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同民族を・・強く意識する宗教・・、

2014-06-24 16:11:14 | 日記
 題:同民族を・・強く意識する宗教・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教は、『同民族を強く意識』する『民族宗教』
の態を持っている。民族宗教です。
 そしてまた、キリスト教は、諭(さと)し、教える宗教
ではない。「駄目なら殺す」の宗教である。
 「ソドム」と「ゴモラ」もこれ、
 堕落したから殺すしかないと滅ぼされてしまった。
 本国のキリスト教から、人ではないと言われ殺され、全
滅の憂き目に合うインディオスの方々は、筆舌につくせぬ
多くの人々が殺された。
 キリスト教は、この様な宗教。「愛はごまかしである」。
 キリスト教聖書の(「創世記」19)をご覧いただきたい。
 これにも酷(ひど)い話が記されている。
 キリスト教の神は、神に「救ってください」と祈ったも
のだけを助けている。
 祈らない者は、「異教徒は殺せ」と同じ、殺して良いの
だのキリスト教の論理・教理である。この様な考え方であ
るため、それ以外の人は殺す。
 惨(むご)い話、惨いことに、広島・長崎の人々を殺し
たのは、早く戦争が終わってアメリカ兵士が救われたの論
理である。何ら戦争に関係のない方々の命を奪い取り、
戦争に従事している人の命と引き換えにする。卑劣なキリ
スト教の論理である。
 キリスト教の聖書には、この様な話がいっぱいある。読
んで何らためにならない。人殺し論理が、曲がった論理が
いっぱい書いてある。
 その1例。キリスト教の神は、その祈った者を救うために、
町の人々の上に火を降らした。しかし・・、
 事もあろうに、キリスト教の神は「ソドムとゴモラ」を
殺そうと、祈った者たちも殺した。
 「ソドムとゴモラ」も死んだが、何ら関係のない町の人
々もお構いなしに、キリスト教の神は極悪行為をした。
 キリスト教の神へ祈る行為をしてない町の人々もいただ
ろうが、その町の人々の命を無視した。
 虫けらの如(ごと)くに考えた。
 命を大切にしないキリスト教、虫けらの様に殺される人
々がキリスト教聖書のあちこちに記されている。
 子供たちが、この様な話に洗脳されることを恐れる、心
が痛む。
 「広島の原爆」「長崎の原爆」、これによって戦争が早
く終わって「アメリカ兵士」が死なずに済んだと、キリス
ト教の神に祈る人の少ない人々という観念で広島・長崎を
見ていた。今・現代でも、この見方だ。
 キリスト教以外は悪だと・・。
 そう言う、キリスト教こそ悪だと言いたい。
 今・現代、日本の企業はこの呪いの言葉におびえている。
 今・現代でも、この筋の通らない論理を言っている。
 広島・長崎の人々は、キリスト教の神には、配慮外の人
々、目の中に入らない『他の民族の人々』だった。
 創世記に記されているキリスト教の神も、卑劣にも、草
木もろとも、人々を滅ぼしてしまった。
 あちこちに惨(むご)い記述の聖書、そのキリスト教の
論理に洗脳されて、戦争が無くなる訳がない。
 次世代に残してはいけない宗教、人類は救えません、
 あなた方も幸せにはなれません。
.
 そして、次の話。
 熱心なキリスト教信者の作家・加賀乙彦氏は・・、イエ
スについて言う、
 「俗世の中に出て行き、無一物となって他人のためにお
のれをむなしくして尽くした」・・と、美しく言う。
 作家らしく美しい文となっている。
 しかし、イエスは無一物ではない。
 イエスの生まれ故郷の人が『うらやむほど』の物持ちで
あった。
 加賀氏は、熱心のあまり「言い過ぎて、結果、嘘となる
事をよく言う人」だが・・、
 イエスは、金銭的に恵まれた富裕者だった。
 日本の行脚(あんぎゃ)の仏教の聖人の様な、『本当の
無一物』で行脚した日本の聖人、宗教人とは全く違う。
 エルサレムの人々からも、「大酒飲み」とか、「大飯食
らい(おおめしくらい)」とかと、蔑(さげす)み言われ
ていた人だった。無一物の姿はまったくない。
 加賀氏も、この事を知っていて、よく言うものだと思う。
 イエスは、エルサレムの人々が羨(うらや)むほどの恵
まれた生活をしていた。
 また、イエスの幼少の頃からを知る故郷・ガリラヤの人
たちは・・イエスの事を・・、
 「予言者とは、うまい事をやってるな」と言っている。
 当時、エルサレムには、収入が多く得られる職業だった
予言者が多く居た。イエスもその一人だった。
 イエスの収入は恵まれ、優雅な生活だった。弟子たちと
の最後の晩餐風な会食はよくやっていたのだろう。外食を
喜ぶ子供ではないが・・、
 また、街の富裕層の人、裕福な生活をしている取税人の
家に上がり込んで飲み食いし、エルサレムの人からの上記
の様な罵声(ばせい)となっていた。
 キリスト教研究者によれば、イエスはやせ細った姿に、
今・現代、印象付けられているが、実際は太っていただろ
うという。
 イエスは、宗教家としての行いもしない、托鉢もしない
人だった。
 逆にいえば、宗教家の行もしない、恵まれた状況に居た
人と言える。
 しかし、キリスト教は、この一切を隠し、嘘の美化まで
して、イエスを偶像化している。
 キリスト教が忌み嫌う「偶像化」をしている。
 キリスト教は偶像崇拝宗教と言える。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /

