榛名古道

ブログでは「榛名古道」と名乗っています。

今昔マップで辿る古道の変遷 ~スルス峠の道を例に~

2022-05-23 13:12:44 | 榛名古道

「今昔マップ on the web」 は明治時代からの五万分一地形図を現在のものと対照させながら見れるウェブ上の無料のサービスです。様々な用途がありますが、この記事では「今昔マップ on the web」を使って、スルス峠の道を例に古道の変遷を辿ってみたいと思います。ここでの方法論は榛名山に限らず他の地域にも適用できます。

スルス峠の道については以前の記事をご覧ください。


「今昔マップ on the web」で、 日本地図をクリックすると左画面に昔の地形図が白黒で、右画面に現在の地形図がカラーで表示されます。左画面の榛名山のあたりにカーソルを合わせると左画面の右下にこのように表示されます。

1/50000「榛名山」
明治40測図・大正2.11.30発行

これは今昔マップの基になっている五万分一地形図を表しています。明治40年測図というと、上の記事に出てきた二万分一地形図「榛名湖」「榛名山町」「柏木澤」と同じですので、五万分一地形図「榛名山」もそれらと同じデータを基に作成されたと考えられます。

それを裏付けるように、「今昔マップ on the web」でスルス峠付近を拡大して見ると、片方実線片方破線の道が二万分一図「榛名湖」とほぼ同じ形で見えます。目立った違いは二万分一図ではC1の手前で土の崖記号を横断しているのに、五万分一図では横断していないことです(他にも違いがありますが、後述します)。

「今昔マップ on the web」は二万分一図より縮尺は当然粗いですが、二万分一図でカバーされていない地域もカバーされていますし、左の画面で道の表示をカーソルで追うと、右の画面で現在の地形図における位置を知ることが出来るという使い方が出来ます。



ここからはいよいよ「今昔マップ on the web」で時間軸を移動していきます。右画面の右上のメニューの「地理院地図 ⅴ」の「ⅴ」をクリックしてスクロールダウンして

現データセット
 1928~1945年

を選択します。これで右画面が

1/50000「榛名山」
昭和9年要修・昭和15.11.30発行

の図になりました。明治40年が1907年で昭和9年が1934年ですから27年後の図ということになります。

道の表示がが片側実線片側破線から単線の実線に変わりましたが、これは道路の地図記号の図式が変更されたからで、昭和9年図では道幅1m以上2m未満の道を単線の実線で表示するようになったのです。片側実線片側破線として表示されるのは道幅2m以上3m未満の道です(「登山者のための地形図読本」97ページ)。

明治40図と昭和9図におけるスルス峠の道を比べてみますと、大きな違いが3カ所に見つかります。

一、等高線480m付近(黒髪神社と物見塚の間)

二、等高線840m付近(ガラメキ温泉付近)

三、等高線1120付近(スルス峠付近)

順に見ていきます。

一、等高線480m付近

明治40図では黒髪神社からスルス峠に向かう道に分岐は描かれていないが、昭和9図では松原からの新しい道(2m以上3m未満)が出来ており、元々の黒髪神社からの道(1m以上2m未満)より太い。

ここからは「スルス峠の道の起点はどこか?」という話になります。黒髪神社を起点とすることもできますが、スルス峠の道を物資輸送の道と考えたとき、その物資はもっと麓からやって来ているわけで、このブログでは起点を下小鳥にある三国街道の道標とします。

三国道の道しるべ

「三国街道」は公儀(幕府)が整備した道であり、ルートが明確に定義できます(公儀の道は群馬県内にほかに中山道と日光例幣使街道があります)。一方、「伊香保街道」や「信州街道」といったものは「街道」と名が付いていも俗称であって、始点・終点やルートに複数の解釈があり、明確に定義できるものではありません。前述の黒髪神社は伊香保街道の一ルートからスルス峠の道が分岐する地点ですが、伊香保街道自体の定義が揺れていることもあり、このブログでは起点とは捉えません。

