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聖職者が・・ですよ・・??

2014-10-16 13:46:43 | 日記
 題:聖職者が・・ですよ・・??
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 キリスト教の聖書のイエスの弟子たちは・・、
マッタクしょうがない人たちだと、表面的には思う。
 が・・しかし・・、
 その弟子たちについて、キリスト教は言う・・、
 「イエスの十字架の後の復活を見て、初めて弟子たちは、
分かる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされる様になった」・・と。
 「復活の光に照らされた時、初めてイエスの言う神の国
が分かる様になった」・・と。
 そして、キリスト教は、さらに、「つまり」という言葉
でつないで説明する・・、
 「つまり、神の国の中に自分を決定的に見い出す様に、
(イエスに)された」から・・と、
 この説明でお分かりになりましたか?
 キリスト教は、何時も、この様な、中途半端な言い方を
します。
 イエスが、神の国が分かるようにしたと言う・・、
 行為者が分かるが、実際、分からせねばならない神の国
は・・一言も説明しない。
 そして、「だから、イエスの弟子たちが分かる様になっ
たのです」の説明に・・なってない。
 「神の国の中に、自分を見い出す事が、出来ている弟子
たちに出来るようになった」・・とは?
 これも、結果だけを言っているだけで・・、肝心な、ど
うして出来るようになって、その結果、どの様だったなど、
肝心な説明は・・何もしていない。
 「出来るようになりました」・・で、終わっている。
 何時も、キリスト教は『この手の言い方』で、分かる気
になった様にしている。
 錯覚のマインド・コントロールをしている。
 それなのに・・、
 このイエスの復活が分からなかった人は、「神の国」に
入れないと・・、この言葉だけは、明確に、はっきりと説
明する。怖(こわ)い、罰がありますと言う。
 イエスの復活は、神の国への招待ですと言うが・・、分
からない人は、その御招待も駄目となっている・・と。
 そして、キリスト教は、「ウルトラ演技」の様な『言い
訳』を言う・・、
 「復活が、明確に証明できないからこそ・・『信じると
か?」とか、『信じないとか?』とかの・・信仰が、生ま
れるのだ」・・と。
 これは詭弁(きべん)だ。
 「復活があったと、はっきり説明できれば、信じる信じ
ないの話も生まれない」・・と、
 キリスト教は、この様な『観念の遊び』を信仰と称して、
貴重な時間を空費している。まったく時間の無駄だ。
 逆でしょう?・・イエスの復活が、はっきりと説明され
れば皆様が信仰するでしょう。
 当時の状況でさえ、既に、イエスの弟子たちが、復活話
をでっち上げると、公的機関に知られていて・・その対策
が講じられているではないですか・・この復活話は、この
様な、古代の当時でさえ、『眉唾話を見透かされた社会情
勢』だったでしょう。
 イエスが亡くなった頃の状況は、復活があったと騒いだ
のも、当時の公(おおやけ)の機関が、既に、見透かして
いた通りの、『イエスの仲間の人たちだけ』でしょう。
 何ら、エルサレムの街が、こうなったとか、ああなった
とかの話は皆無、何も無いのです。
 ほんのイエスの周囲だけの、一部の話に、終始している
だけではないですか?
 イギリスのキリスト教聖職者の方たちでさえ、報道機関
の調査に、聖職者の過半数の、多くの、多数の聖職者の方
々が・・、
「イエスの復活は信じない」「信じることができない」と
答えています。聖職者が・・ですよ・・?
..
 (詳しくは、以下のブログへ)
  http://blog.goo.ne.jp/hanakosan2009

