今日は、自分のblogやHPにこの記事を書く人が多いのではないだろうか。
今更書くまでもなく、21年前、1985年8月12日の夜7時前、
日航ジャンボ機・JAL123便が、圧力隔壁の破壊(この原因については諸説有る)
に端を発して、30分余りの迷走飛行の後、いわゆる「御巣鷹の尾根」に墜落。
乗客・乗員524名のうち、520名が犠牲となった。生存者わずかに4名。
Area51は、この日の夜、いつものように、NHKの7時のニュースを
家族で見ていた。ニュースの後半だった。524名を乗せたJAL123便の機影が
レーダーから消えた、というニュースが飛び込んできた。
「えっ!」 驚きの声がもれる・・。
7時半からも、番組を変更してこのニュースを続けていた。
こういった事件・事故になると、いつまでもテレビの報道を
見ているのがArea51の常である。
古くは、'72年の「あさま山荘事件」、夕方のテレビ(CM抜きだったはず)を
子どもながらに、食い入るように見ていた。
ダッカのハイジャック事件でもそうだ。
'78年の「三菱銀行・北畠支店 猟銃強盗殺人事件」も・・。
話を戻そう。JAL123便の行方は以前として不明。
その後、どんな報道があったか、詳細は忘れてしまっているが、
夜の闇の中で、炎が写っている映像もあったような気がする。
しかし、朝までは機体の位置もはっきりわからなかった(公式には)のでは
なかったか・・。
チャンネルを変えながら、徹夜でテレビを見ていた。
朝5時台だったと思うが、フジテレビ系が機体の一部の映像をヘリから
生中継で写し出した。それが事故後の最初の機体映像だった。
そして、自衛隊のヘリにつり上げられる生存者の様子。
何度も報じられた。敢えてここでは、個人名は書かないが・・。
片腕に白い布を巻かれて救助される中学生の少女。
抱えている自衛隊員が必死に歯を食いしばる。
今なら考えられないが、病室でのテレビインタビューが痛々しい。
この10年後、1995年1月、阪神大震災のとき、兵庫のある病院で
とりわけ綺麗な看護婦(師)が、懸命に負傷者の治療にあたって
いたそうだ。この子の母親(事故で亡くなった)も看護婦だった。
21年という歳月が感じられないほど、つい昨日のことのように思える。
「事故を知らない世代」がいることが信じられない(当然、いるわけだが・・)。
「事故を風化させたくない」、遺族の方々が話される言葉である。
Area51の中では、「風化」どころか昨日のような出来事である。
今年の4月に羽田に「日航安全啓発センター」がオープンした。
事故を知らない若い社員への教育目的だそうだが、一般でも
見学できる(要予約)。実は、Area51は、過日、東京へ行ったときに
見学するつもりで電話を入れてみたが、たまたまその希望日が
日航社員研修(これが優先される)と重なって実現せず。
またいずれ、行きたいとは思っている。
今更書くまでもなく、21年前、1985年8月12日の夜7時前、
日航ジャンボ機・JAL123便が、圧力隔壁の破壊(この原因については諸説有る)
に端を発して、30分余りの迷走飛行の後、いわゆる「御巣鷹の尾根」に墜落。
乗客・乗員524名のうち、520名が犠牲となった。生存者わずかに4名。
Area51は、この日の夜、いつものように、NHKの7時のニュースを
家族で見ていた。ニュースの後半だった。524名を乗せたJAL123便の機影が
レーダーから消えた、というニュースが飛び込んできた。
「えっ!」 驚きの声がもれる・・。
7時半からも、番組を変更してこのニュースを続けていた。
こういった事件・事故になると、いつまでもテレビの報道を
見ているのがArea51の常である。
古くは、'72年の「あさま山荘事件」、夕方のテレビ(CM抜きだったはず)を
子どもながらに、食い入るように見ていた。
ダッカのハイジャック事件でもそうだ。
'78年の「三菱銀行・北畠支店 猟銃強盗殺人事件」も・・。
話を戻そう。JAL123便の行方は以前として不明。
その後、どんな報道があったか、詳細は忘れてしまっているが、
夜の闇の中で、炎が写っている映像もあったような気がする。
しかし、朝までは機体の位置もはっきりわからなかった(公式には)のでは
なかったか・・。
チャンネルを変えながら、徹夜でテレビを見ていた。
朝5時台だったと思うが、フジテレビ系が機体の一部の映像をヘリから
生中継で写し出した。それが事故後の最初の機体映像だった。
そして、自衛隊のヘリにつり上げられる生存者の様子。
何度も報じられた。敢えてここでは、個人名は書かないが・・。
片腕に白い布を巻かれて救助される中学生の少女。
抱えている自衛隊員が必死に歯を食いしばる。
今なら考えられないが、病室でのテレビインタビューが痛々しい。
この10年後、1995年1月、阪神大震災のとき、兵庫のある病院で
とりわけ綺麗な看護婦(師)が、懸命に負傷者の治療にあたって
いたそうだ。この子の母親(事故で亡くなった)も看護婦だった。
21年という歳月が感じられないほど、つい昨日のことのように思える。
「事故を知らない世代」がいることが信じられない(当然、いるわけだが・・)。
「事故を風化させたくない」、遺族の方々が話される言葉である。
Area51の中では、「風化」どころか昨日のような出来事である。
今年の4月に羽田に「日航安全啓発センター」がオープンした。
事故を知らない若い社員への教育目的だそうだが、一般でも
見学できる(要予約)。実は、Area51は、過日、東京へ行ったときに
見学するつもりで電話を入れてみたが、たまたまその希望日が
日航社員研修(これが優先される)と重なって実現せず。
またいずれ、行きたいとは思っている。