平成23年1月1日発行 御所通信10号
読者の方から世田谷城跡保存会の活動についてご質問がありました。当会の活動方針について広く知っていただく良い機会だと考え一部を公開することとしました。
はじめに
世田谷城跡保存会は、世田谷城跡の保存と復元を目的に活動をしていますが、その一つとして旧跡から史跡への変更を求めています。旧跡と史跡の違いは簡単に言うと旧跡は点でしかなく史跡は面になります。史跡は範囲を確定しますが旧跡は範囲を確定しません。世田谷城は旧跡で「この辺りに城があった」という程度のものでほぼ法律の網がかかりません。開発者の義務は埋蔵文化財保護法による発掘とその結果を調査報告書として記録保存を行うだけです。私どもから言わせれば、旧跡はまるっきりの抜け穴だらけでザル指定といわざるをえません。旧跡指定では開発はやりたい放題の状況になっています。旧跡指定であるがために、豪徳寺門前のワンルームマンション建設が問題となり、東京都や世田谷区へ要望しても何の役にも立ちませんでした。豪徳寺さんにお願いして買収してもらい辛うじて開発を免れることができました。こういうことが二度と繰り返させないという意味も込め自元有志や豪徳寺さんの檀家に呼び掛けて保存会のフラッグを立てたわけです。私共は何度もこれはおかしいのではないか、範囲を確定し史跡指定(当初は史跡指定、戦後旧跡指定)に戻してほしいという要望を東京都や世田谷区へ届けています。史跡の範囲を確定した場合、民有地の開発や相続があれば東京都や世田谷区が買収するなど保存のための責務を負うことになります。この史跡指定への変更は平成17年から主たる要望として要請してきましたが一歩も動いていません。旧跡と史跡の相違点が私どものスタートラインでもありました。その点、ご質問の多くはこの旧跡と史跡との相違、問題にかかわるものだと思います。ご質問は、当方の活動の根幹になる部分とは言え、本来ならば東京都や世田谷区が回答すべきものもあると思います。従いまして、ご質問には回答ではなく保存会としての見解とします。またすべての責任は負いかねますのでご容赦ください。
質問に対する見解
(世田谷城の敷地について)
Q世田谷城の敷地については豪徳寺を含むものと含まないものとあると聞くが、どちらが有説となっているか?
A世田谷城跡保存会では、江戸時代の絵図類から検討して世田谷城阯公園と豪徳寺住宅、豪徳寺駐車場とその周辺を範囲として考えています。従来からある狭義の説とほぼ同様です。一方広義の説は豪徳寺境内、墓地という広範囲を世田谷城跡としています。これを評価する研究者もいます。いずれにしても城跡の多くが地下に埋蔵されてますので世田谷城の範囲については確定されていません。なお、埋蔵文化財包蔵地としては豪徳寺を含む広範囲を図で示しています。
Q豪徳寺内に城跡は残っていないのか
A昭和60年に行われた区の調査で土塁、堀と思われる遺構が見つかっていますが、これがただちに世田谷城に直結する遺構であるかは判断されていません。
(世田谷城公園について)
Q世田谷城址公園が設立された1940年(昭和15年)には、現在の公園周辺はどういう状況だったのか?
A保存会としては過去の状況について江戸時代の絵図や古写真などを調査しています。ブログに昭和6年頃の写真を掲載しましたが、正に土の城という風景だったと思います。
Qなぜ、現在の場所のみが公園化し、豪徳寺団地の敷地は公園化されなかったのか?
A保存会としては城阯公園、豪徳寺団地、豪徳寺駐車場も含めて史跡公園化を考え区へ要望してきました。公園化した土地は所有者である東京市から区へ移管されました。当時(昭和15年)は豪徳寺住宅はなく私有地だったと聞いています。戦後、その土地を東京都住宅供給公社が買収し豪徳寺団地を建設したそうです。
Q世田谷城址公園のとなりの豪徳寺住宅は1954年に建築されたというが、それ以前はどういう状態だったのか。
A畑であったということです。
Q世田谷城址公園の隣の空き地(現在工事中)の持ち主は?
Aわかりません。
(東京都指定旧跡について)
Q世田谷城跡が東京都指定旧跡になったのはいつか?1919年10月(大正8年)?
A大正8年東京市史跡指定
昭和15年歴史公園として開園
昭和27年東京都 旧跡指定
昭和28年豪徳寺住宅建設
平成17年松下住宅売却、保存会設立。ワンルームマンションが建設される直前に豪徳寺が買収
Qその指定範囲はどこまでを含まれるのか?(豪徳寺も含まれるのか?)
A冒頭で述べた通り範囲は指定されていません。
Q東京都指定旧跡になるとどのような保護or制約があるか?
A冒頭で述べた通り埋蔵文化財保護法による調査義務があるだけだと思います。旧跡と史跡の相違は冒頭で述べた通りです。
Qなぜ東京都指定旧跡になっている土地に都営住宅や民間企業社宅ができたのか?
A冒頭で述べた通りです。
(周辺の開発・発掘について)
Q第7次発掘調査の結果、発掘された遺跡を埋没保存にしたのはなぜか?
A冒頭で述べた通りです。
Q同調査の過程で、豪徳寺が購入した土地(現在は駐車場と空き地)の今後の開発予定は?
A当面、駐車場として使用すると聞いています。
Q今後、豪徳寺住宅の立て直し計画などはあるか?その場合、発掘調査が行われるか?その遺跡保存と開発の関係は?
A保存会では建替え計画を中止し世田谷区への譲渡または売却を求めています。また先ほども触れましたが一帯を史跡公園化するべきだと主張しています。
(世田谷城跡の今後の展望について)
Q城址公園を拡大する計画はあるか?
A保存会では拡張して史跡公園化を希望しています。行政では検討もしておらず白紙だと思います。
Q近隣住民は住宅開発と公園保存についてどう考えているか?
A保存活動には地元町会も参加しています。
Q世田谷城跡保存会の活動目的と主な活動内容とは?
A保存会としては冒頭で述べた通り、少なくとも豪徳寺住宅、豪徳寺駐車場を史跡として確定し史跡公園化を求めています。また、多くの区民にこの問題を知っていただくために講演会、見学会などの啓発活動を行っています。
Q地域の開発と歴史的景観の保存について、保存会が考える望ましい今後の方向性とは?
A冒頭で述べた通りです。旧跡から史跡への変更が根幹であると考えています。
なお、活動記録をまとめた冊子があります。会員以外で希望される場合は有料頒布しています。ご希望される場合はご連絡ください。
昭和15年10月、世田谷城跡は東京市初の城址公園となった。この城西ニュースは昭和12年に公園化が決定した際に記事とした。豪徳寺の井伊家墓所、家臣の首塚なども含めて保存するため史跡公園化するとしている。アイヌのチャシとはいかがなタイトルかと思うが、当時の保存状況を知るうえで貴重な記事である。
なおこの記事は昭和12年8月発行「豪徳寺全景」に収録されたもので記事はその当時のもの。