日々の寝言~Daily Nonsense~

権威と口コミ

昨日の産経新聞朝刊で、
柴山桂太さんがミシュランガイドの
東京進出について書いていた。

ミシュランのように、その道の権威が
評価して序列をつけるのと、
多くのグルメサイトのように、口コミ、
個々人の主観評価を集めるのと、
二つのアプローチを挙げて、
上の方式に共感を覚える、としている。

「「おいしさ」や「もてなし」は、一見したところ
主観的で個人的な感覚に見えるが、そうではない。」

「料理の良し悪しは、個々人の感覚が決めるものだ、
という考え方には違和感を持つ。
人間の感覚に「鈍い」や「鋭い」があるように、
味覚にも「未熟な舌」と「肥えた舌」という
区別があるはずだ。」

「(個人の好みに帰着させず)、
目に見えない普遍的基準があるはずだと考え、
より優れた感覚へと近づこうとする努力があって、
はじめて国民文化が洗練されたものになる。」

と書かれている。

書いてあることに正面から反対するわけではないのだが、
一方にだけ「共感する」としているのには、ちょっと違和感を感じた。
権威と口コミと、両方が栄えるのが健全、と思うのだ。

権威だけだと奢りや不公正を招きやすいし、
権威の数は少ないので、見落としも多く出る。
一方、口コミだけだと、大衆化して堕落しやすい、
というのは、テレビの視聴率依存の結果がそれをよく示している。

そもそも権威の評価というのは啓蒙的なもののはずで、
(「啓蒙思想」はフランスのお家芸だ)
その結果として口コミの水準もあがる、
レストランの質もあがる、という方向に
働かなくては面白くない。

「わからない奴は黙ってろ」と言ってしまうのはいただけない。
そう言いたくなる場面があるのは認めるが、
それを言っちゃあおしまいよ、というたぐいだろう。

しかし、日本人の心性を考えると、
権威盲信、信仰化して、
星がついた店は大混雑して質が下がり、
星がつかない店は閑古鳥でこちらも質が下がる、
ということが懸念される。

そうならないように、口コミもにも
今まで以上にがんばってほしい。

なんといっても、和食は世界に誇る食文化であり、
東京に住む人は、パリに住む人に負けないくらい、
おいしいものを食べる機会に恵まれているはずなのだ。

普遍基準はあるのかもしれないが、「おいしさ」や「おもてなし」
のような非物理現象については、時代や風土で変わる部分もあり、
物理法則のように完全に普遍的かつ不変的なものを想定するのは硬すぎるだろう。

権威が市井の口コミから新しい方向を学ぶことも多いはずだ。

こうした意味では、ブログなども含めて、
「おいしさ」についての大量の言説が集積し、
相互に交流している、今の状況は悪くない。
そうした中で、自然と、あの人の言うことは信用できる、
という形で権威も生まれてゆく。

だから「ミシュラン」はもう要らない、
のかもしれない。

教訓:

本来二択ではないものを
二択のように考えてしまうことは、
不毛な議論になることが多い。

心理的なものを物理的なもののように
扱おうとする(望む)ことは、
不毛な議論になることが多い。
  • Xでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最新の画像もっと見る

最近の「雑感」カテゴリーもっと見る

最近の記事
バックナンバー
人気記事