「今昔マップ on the web」 は明治時代からの五万分一地形図を現在のものと対照させながら見れるウェブ上の無料のサービスです。様々な用途がありますが、この記事では「今昔マップ on the web」を使って、スルス峠の道を例に古道の変遷を辿ってみたいと思います。ここでの方法論は榛名山に限らず他の地域にも適用できます。
スルス峠の道については以前の記事をご覧ください。
「今昔マップ on the web」で、 日本地図をクリックすると左画面に昔の地形図が白黒で、右画面に現在の地形図がカラーで表示されます。左画面の榛名山のあたりにカーソルを合わせると左画面の右下にこのように表示されます。
1/50000「榛名山」
明治40測図・大正2.11.30発行
これは今昔マップの基になっている五万分一地形図を表しています。明治40年測図というと、上の記事に出てきた二万分一地形図「榛名湖」「榛名山町」「柏木澤」と同じですので、五万分一地形図「榛名山」もそれらと同じデータを基に作成されたと考えられます。
それを裏付けるように、「今昔マップ on the web」でスルス峠付近を拡大して見ると、片方実線片方破線の道が二万分一図「榛名湖」とほぼ同じ形で見えます。目立った違いは二万分一図ではC1の手前で土の崖記号を横断しているのに、五万分一図では横断していないことです(他にも違いがありますが、後述します)。
「今昔マップ on the web」は二万分一図より縮尺は当然粗いですが、二万分一図でカバーされていない地域もカバーされていますし、左の画面で道の表示をカーソルで追うと、右の画面で現在の地形図における位置を知ることが出来るという使い方が出来ます。
ここからはいよいよ「今昔マップ on the web」で時間軸を移動していきます。右画面の右上のメニューの「地理院地図 ⅴ」の「ⅴ」をクリックしてスクロールダウンして
現データセット
1928~1945年
を選択します。これで右画面が
1/50000「榛名山」
昭和9年要修・昭和15.11.30発行
の図になりました。明治40年が1907年で昭和9年が1934年ですから27年後の図ということになります。
道の表示がが片側実線片側破線から単線の実線に変わりましたが、これは道路の地図記号の図式が変更されたからで、昭和9年図では道幅1m以上2m未満の道を単線の実線で表示するようになったのです。片側実線片側破線として表示されるのは道幅2m以上3m未満の道です(「登山者のための地形図読本」97ページ)。
明治40図と昭和9図におけるスルス峠の道を比べてみますと、大きな違いが3カ所に見つかります。
一、等高線480m付近(黒髪神社と物見塚の間)
二、等高線840m付近(ガラメキ温泉付近)
三、等高線1120付近(スルス峠付近)
順に見ていきます。
一、等高線480m付近
明治40図では黒髪神社からスルス峠に向かう道に分岐は描かれていないが、昭和9図では松原からの新しい道(2m以上3m未満)が出来ており、元々の黒髪神社からの道(1m以上2m未満)より太い。
ここからは「スルス峠の道の起点はどこか?」という話になります。黒髪神社を起点とすることもできますが、スルス峠の道を物資輸送の道と考えたとき、その物資はもっと麓からやって来ているわけで、このブログでは起点を下小鳥にある三国街道の道標とします。
三国道の道しるべ
「三国街道」は公儀(幕府)が整備した道であり、ルートが明確に定義できます(公儀の道は群馬県内にほかに中山道と日光例幣使街道があります)。一方、「伊香保街道」や「信州街道」といったものは「街道」と名が付いていも俗称であって、始点・終点やルートに複数の解釈があり、明確に定義できるものではありません。前述の黒髪神社は伊香保街道の一ルートからスルス峠の道が分岐する地点ですが、伊香保街道自体の定義が揺れていることもあり、このブログでは起点とは捉えません。
