言の葉 つれづれ

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つれづれのつぶやき。

日々、成長してます。

2019年12月03日 07時34分12秒 | 日記

毎日、朝、目が覚めて、足首の腫れが少しずつ引いていくのと、身体の変化にビックリ、そして、さまざまの感謝の思いが浮かびます。


もう、ぜったい、これから生きてきた時間より、多く生きることはない。折り返し地点は過ぎてる。

50の誕生日に、セミナーに向かう電車の中で開いた本のぺーじに、さあさあ、今日が出発の日、の文字が飛び込んできて、そうか、なら、私は100歳まで生きるのかとなぜか思って、50を引いた年齢を意識してきました。

いつの間にか、あっという間に、いろいろあり、二十歳、成人も過ぎた。大人になった変化を感じる。

人はそれぞれ目的を持って生まれてきているという。

私は、何のために生まれてきた?万人に言えることは、他人のお役にたつこと。

そう、思い込んで生きてきた気がする。根底にそれがあり、自分の為にと考えていなかったと思う。

多くの人が、多かれ、少なかれ、気が付いたり、気が付かずに、社会に、みんなが、そう生きるよう洗脳される環境に、満ちている。


心身が不調でも、みんな懸命に、そう、努力してきた。そのため、そうなっていないと思いこんだ場合、いらだったり、落ち込んだり、もちろん、私も。

でも、ある時から、何もしてなくても、普通に健康に生活しているだけで、他人に、影響、感心してもらえる年齢だと、気づき、考えの方向転換をしました。

そして、自分中心、自分を大切に、

簡単には行きませんでしたが、なんと、もともと、自分中心、自分の好きなように、生きている。自分で考え、選択し、過去も、今も、そして、これからも、

そして、自分以外の人もそうしている、みるものも、感じ方も、人それぞれ。発する言葉、行動。すべて。

それが、現実で、それで、いいのだと、つくづく、感じている今日、この頃。


ほんとに、遅ればせながらの、奥手です。


最近、生きるのは大変なことだと、やっと気づいたばかりでした!。そう、自覚できたから!。だから、でも、やっと、生きるのが楽になってきたのかな?。

身体も緩んで、これから本来の動きをしてくれるんだな~と、身体に感謝、いや、畏敬の思いです。



自分以外の、そうしてない、他人に合わせてしまう人も、はやく、自分の気持ちに気づいて欲しいです。






     ( 8月に、下書きしてました。今も、同じ気持ちだけど、今は、こんなこと書く気持ちはない!!。なぜ 

                    だろう??。もしかしたら、当然と思ってしまったから? どうでもよく情熱がなくなった?)






2015年03月30日 09時10分25秒 | 日記
お隣の桜が満開です。

でも、心なしか去年までの桜より、元気がなさそうです。

いままで、玄関の屋根の瓦に触れるくらいのところまで枝をのばしていて、手で触ることもできていましたが、今の選定は、配慮なのか?なんともいびつな剪定になっていて、桜の木も不本意みたいです。

枝物は、どんどん変化して、その時の人の選定にお任せになりますね。


自分の家の桜ではないので、思うようにはいきませんが、毛虫の塊りのところの枝切りとかは、丁度、植木屋さんの切るときに出会った時は何回かお願いしたことがありましたが、それ以外は何も申してはいないのですが。

キレイな花をみせていただいて、いろんなものを帳消しにしてくれるので、楽しみにしている桜です。






今の朗読の先生が、桜は本当に美しいのか.

の、本を次回読みたいと提案されていましたが、題名だけでも、なんとも想像のつかないというか、想像がつくというか、でも読んでみたい題名だわとおもいましたが、なか見検索で、ちょっとみて・・・・。


そして、何年前なのだろうか?

詩の授業での、吉野 弘  の ”樹”を、おもいだして、探して出して読んだり詠んだりしてみました。
    





                 人もまた、一本の樹ではなかろうか。
                 樹の自己主張が枝を張り出すように
                人のそれも、見えない枝を四方に張り出す。

                身近な者同士、許し合えぬことが多いのは
                枝と枝とが深く交差するからだ。
                それとは知らず、いらだって身をよじり
                 互いに傷つき折れたりもする。

                仕方のないことだ
                枝を張らない自我なんて、ない。
                しかも人は、生きるために歩き回る樹
                互いに刃をまじえぬ筈がない。

                枝の繁茂しすぎた山野の樹は
                風の力を借りて梢を激しく打ち合わせ
                密生した枝を払い落とす――と
                庭師の語るのを聞いたことがある。

                人は、どうなのだろう?
                 剪定鋏を私自身の内部に入れ、小暗い自我を
                刈りこんだ記憶は、まだ、ないけれど。






そして、メモ書きが、


願望、   願望のうちはきっと、かなえてくれる(誰?神様?)叶う。それが現実になる。

欲望、   更に、叶っても、もっと、もっとと、人のものまで欲しい。それは欲望。


なので、叶わないことは、欲望だったのかしらと思う。でも、数年たってから叶うこともあるのよね。とのお話しされていたのを思い出しました。








いとこからの電話

2014年06月19日 10時52分49秒 | 日記
昨日?2,3日前?、なんとなく、母の末っ子の叔母が、頭に浮かんだ。
昨日、食器棚の上段の整理をしていたら、サラダランドというそう!?、こんなのつかっていたんだ~、と、思った。

夜に、いとこのMちゃんから、娘時代以来のこと、電話があった。

叔母がなくなったこと。

母のお見舞いに行ってくれたこと。

サラダランドという、野菜の水切り器を、わたしが、結婚のプレゼントととしてあげていて、今でも使っているとのこと。

又、書き留めたいことが出てきたりして、未だ7年続けたブログを削除して一月もたっていないのに、又、書き始めたワタシ!?