その伊香保街道からの分岐の手前、黒髪神社の東南に柏木宿(柏木沢の宿)があります。現地に建っている「柏木宿の由来」という案内板には

「[柏木宿の]繁昌は明治二十六年(一八九三)高崎―金古―渋川間に馬車鉄道が開通し、旅人の流れが急速に変わるまで続いた」

とあります。この旅人の流れの変化に伴い、柏木宿の物資輸送の中継地点としての役割も低下していったものと考えられます(「急速に」と言う割には明治40図ではその変化が反映されてるように見えませんが、旅人の流れと物資輸送の流れにはタイムラグがあったのかもしれません)。そして柏木宿が担っていた機能は、この付近の中心地である箕輪町の西明屋に代わられた。・・・こんなふうに考察していくと、昭和9図における松原からの新しい道は、そうした物資輸送の流れの変化を表しているものと読み取れます。

まとめますと、もともと

下小鳥(三国街道道標)=>柏木宿=>黒髪神社=>ガラメキ温泉付近=>スルス峠

と通っていた人や物資の流れが、柏木宿の衰退の結果、昭和9年頃までには

下小鳥(三国街道道標)=>西明屋(箕輪町の役場がある)=>松原=>ガラメキ温泉=>スルス峠

と流れが変わったことが読み取れるのではないかと思います。

二、等高線840m付近

明治40図ではスルス峠の道からガラメキ温泉へは支線(脇道)へ入るように描かれているが、昭和9図ではスルス峠の道がガラメキ温泉を通っているように描かれています(二万分一図「柏木澤」では両方の道が描かれている)。

「群馬縣群馬郡誌」

のガラメキ温泉の項にこうあります。

「泉質は鹽類泉にして、先年分析の結果、慢性僂麻質私・疝痛・神經痛其の他慢性皮膚諸病に効驗あること明らかなりしを以て、一層の入浴者を增加し益々盛運に趣けり。 」

大正14年発行ですから、「先年」というのは大正後期と思われます。ガラメキ温泉は主に麓の農民が農閑期に利用していたと聞いています。スルス峠の道を通って物資を運ぶ人は当初ガラメキ温泉をバイパスしていたものが、先のように温泉の利用客が増えたことにより、物資を運ぶ人もガラメキ温泉で荷の上げ下ろしをしたり温泉で休憩するようになったと考えれるのではないでしょうか。

三、等高線1120付近(スルス峠付近)

明治40図のスルス峠の標高を示す「1129」の数字の右の「1」の文字のすぐ上にある曲がった線は道とも等高線ともとれます(二万分一図「榛名湖」ではそこに道はなく、道は標高を示す数字に隠れていますが鞍部を通っているように見えます)。昭和9図では道がありますが、明治40図の曲がった線より僅かに東にあるように見えます。

このことに気づかれたブログの読者の方が現地を調査して大発見をなさったのでコメントから引用させていただきます。

長くなりますが、一つ新たな疑問が沸きました。 
かつてのスルス峠から下りの取り付き口は、現在多くの人が入る所ではなく、もっと東の東屋がある近辺であったのではないか?
貴兄から教えてもらった今昔マップや陸軍の地図等を眺めていると、どうもルートが違う!と。

(中略)

 一昨日・昨日と「峠の古道」探索に行って来ました。

(中略)

 まず「峠の下り入口」は別にもありました。(2箇所?)
現在多くの人が入るところから、尾根筋を東へ20m位上った所に、崩落防止のための階段状の石積みがあります。そこの左側に東側へ緩やか入っていく道があります。踏み跡はなく、笹原ですが、樹木もなく地形的に約2m位の幅の平らな道の跡が続いています。そして50m位進むと、左側の斜面の上に「馬頭尊の石碑」(明治32年建立;世話人5名と外馬持連中)があります。地形図上「スルスのス」の岩の北、標高約1113mにありますが、道よりかなり高所にあるので大概見落とすでしょうが、その数m先に、左斜面から下ってきて、石碑の後ろを通って合流してくる道があります(ここも歩いたので石碑に気づきました)。こちらの道は、あずまやと石積みの間で、「関東ふれあいの道の道標」(左;ヤセオネ峠・右;榛名神社)が立っている場所からです。道標の後側へ立ち入っていく左へ進む道がみつかります。
こちらは下り坂ですが道幅は十分にあります。

