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「 パウロ 」から「 イエス 」へ 脱却へ

2010-06-07 23:55:48 | 日記
題:「パウロ」から「イエス」へ 脱却へ
 

イエス・キリストは、「他律戒」から「自律戒」の人であった。

 キリスト教の姦通の女をめぐる話において、
            イエス・キリストは、
                従来の石打ちの刑を赦した。
 これは、
    聖書の神の律(=天地創造神の他律戒)を
         否定し、
        イエス・キリスト自らが、律を決め、行った。
 そして、姦通の女を赦した
      イエス・キリストは、他律戒を棄て、
                 自律戒を発したのである。
 『私(イエス・キリスト)も貴方を罪に定めない。
      行きなさい。
         これからは、もう罪を犯してはならない』
             (「ヨハネによる福音書』8・11)。
 神を立てない仏教の、人間が作った自律戒と 同様な、
    『私(イエス・キリスト)も 貴方を罪に定めない』
                         と言う。
 有罪か無罪かの判断は
        神からの他律戒を基準にしているのではない。
 他律戒の天地創造神の律および戒の
                   世界」から
                        脱却した。
 そして、   
     『もう罪を犯してはならない』との 言葉を添える。

 イエス・キリストも
          仏教と同じ 自律戒の人(神)となった。
 そして、
    この自律戒の基準は何か
               と考えると、
    「宇宙を宇宙たらしめている 
                 絶対的な者であり、
           万人の内部にもあって 
          聖なる霊として働くものである(=仏性)。

 それは、万人の外にいる天地創造神のような
       他律戒を発する様な存在
            ではない(キリスト教の神ではない)
     
 今の世界のキリスト教は、
         パウロ・キリスト教であり、
             現状は、
             完全に論理の破綻を起こしている。
         イエス・キリスト教へ
             全面的に変わらなければならない。
(参考)脱却:
      (1)捨て去ること。脱ぎ捨てること。
                  「古い考えをーーする」
      (2)ぬけ出ること。