その伊香保街道からの分岐の手前、黒髪神社の東南に柏木宿(柏木沢の宿)があります。現地に建っている「柏木宿の由来」という案内板には
「[柏木宿の]繁昌は明治二十六年(一八九三)高崎―金古―渋川間に馬車鉄道が開通し、旅人の流れが急速に変わるまで続いた」
とあります。この旅人の流れの変化に伴い、柏木宿の物資輸送の中継地点としての役割も低下していったものと考えられます(「急速に」と言う割には明治40図ではその変化が反映されてるように見えませんが、旅人の流れと物資輸送の流れにはタイムラグがあったのかもしれません)。そして柏木宿が担っていた機能は、この付近の中心地である箕輪町の西明屋に代わられた。・・・こんなふうに考察していくと、昭和9図における松原からの新しい道は、そうした物資輸送の流れの変化を表しているものと読み取れます。
まとめますと、もともと
下小鳥(三国街道道標)=>柏木宿=>黒髪神社=>ガラメキ温泉付近=>スルス峠
と通っていた人や物資の流れが、柏木宿の衰退の結果、昭和9年頃までには
下小鳥(三国街道道標)=>西明屋(箕輪町の役場がある)=>松原=>ガラメキ温泉=>スルス峠
と流れが変わったことが読み取れるのではないかと思います。
二、等高線840m付近
明治40図ではスルス峠の道からガラメキ温泉へは支線(脇道)へ入るように描かれているが、昭和9図ではスルス峠の道がガラメキ温泉を通っているように描かれています(二万分一図「柏木澤」では両方の道が描かれている)。
「群馬縣群馬郡誌」
のガラメキ温泉の項にこうあります。
「泉質は鹽類泉にして、先年分析の結果、慢性僂麻質私・疝痛・神經痛其の他慢性皮膚諸病に効驗あること明らかなりしを以て、一層の入浴者を增加し益々盛運に趣けり。 」
大正14年発行ですから、「先年」というのは大正後期と思われます。ガラメキ温泉は主に麓の農民が農閑期に利用していたと聞いています。スルス峠の道を通って物資を運ぶ人は当初ガラメキ温泉をバイパスしていたものが、先のように温泉の利用客が増えたことにより、物資を運ぶ人もガラメキ温泉で荷の上げ下ろしをしたり温泉で休憩するようになったと考えれるのではないでしょうか。
三、等高線1120付近(スルス峠付近)
明治40図のスルス峠の標高を示す「1129」の数字の右の「1」の文字のすぐ上にある曲がった線は道とも等高線ともとれます(二万分一図「榛名湖」ではそこに道はなく、道は標高を示す数字に隠れていますが鞍部を通っているように見えます)。昭和9図では道がありますが、明治40図の曲がった線より僅かに東にあるように見えます。
このことに気づかれたブログの読者の方が現地を調査して大発見をなさったのでコメントから引用させていただきます。
長くなりますが、一つ新たな疑問が沸きました。
かつてのスルス峠から下りの取り付き口は、現在多くの人が入る所ではなく、もっと東の東屋がある近辺であったのではないか?
貴兄から教えてもらった今昔マップや陸軍の地図等を眺めていると、どうもルートが違う!と。
貴兄から教えてもらった今昔マップや陸軍の地図等を眺めていると、どうもルートが違う!と。
(中略)
一昨日・昨日と「峠の古道」探索に行って来ました。
(中略)
まず「峠の下り入口」は別にもありました。(2箇所?)