(中略)

そもそも、荷駄を積んだ馬を通すには、1間(1.8m)位の道幅がないと厳しいでしょうし、主たる街道なら、すれ違いが生じた時に、道を譲るために安全に退避できる地形であること(道の左右の斜度が大きくないこと)。そう考えると、現在スルス峠としてメインルートとなっている西側の下り口は、荷駄馬には不向きだった!と思います。

(以下略) 。

明治32年の石碑と、その前と後ろに二本の広い道を発見されました。

今昔マップにこじつけると、石碑の前のルートが明治40図の曲がった線で、石碑の後ろのルートが昭和9図となると思います。そして、それらと二万分一図「榛名湖」との違いには二つの可能性があると思います。

可能性A

二万分一図に反して、最初から道は石碑の前のルートを通っていた。人馬の交通量が増えたので更に広い道にするために上り下りのある石碑の後ろに付け替えた。

ただ、昔の人が「遠くからも目標にしやすい鞍部」ではない別の場所に道を通したとは考えにくいと思います。

可能性B

もともと鞍部に付けられていた道を、人馬の交通量が増えるにしたがってより広い道を通せる場所に二度にわたって付け替えた。

石碑が建てられた明治32年に最初の付け替えが行われていたが、二万分一図には反映されなかった。



スルス峠の道探索図2

2021-11-04 12:11:22 | 榛名古道
  |    
  O―――Q S           V          
         \        / | 
          ―谷―T―U―   
              |        
                      | 
                    ロ  |  
                    |  |    
                    ニ―ハ     
                    |         
                    |          Y  
                           /                                    
凡例:
「|」「―」「/」「\」:踏み跡が明確な区間及び、踏み跡は不確かだがテープ目印の誘導するルートが明確な区間。
「‥」と「:」:踏み跡が不確かでテープ目印もない区間。
谷:小さな涸沢を渡る箇所。
ガリ;この付近によくある、谷とも言えない草付きの溝状の地形(ここではガリと呼ぶ)を渡る箇所。
◇:「保安林」という文字のある黄色い標識。榛名山では古い道沿いに建てられていることがあり、スルス峠の道沿いにも3本発見できた。なお、クタビレ爺イさんによるともう1本あるようだが、私は発見できなかった。おそらく図1の「K地点」付近と思われる。
青字:「スルス峠」から「右京の泣き掘り(右京の無駄掘り)」及び「ガラメキ温泉」に至る現行の道。青い目印テープと、赤系の色で光を反射する目印テープが多い。
O:現行道が青い目印テープで左折して夕日河原A渓谷へ直進するのに対して、右斜め前に曲がる踏み跡がある。
緑字:現行道でも古道でもない踏み跡や印の付いているルート。
P:踏み跡はすぐに不確かになり探索できなかった。
Q:現行道が夕日河原A渓谷の右岸の段差を下って河床に到達する。幅の広い涸沢であり、徒渉点は僅かに上流にある。
赤字:私が探索できた「スルス峠の道」。
R:現行道の徒渉点。右岸に「保安林」という文字のある黄色い標識や、青と黄色の目印テープがある。古道の徒渉点であるC1はここより上流ではないかという説もあるが、「R」地点からは現行道と古道が一致すると思われるので赤で表記する。
S:道の左側に炭焼き窯跡がある。
T:丁字路だが左折する踏み跡もあるので十字路に見える。
「丁字路」「炭焼き窯跡」「夕日河原A渓谷」は下のクタビレ爺イさんのブログの中ほどに写真がある。私のブログとは逆に下から上に進んでいる。

