世田谷城跡保存会

世田谷城跡保存会は平成17年に設立し城跡の保存と復元の活動を行っています。
 

三宿のまち歴(歴史・人物)を編集中 三宿城跡

2022年03月18日 16時00分22秒 | 三宿

世田谷区三宿の歴史・人物について探索しています。いろいろと見えてきたので、少しずつお知らせします。

まずは三宿城跡(現世田谷区三宿2丁目一帯にあった。遺構等は壊滅状態))についてです。北沢川と烏山川に囲まれた舌状台地上(最も高い標高35m)に築城されています。おおよそですが三宿2丁目の一帯が該当します。明治42年の測図に大きい土塁(添付図面参照)が描かれています。また近くからは箱堀が発見されています。しかし文献は新編武蔵風土記のほかはなく、遺構は開発により失われてしまい正確な縄張りもわかりません。しかしスケール、基本的な区画などから深大寺城(調布市)と酷似していることが分かりました。どうも上杉氏の関係した城ではないかと推定してみました。上杉氏と姻戚関係を作った吉良成高の頃かと考えています。なお三宿神社と三宿の森一帯の構造が解明のポイントになると診ています。

明治42年測図

三宿神社

 


世田谷まち歴 三宿編

2021年06月02日 10時03分51秒 | 三宿
三宿の歴史物語
 縄文時代と古墳時代を含む多聞山遺跡(三宿2丁目)が確認されている。
 室町時代には北沢川と烏山川が合流する舌状台地上に造られた三宿城があったと伝えられ、多聞山遺跡からは溝跡(空堀)が見つかっている。
 多聞山の南裾には、かつて多聞寺があり、その墓地に板碑3基があったといわれている。その内の1基に応安7年(1374)12月と記されていたという。
 江戸時代になると、池尻と同様に一時期旗本領となったが、元禄8年(1695)以降幕末まで天領となり幕府代官の支配地となった。享保5年(1720)には村の北方で2丁四方の新田開発が行われた記録が残る。
 旧多聞寺墓地には延宝8年(1680)に建立された庚申塔、元禄14年(1701)に建てられた地蔵の石仏がある。墓地に隣接する三宿神社の創建については不詳であるが、多聞寺が所蔵していた毘沙門天が祀られていたといわれる。境内にある稲荷社は江戸時代の記録に見える。
 明治31年(1897)から32年にかけて三宿には、野戦砲兵隊第4旅団司令部(現三宿中学校)が設置された。三宿、池尻、下馬、太子堂には軍隊とその関連施設が多く駐屯した。兵隊との面会に訪れる家族たちを泊める旅館が建てられ、兵隊相手の飲食店が軒を連らねて大変に賑わったという。明治42年(1909)池尻から世田谷郵便局が三宿へ移転。電話の架設が始まる。大正2年(1913)、曹洞宗第1中学林(現世田谷学園)が駒込から三宿へ移転してきた。
目黒川起点 右が北沢川、左が烏山川
三宿神社