取りとめなく、書いてみたら・・

2014-10-16 02:59:39 | 日記
 題:取りとめなく、書いてみたら・・
...(真を求めて 皆様とともに幸せになりたい)
.
 本日は、取りとめもなく書いたらどうなるかを、以下に
書きました。
 キリスト教のイエスは、平均寿命が30歳以下という古代
の時代に生きた人である。
 また、この時代は、子供の半分が、15歳になる前に亡く
なってしまうという悲しい時代でもあった。
 この様な時代のイエスが、30歳を過ぎた晩年に、突然、
洗礼者ヨハネの所へ、洗礼を是非して貰いたいと現れた。
 洗礼者ヨハネと言えば、当時、有名な活動家だった。
 ユダヤ教エッセネ派に属し、リーダーとして大きくなっ
て行く人だった。
 より重要な地位に、付くべき人だった。
 しかし、公権力によってその芽は摘まれてしまった。
 彼が所属したユダヤ教のエッセネ派は、弱小集団だった。
 キリスト教とその考え方が似る。
 この様な事があって、キリスト教聖書も、洗礼者ヨハネ
を軽くは扱えず、無視する事も出来ず、しかるべきページ
を割(さ)いて、洗礼者ヨハネを描いている。
 だからと言って、洗礼者ヨハネに信仰のベクトルが向い
ては駄目だと、何かと洗礼者ヨハネが、イエスを立てる演
技をさせる、話をさせる事をしている。
 イエスを奉(たてまつ)る洗礼者ヨハネという図となっ
ている。
 因みに、話はそれるが、イエスを奉るという事で、マタ
イによる福音書の聖書記述者のマタイが、イエスの父親の
ヨセフを、ユダヤ民族の唯一の英雄のダビデまで引っ張り
出して、奉(まつ)り上げた、ダビデのいる救世主の系図
に、イエスと血の繋がっていないイエスの父親ヨセフを、
系図に入れたが?
 これは、マタイの時代は、まだ、「処女受胎のマリア」
の作り話が、まだ、起きていなかったからだ。
 マタイは、イエスが、ヨセフの血の繋(つな)がった息
子だと知っていたのだ。
 ヨセフの実子で、イエスは次男か、3男という本当の視
点で描いたのだ。
 処女受胎の嘘話が頭にあったならば、ややこしくなる父
親ヨセフが、系図に入る話は描かない。
 また、イエスの弟子たちの事ですが・・、イエスに叱ら
れ、イエスの言っている事が、イエスから「まだ、分から
ないのか」とも言われて居た弟子たち。
 この弟子たちが、「イエスの死後、まともになった」と
言われるが、
 この言い方は、一方的に弟子たちに問題があったとして
いるが、これは間違いだ。
 このどうしようもない弟子たちが、師匠が変わったら、
まともになったという事は、イエスに問題があったと言え
る。
 常に、一緒に居たイエスと弟子たち。
 その細かいすべてが分かる間柄になる訳だ、絶対に。
 それがまったく恥ずかしい経過を辿(たど)る。
 イエスの指導に、その問題があったとしか言えない。
 また、指導すべきイエスの言い方や、イエスの性格から
来るその対応に、問題があったのだと言える。
 イエスの性格上の問題があったとも言える。
 そして、奇蹟の話へ・・、古代人は奇蹟の話に驚いて、
言う事をきかすのに都合が良かったのだろう、
 キリスト教は、「奇蹟のオンパレード」「奇蹟の大安売
りの宗教」となっている。
 信仰深い信徒の方でさえ「このすべてが真実だとは信じ
られない」と言う様に、辟易(へきえき)状態となってい
る。
 「人を生き返らせた」「5000人が食べる物を空から降ら
した」「水の上を歩いた」「歩けない人を歩かせた」「盲
人を見えるようにした」「伝道しなくても人に信じさせた」
「風をぴたりと止めた」などなどだ。
 実は、「伝道しなくても人を信じさせた」以外は、聖書
に出て来た奇蹟なのだが・・、
 肝心の「伝道しなくても・・」の奇蹟だけは、出来なか
った奇蹟の様だ。
 この奇跡には、良くも嘘を言うものだと呆れること半分、
怒り半分の状態だ。
 「誠実ではない、この奴め」という思いだ。
 人々を口先三寸で、よくも、詐欺氏まがいに惑わすもの
だと本当に呆れる。
 キリスト教よ! もう、嘘を付くのは止めなさい。
 惑わして、可哀想な方々を作る事は止めなさい。
 キリスト教会の中で「お山の大将になって、好き勝手を
言うのは止めなさい」、正業に付きなさい。
 そして。次の話・・、マグダラのマリアが生まれ育った
マグダラの街と、イエスの生まれ育ったナザレの街は、近
かった。
 因みに、イエスを裏切ったユダの生まれ育ったケリオテ
の街は、イエスやマグダラのマリアの街から遠い南の地に
あった。
 イエスとマグダラのマリアの生まれ育った地は、肥沃な
地で、農作物の恵み豊かな地だった。
 それに引き変えユダのケリオテの街は、死海の際で砂漠
の地・不毛の地であった。
 この風土の違いは大きく精神構成・考え方に大きな違い
を生んだ。
 何かとイエスとマグダラのマリアが気が合ったのも、こ
の同じ気候・風土に生まれ育った事に関係していると考え
られる。
 そこに、過重な税金を弱い民に課税し、ノルマを果たせ
ば私腹を肥やす事の出来た庶民いじめの徴税人(取税人)
が横行した。
 この金持ち取税人の家に上がり込んで、飲み食いするイ
エスだった。
 キリスト教は、こんなイエスを、何だかんだと言って美
化をする。
 信徒獲得のためとはいえ、嘘を付いたり、右のものを左
だと言ったりする事は止めなさい。
..
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