U:右岸が崩れている谷。対岸には斜めにスロープ状の道がついている。
V:夕日河原B渓谷(涸沢)を回り込みながら渡る。(今昔マップでは等高線1020-1030m)
W:ガリの中を通っている。
X:右側に植林帯が現れるころから道が太くなる(道が今も林業で使われているからと思われる)。間もなく道の左に赤とピンクの目印のテープがあり、「ハ地点」への下降点を示している。
Y:「X地点」から長い距離を下り、「Z地点」を目視できるほどの間近にある三叉路。右は風穴への道(今昔マップでは二重破線)だが、すぐに植林帯の中に入るので辿りにくいと思われる。もし辿れれば下のクタビレ爺イさんの迂回路以上に近い、県道28号からガラメキ温泉への最短コースとなるのだが。
Z:相馬山と鷹ノ巣山との鞍部(前述のように私は「プリン掬い峠」と呼んでいる)。探索できたのはここまでだが、以降も明確な道が続いているのが見えた。なお、今昔マップでは等高線890m付近で沢(前述の「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」では「中河原」と呼ぶ)を渡渉して以降は現在の地形図に表示されている車道(現地では未舗装の林道)とほぼ一致する。
イロ間:
クタビレ爺イさんの別のブログの中ほどにあるように、

ヤブ化していて探索では辿れなかった。
ハ:「X地点」から植林帯の中を南南西に一直線に降ると夕日河原B渓谷(涸沢)の左岸に出る。渡って右岸の土手を登る青い目印を辿ると「ニ地点」。
ニ:イロ間を下ってきた道と、「ハ地点」から土手を登ってきた青い目印が出会う。
ホ:右岸の土手の上をしばらく下流に行くと、目印は右折して夕日河原A渓谷とB渓谷の間の一段高いヤブに覆われた地帯を横断する。青い目印に従ってA渓谷の左岸の土手から降ると、正式には夕日河原4号堰堤というデ・レイケ堰(デ・レーケ堰)がある。

スルス峠の道探索図1

2021-11-04 11:38:53 | 榛名古道
スルス峠
| |    
| A―――――――B―――――――C
|  ED――――――――――――
|  ‥‥‥F
|      :
― α―   ‥‥Gガリ
  |             |
  |    β         
               |
        ―K――J    I(EYE)
         |   |   |
        |  |   ―――
        |  ――L   
        |  M  
        |  :
        | /
        N              
        |           
        O  
凡例:
「|」「―」「/」「\」:踏み跡が明確な区間及び、踏み跡は不確かだがテープ目印の誘導するルートが明確な区間。
「‥」と「:」:踏み跡が不確かでテープ目印もない区間。
谷:小さな涸沢を渡る箇所。
ガリ;この付近によくある、谷とも言えない草付きの溝状の地形(ここではガリと呼ぶ)を渡る箇所。
碑:ブログの読者の方が発見した明治32年の馬頭尊の石碑。石碑の前と後ろに二本道があり、物資を運ぶ馬が通ったのは鞍部ではなくこの石碑の前後だったようです。スルス峠の道探索図2のコメントや下の記事をご覧ください。
青字:「スルス峠」から「右京の泣き掘り(右京の無駄掘り)」及び「ガラメキ温泉」に至る現行の道。青い目印テープと、赤系の色で光を反射する目印テープが多い。
α:「右京」に下る道から「ガラメキ」に下る道が右に分岐する丁字路。青とピンクの目印がある。
β:「α地点」からは探索できなかったが、「K地点」から白い目印テープが左上方向に続いているのを見た。
赤字:私が探索できた「スルス峠の道」。
A:「右京」に向かう現行道(峠から南南東)の右隣りを並行するが、すぐに踏み跡はササヤブの中で左(東南東)に曲がる(C9)。
B:ササヤブの中に青い目印テープが現れる。
C:馬を通すための敷石が長い区間敷かれている。道は西南西に切り返し(C8)、その後目印テープはなくなる。
D:大雨で崩れたと思われるガレ場の先で踏み後が不確かになる。
E:正面(西)に見える小尾根(二万五千分の一地形図で「するす」の「る」の文字がある岩の基部と思われる)の手前で切り返す(C7)ようだが、不確か。
F:ヤブの中に再び敷石が現れるが、区間は短い。その後、踏み跡に誘われて右折して道を見失う。
緑字:古道を見失って辿った別の踏み後。C6とC5をショートカットしているらしい。「谷」はA3か。
G:踏み跡はガリの中を通っているらしいのだが、不確か。
H:先ほど渡ったガリと並行な明確な道に出会う。古道に再会したと思っている。
I(EYE):崖の上から夕日河原A渓谷を見下ろせる。「1050」の等高線が四角く凹んでいる辺りだと思われ、崖下に拡がる広い谷が壮観である。ここがC4だと思っている。C4だったとして、切り返した後、C3は左曲がりのはずだが、踏み跡に誘われて直進して再び古道を見失っている。
J:ガリの左岸で右折して左岸を少し遡り、ガリが(上流を向いて)左に曲がる辺りでガリの中に入り、次にガリが右に曲がる際に直進してガリを出る。Hの直前で渡ったガリと同じガリの下流部分かもしれない。
K:直進は白い目印テープが続いている。方向から予想するに「右京」を通り過ぎて「α地点」に至ると思われる。
L:Jのガリと並行に(少し下流に戻るように)進んだ後、そのガリの右岸にある白の目印で反転する。
M:正面(西)に見える、岩で終わる小尾根の手前の平地辺りで左折するらしいのだが、不確か。
N:「α地点」からの道に「β地点」からの踏み跡が合わさる。その辺りで右(西)の崖下から沢の水音が聞こえる。

