 疲レ 蹴オトシ
ソコデハ 全テガ 置キ去リニサレテ 関ワリアウコトナシニ
ブヨブヨト 共存スルノミ
個ハ 辺境ニアリ
タダ 辺境ニアリ
楽シミハ アマリニ稚ナクテ ザワメキノミガ タユタイ続ケル
コンナ夜ニ 正シイナンテコトガ 何ニナルノサ
都市よ!老いたる都市よ!
「家、世の果ての」という芝居のラスト、
暗転した舞台の中央で、真上からの真っ白なスポットライトを浴びて、
花吹雪がキラキラと舞う中、全身で叫んでいた瀧川真澄さんの姿を、
今でも時々思い出す。
そういえば、と、瀧川真澄さんを検索したら、今も
ここで活躍されているのだ!
すごい。観に行ってみたい。
山本浩子さんの小石犬もよかったなぁ・・・
この山本浩子さんなのだろうか?
あるいはこっち?
うわぁ、綺畸もまだあるんだ!
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