Schubert - Symphony No 8 'Unfinished' - Celibidache, MPO (1988)
2020-06-18 18:58:15
これも素晴らしい。
これ以外はあり得ない、
というところまで
突き詰められた響き。
彼岸からの音楽。
もはや人間業ではない感じすらする。
おそらく、Schubert 自身よりも、
この楽曲の響かせ方を知っている。
問題は、他の演奏がみんな
色あせてしまうことだ。
なぜそうなるのか?
チェリビダッケはどうして
ユニークな存在なのか?
彼の演奏の review によく書かれているように、
それに触れた多くの人が、
「今まで自分が聴いていたものとは全く違う、
今まで聴いていたいものは何だったのだろう?」
と感じる、ということが、何故起こるのだろうか?
* * *
それは「音楽」(西洋音楽)の捉え方に
よるのだと思う。
それぞれの指揮者、あるいは
パフォーマーは、自分の音楽観に従って
最善のパフォーマンスを目指す。
一流と言われるような人であれば、
それぞれの方向において
高いレベル、峰に達しているのは
間違いない。
では、「音楽」とは何だろうか?
音楽とは、歌である
音楽とは、リズムである
音楽とは、アンサンブルである
音楽とは、センセーションである
音楽とは、パッションである
音楽とは、熱狂である
音楽とは、かっこいいことである
音楽とは、・・・
チェリビダッケが到達したのは、
音楽とは、響きである、
という境地だ。
そしてこれは、ポリフォニーをベースとした
西洋古典音楽を演奏するオーケストラの
指揮者である、という彼の立場にとって、
とても妥当なことだった、
ということを、彼が到達した地点で、
彼の生み出したものが証明している。
適切な音の組み合わせを、
適切に響かせること。
そのことによって(のみ)、
音楽が生まれる。
そのことを徹底的に追及して
実践した結果が、この演奏なのだ。
なぜ、それがユニークになってしまうのか?
なぜもっと広まらないのか?
それは、「音楽」の持つ
多様性の故ではないだろうか?
上に書いたような、どの方向に進んでも、
それぞれ、大きな感動を生み出すことができる。
つまり、音楽がもたらす感動という山は、
とてもたくさんの峰を持っていて、
その中で、西洋古典音楽、という文脈で
最も奥のほうで最も高く輝く峰が、
「響きとしての音楽」だった、
ということなのかもしれない。
「歌う」「弾む」「乗る」「白熱する」
「かっこつける」、・・・
どれに捉われることなく、ひたすら響きを追求して進む、
というのは、たとえ答えがわかっていたとしても
とても難しいことなのだろう。
その、フルトヴェングラーが指し示した道を、
他の峰の誘惑、そちらに行く人たちの姿に負けずに、
自分だけを信じて、歩き続けたからこそ、そして、
それを信じて、一緒に歩いた
多くの人たちがいたからこそ、
この演奏が存在している。
たとえば、「その場で生まれる響き」
を大切にするからこそ、
それを完全にぶち壊してしまう「録音/再生」を
できる限り拒否したわけだが、
このこと一つとっても、
現代の普通のオーケストラであれば
そんなのやってられない、と思うだろう。
逆に言えば、彼のキャリアの中で
放送交響楽団との関係が深いのは、
放送交響楽団は、放送をしさえすれば、
録音を売って稼がなくても良かった、
というためなのかもしれない。
色々な意味で、チェリビダッケと
ミュンヘンフィルの関係
というのは、空前絶後のことだったのだ、
と思う。
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