榛名山のスルス峠について

2021-11-04 11:12:42 | 榛名古道
「スルス峠」は榛名湖と旧箕郷町(現高崎市)を結んでいた峠です。麓から峠に至る道は今では廃道と化している区間があり、それだけに探索のしがいがあります。

明治時代以降に盛んに使われた道ですが、自動車が物流の主役を担う以前の道という意味で、私のブログでは「古道」として扱います。

なお、地形図では「磨墨峠」の表記ですが、「摺臼峠」や他の表記もされることがあり、私のブログでは「スルス峠」で統一させていただきます。



このブログにまとめたきっかけはクタビレ爺イさんのブログでの山はこれからさんのコメントです。

Unknown (山はこれから)
2021-05-15 01:21:43
(略)それから、スルス峠から表口石標までの山を巻くルートが不明です。
少々話が逸れますが、土屋文明氏が高崎中学時代の習作で「枯野抄」という作品が、ガラメキ温泉が舞台で、高崎からガラメキへ向かう途中、松之沢へ迷い込みやすい、とか、温泉湯の描写、温泉からスルス峠、とか、往時の様子を伺い知ることができます。

私が複数回の探索を行ったところ、スルス峠から表口石標までのルートがだいぶ分かってきました。後述するように遺跡として馬を通すための敷石が二か所発見できました。




「群馬県歴史の道調査報告書第二〇集 信仰の道」

「奈良文化財研究所」の中の「全国遺跡報告総覧」
で読むことができます。

55ページから111ページが榛名山に関する部分ですが、特に57,62-65,85,90-92ページが黒髪山表口登拝路を扱っている箇所で、スルス峠の道とも重なっています。

ちなみにこのシリーズ「歴史の道調査報告書」は各都道府県ごとに作成されており(群馬県は全二十集)、古道探索愛好家にとって情報の宝庫です。道だけでなく周辺の石造物なども載っています。

榛名山の古道という点では同シリーズの「三国街道」、「信州街道」、「吾妻の諸街道」も見ておくとよいと思われます。特に、後述するように本ブログではスルス峠の道の起点を下小鳥にある三国街道の道標としていますので、起点に関しては「信仰の道」より「三国街道」の方が詳細です。

「良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 44」
スルス峠を扱った資料ではありませんが、「相馬山・黒岩県自然環境保全地域」の38-39ページに榛名湖付近の開発史が短く載っています。

「榛名湖は古来榛名神の「みたらし沼」として不入の地とされていた」
「1884年(明治17年)には沼ノ原に榛名牧場ができいてる」
「蚕種飼育・採氷・養魚を目的として榛名湖畔に人が住みつくようになったのは明治20年代」