現在多くの人が入るところから、尾根筋を東へ20m位上った所に、崩落防止のための階段状の石積みがあります。そこの左側に東側へ緩やか入っていく道があります。踏み跡はなく、笹原ですが、樹木もなく地形的に約2m位の幅の平らな道の跡が続いています。そして50m位進むと、左側の斜面の上に「馬頭尊の石碑」(明治32年建立;世話人5名と外馬持連中)があります。地形図上「スルスのス」の岩の北、標高約1113mにありますが、道よりかなり高所にあるので大概見落とすでしょうが、その数m先に、左斜面から下ってきて、石碑の後ろを通って合流してくる道があります(ここも歩いたので石碑に気づきました)。こちらの道は、あずまやと石積みの間で、「関東ふれあいの道の道標」(左;ヤセオネ峠・右;榛名神社)が立っている場所からです。道標の後側へ立ち入っていく左へ進む道がみつかります。
こちらは下り坂ですが道幅は十分にあります。
こちらは下り坂ですが道幅は十分にあります。
(中略)
そもそも、荷駄を積んだ馬を通すには、1間(1.8m)位の道幅がないと厳しいでしょうし、主たる街道なら、すれ違いが生じた時に、道を譲るために安全に退避できる地形であること(道の左右の斜度が大きくないこと)。そう考えると、現在スルス峠としてメインルートとなっている西側の下り口は、荷駄馬には不向きだった!と思います。
(以下略) 。
明治32年の石碑と、その前と後ろに二本の広い道を発見されました。
今昔マップにこじつけると、石碑の前のルートが明治40図の曲がった線で、石碑の後ろのルートが昭和9図となると思います。そして、それらと二万分一図「榛名湖」との違いには二つの可能性があると思います。
可能性A
二万分一図に反して、最初から道は石碑の前のルートを通っていた。人馬の交通量が増えたので更に広い道にするために上り下りのある石碑の後ろに付け替えた。
ただ、昔の人が「遠くからも目標にしやすい鞍部」ではない別の場所に道を通したとは考えにくいと思います。
可能性B
もともと鞍部に付けられていた道を、人馬の交通量が増えるにしたがってより広い道を通せる場所に二度にわたって付け替えた。
石碑が建てられた明治32年に最初の付け替えが行われていたが、二万分一図には反映されなかった。
高崎から「物見塚」へのルートとして、「小鳥」から先、「井出~保渡田~柏木宿・黒髪山神社」経由と、「浜川~箕輪(西明屋・東明屋)~松原」経由と、どちらが主だったか?あるいは両道併用か?という疑問は持っていましたが、疑問のままで、時代の変遷では考えませんでした。(前橋からなら金古~黒髪山神社ルート=宿は通らない。になるので、併用的?と軽く考えていました。)こちらもまだまだ調べて見るべき課題ですね。
今、峠~A渓谷の道探しに、集中しているのですが、貴兄の以前にブログ記の内容がやっと解ってきたところですが、まだまだ「?」な地点があります。
まず、A1~A4に確信が持てないこと!
A1とは、右京の沢で、A4は、大林氏のいう夕日河原A渓谷。でよいのでしょうか? それでもA2とA3は、ワタシには確信が持てない😨のです。A3は、現行メイン道が、A渓谷の渡渉点(右岸に黄色い標識、左岸に炭焼窯跡)へ出る直前に越える小谷のことでよいでしょうか?(とするとA2は、笹原の中を南方向へ走ってA渓谷へ出るガリ(対岸の川原に3号堰堤がひっそりある)。
もうひとつ、「C9~C1」は陸軍地図に基づいていると思われますが、この地図には、等高線の表記に誤謬がありますね(よりによって、このルートの所)。この地図は、道筋が詳しいので、とても参考になるのですが、CとCの間隔(特に下部)は、正しくないのでないか?と。
ともあれ、やっとのこと、貴兄の記の内容がずいぶん理解できてきたと思うのですが、このルートに3回挑戦してみても、まだまだ不明点があり、お聞きしたいことがたくさんあります。
・C8とC7の間に切り返しがあるみたい。
・C6地点が不明(ガリより東?)。
・A渓谷の渡渉点やや下流右岸の黄色い標識の上の台地にある道跡とガリ。その台地への取り付き。等。
我ながら、細々としつこいなあ!と思うのですが、もう少し、お聞きしてもよろしいでしょうか?