嘘を言っても・・変えたい宗教・・、

2014-06-24 02:36:21 | 日記
 題:嘘を言っても・・変えたい宗教・・、
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の熱烈な信者である、作家の加賀乙彦氏・・、
 氏は、キリスト教を「砂漠の地で生まれた宗教」と言わ
れる事を嫌っている。
 それで、砂漠の地の宗教ではない、そうではないと言っ
ている・・が、嘘である。
 加賀氏が、砂漠の地の宗教と言われることを嫌う理由は、
 「砂漠の地の宗教が、『民族の生存』を祈った宗教」で、
その為の「民族生存のための殺戮が多い」という理由から
であった。
 しかし、古代の砂漠の地は、飢餓から逃れ得ない地であ
り、飢餓が、たびたび襲(おそ)った。
 当然、民族の生存を賭(か)けた、し烈な戦いが、果て
しなく繰り広げられる地という状態であった。
 また、少ない面積となっている『豊かな沃野』が、奪い
取りの『争いの地』となった。
 甘い蜜の流れる、花咲く沃野。カナンの地もその1つで
ある。
 キリスト教は、この沃野・カナンの地の『奪い取りの歴
史の物語』の宗教とも言える。
 その豊かな地の『奪い合いの戦い』が頻繁(ひんぱん)
に起きていた。
 また、隣国の、『異邦人の富への奪い取りの戦い』も頻
繁に起きていた。
 この地に生まれたキリスト教は・・必然・・、
 その地の民族の『生存をかけた戦い』の『戦勝を祈る宗
教』となった。民族宗教。
 加賀氏は、明らかにある、存在する、キリスト教の『こ
の様なDNA』を・・指摘されるのを・・嫌った。
 キリスト教の根拠地は、砂漠の地・エルサレムというの
は動かし難い事実なのだ。イエスの沃野の論理は排除され
ているのだ・・。
 加賀氏が、何と言おうがが、これは変わる事はない、変
わる事が出来ない。
 加賀氏は言う、「イエスもフランシスコも緑豊かな自然
の中にいた」・・と、加賀氏はそう言いたいのだろう。緑
豊かな地に生まれた宗教・・と、キリスト教がそうだと言
いたいのだろう。
 確かに、緑豊かなガリラヤの地に、イエスは生まれ育っ
た。
 しかし、キリスト教を、事実上、作った人=パウロは、
 その沃野に生まれ育った地のイエスを棄てた。
 パウロは、「イエスの刑死の血」と、「イエスの復活」
だけを使った。そして、エルサレムの宗教がキリスト教と
なった。ガリラヤの沃野の宗教ではない。仏教の様な沃野
の宗教と違う。
 加賀氏が言うところの、「緑豊かな自然の地・ガリラヤ
に生まれ育ったイエス」の、その「イエスの言葉」や、「
イエスの行動」を、パウロは棄てた。
 パウロは、事もあろうに、イエスを食い荒らした。
 今・現代のキリスト教は、このキリスト教である、パウ
ロ・キリスト教なのである。
 加賀氏の言葉は、「詳しく知らない人々」を繰(く)る、
マインド・コントロールるする。
 特に、キリスト教が、異邦人の地に入って行く時・・、
 異邦人の国・ヨーロッパには、「イエスが死んで復活し
たという出来事の使信(パウロの手紙など、使徒の言葉な
ど)を中心とする教義に変容され、これはイエスが、キリ
ストとして、この世に支配する死・罪・悪霊諸力に勝利し
た出来事と解された」。
 そして、イエス・キリストという名前を持ってすぐれた
意味の救済者であるとなった。
 パウロのキリスト教となった。
 キリスト教には、この加賀氏の様な、キリスト教の本当
の事を知りながら、「嘘を言って、不都合なところを繕(
つくろ)う輩が多いから、注意を要する。
 この加賀氏の他にも、関東学院大学の富岡幸一郎教授が、
これと同じ嘘を言っている。
.
 そして、次の話。
 キリスト教には「目には目を」という教義がある。
 「同罪報復」という教義である。
 例えば、目を潰(つぶ)されたら、潰した相手の目を潰
すという・・同罪を、相手に与えて、報復してよい・・と
いう教義である。
 イエスが、十字架刑となって死ぬが、その後、ユダヤ民
族は、キリスト教から、イエスを殺したと、「主殺し」だ
と、長い歴史、あらゆる場所で、殺戮され続けている。
 キリスト教の「目には目を」の、同罪報復の教義だとは
言え、その殺されたユダヤ民族の方々の数は、非常に多い
卑劣さとなっている。
 イエスの死と同罪と言うことなのだが・・、
 同罪どころか・・その熾烈さは・・キリスト教に弁解の
余地はない。
 卑劣な教義を持つキリスト教の・・その執念深さは・・
低劣の極みだ。
 また、その陰湿ぶりは・・筆舌に尽(つ)くせない。
 2000年間、キリスト教は、ユダヤ民族の方々を殺戮し続
けている。
 この他の、この様な事例も、キリスト教は多い。
 次世代に残してはいけない宗教、継いではいけない宗教。
 また、皆様も幸せにはなれません。
..
   (詳しくは、以下のブログへ)
URL:http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009 /