これらから、後述する二万分一地形図図に見えるような、馬道としてのスルス峠の道が整備されたのは明治20年頃以降のことではないかと考えられます。

前橋及高崎近傍17号(共17面)
大日本帝国陸地測量部/編 -- 大日本帝国陸地測量部 -- 〔1910〕 --
明治四十年測図の二万分一地形図を群馬県立図書館がデジタル化した資料です。

県内全域はカバーしていませんが、スルス峠の道はHTML版では005「榛名湖」、008「榛名山町」、009「柏木澤」に載っています(PDF版も同様)。

その「榛名湖」の図の右下の隅を拡大すると、スルス峠を通る片側実線片側破線の道が下のような形に見えると思います(地形図における道の表示は、先の「枯野」にある荷を載せた馬が通ったという記述とも整合します)。「C〇」はこのブログで便宜上使うカーブの番号で、「∃」は土の崖の記号です。

\  / — C8
 C9  / 
  C7――
      \ 
       C6
      /
     C5
      \
       C4   
       /                 ∃
      C3    C1 ∃ 
       \  / |∃
        C2  ∃\ 

「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」
こちらもスルス峠を扱った資料ではありませんが、このブログで使う地名の多くはここから取っています。代表的なものが「夕日河原A渓谷」と「夕日河原B渓谷」です。夕日河原A渓谷は二万五千分の一地形図における「磨墨峠」と「相馬山」の文字の間の「1207」の文字の辺りを源頭とする谷/沢で、標高980メートル付近の十字渓の下流も含みます。B渓谷はA 渓谷の東側を並走して標高900メートル付近で合流する谷/沢です。A渓谷とB渓谷の合流後は「黒岩川」とも「榛名白川」とも呼ばれます。その黒岩川が標高650メートル付近で合流する沢が「中河原」で、中河原の方を「榛名白川」と呼んでいる資料もあります。中河原に標高600メートル付近で合流する沢が「栗の木沢」です。「榛名白川」は狭義では中河原と栗の木沢の出合より下流を指します(「詳説デ・レイケ堰堤ガイドブック」40ページ)。

先ほど拡大した「榛名湖」の図に戻ります。「1050」の等高線を見ますと、スルス峠(鞍部)からダイレクトに続く谷が等高線の凹みとして表現されています。この谷をA渓谷の支流ということで「A1」とします。同じ「1050」の等高線を東にみていくと、「A1」と、本流であるA渓谷との間に凹み(=谷)が三か所あることがわかります。それぞれの谷を「A2」「A3」「A4」とします。カーブ番号と合わせて見ますと、C1はA渓谷の徒渉点、C2とC3付近ではA4がどこなのか不詳ですが、C4、C5、C6はA3とA4の間にあるように見え、C6とC7の間で道はA3を渡り、C8とC9の間でA2の源頭部を通って、C9の右曲がりででA1の源頭である鞍部に到達しています。

山はこれからさんがおっしゃっている土屋文明の「枯野」も収録されていまし、他にも榛名湖の氷切りの話など、明治から昭和初期にかけての榛名山での人々の暮らしぶりがうかがえます。

「群馬の峠 西北の地 三山の地」岩佐徹道
の120ページ。

カツギ屋がスルス峠を通って物資を担ぎ上げたり、榛名湖の氷を馬で降ろしたりしていた話や、箕郷の子供がスルス峠を通って榛名湖までスケートをしに行った話が載っています。

「プリン掬い峠」について:

「スルス峠」から麓に向かって下ってゆくと、相馬山頂から南に垂れる尾根と鷹ノ巣山から北に垂れる尾根がつくる鞍部(標高920-930メートル付近)を通ります。私はこの鞍部のことを「プリン掬い峠」と呼んでいます。なぜなら、私の住んでいる麓から見ますと、相馬山から鷹ノ巣山にかけての稜線がつくるカーブの上にちょうど榛名富士が乗っかって見えるからで、スプーンでプリンを掬う様子に見立てているのです。

こちらのPIXTAさんの写真で説明しますと、左寄りに写っている最も高い山が相馬山、その左が榛名富士、さらにその左が鷹ノ巣山です。



以上、長々と述べてきました。探索図は別記事にしました。