A4は、AA渓谷ではなく、凹というか凸というかの西の方の角ですね。実際に見ても、沢というには微妙な所ですね😨。
A4は、本流のA渓谷ではなく、凹というか凸というか?の西の側の角ですね(本流は東の角)。
実際に見ても、沢というには微妙な所ですね😨。
湖畔側から見ると、稜線近くの傾斜地は広葉樹林になっていますが、関東ふれあいの道の案内標識の所だけ、広い笹原になっています。(下部は灌木が生えていますが)
なぜ、ここだけ? と考えました。以下仮説です。
湖畔から稜線へは、この笹原部を上ってきていた。そして、10mほど西側へ下って、現石積の辺りから東方へ折り返すように斜度の少ない下り道へ入っていた。
しかし、西側へ回らないで、現在の案内標識の裏側へ直進し、馬頭尊石碑の後ろへ下ると、下り坂にはなるが、僅かにショートカットになる。近道したいのは人間の性で、こちらを使う人馬もたくさんいて、自然と道になり、両道になった。という想像です。
ここだけ笹原なのは、そう遠くない最近まで、樹木を伐っていて、沼の原からスルス峠への道とされていたのでは?とも思えなくもない。
広大な公有地内容のこと、道の多少の異動は問題にはされなかったでしょうし、道の整備・保全は、関係者による奉仕作業であったことでしょう。山麓の里のワタシの地区では、現在の地区住民による道路愛護・道路清掃活動のことを、祖父母世代までは「道こせえ(拵え)」と、あたかも道を作るかのような呼び方をしていました。
それに、今昔マップでは「1129」の数字に掛かっていてハッキリしませんね。等高線のようにも見えますし。
現況は?ですが、前記の2箇所と鞍部から左折していくルートと、どれも旧道と言える道幅がありますね。鞍部からは、一部崩落がありますが、崩落止め石積みの下を抜けて、石積み左からも道と合流して(C9辺り)、馬頭尊石碑に向かって行きます。石積み補修箇所の崩落の時期も含めて要検討ですね。
今日も懲りずに下って&上ってみて、C6とC5ではないか?と思われる折り返しまで、約1間幅の道らしき跡がありました。深い谷の左岸(東)でガリより手前(西)。C6がガリ内、あるいはガリの左岸(東)とするのには、この辺りでガリへ入るのに、ガリ右岸の小土手を上って越えねばならず、土手にそれらしい箇所がない。南西からの道を折り返して続く道(に見える)があったので、C6に想定。
その先、左へ折り返し(C5に想定)、小ガリになり、小沢っぽくなって、以後不明。
渡らなかったガリの下流の右岸に木が繁った小丘があり、さらに東側には、道っぽいガリが分岐しているのだが・・・、そことの繋がりが見えない。
[A渓谷渡渉地点から(下から見て)]
A渓谷の右岸、現行渡渉点の少し下流(=炭焼窯の対岸)の「黄色い標識」の崖の上には、明らかに道跡と見える所がありますが、渡渉点右岸からの取り付きがわからない。崩落によって消えたのでしょうが、どこから取り付いたか?
現行道のA渓谷右岸には、不思議なことに、(上り側から見て)標識を上ると、ここだけ「道が広い!」所がある。この道は、右側の台地を回り込んで、A3?の谷の左岸の侵食崖を上流方向へ進んでから右岸へ渡り、その先は右京方面や鞍部への現行のメイン道になっています。
そして、この谷の渡渉地点の右岸の台地上は、C6付近から続くガリになっていて、小崩落しています。
この広い道の回り込みが「C2」なのかも?
[3つの候補]
①回り込んだ先で、沢(谷)の右岸(現行道の狭い箇所)から上のガリへ上る道があったのが、侵食・崩落して消えた。
②回り込む所から台地へ取り付いた。(斜面を2回折り返しながら上ることが可能な道跡とも見えなくもない筋がある)
③黄色標識辺りから少し上流から台地上の道跡へ取り付いた。(C2は台地上になるかも)
[問題点]
①だと、台地上のガリの左岸(A渓谷寄り)にある道は何?
②では、台地へ上る折り返しが、険しすぎるように思える。本当に道?という疑念も。
③台地上にあって、崩落で途切れている箇所との間の高度差が大きい。道があったのなら、A渓谷による相当量の侵食・崩落があったとしなければ、消えた道筋が想像できない。
今月、集中的に探査したのですが、まだまだ旧ルートは不明です。
間が開いてしまいましたが、いくつかに分けてコメントを返したいと思います。
石碑の裏のルートは整備したのではなく、ショートカットというのは肯けます。
「道拵え」は榛東村誌の728ページにもありますが、祖父母世代のお話が聞けたのはよかったです。
ですが、私は別の説を立てたいと思います。
良好な自然環境を有する地域学術調査報告書 44
http://opac.city.takasaki.gunma.jp/opw/OPW/OPWSRCHTYPE.CSP?CHGIMG=0&DB=LIB&FLG=LIST&HOLD=NOHOLD&HOLDSEL=2&LID=5&MODE=1&PAGE=1&PID2=OPWSRCH1&SORT=-3&SRCID=1&WRTCOUNT=10
の39ページにこうあります。
「磨墨峠・相馬山分岐から磨墨峠に続くなだらかな尾根周辺には、二次林中に防火帯が設けられていたことで小規模な草地が維持され、」
「防火帯」は一般に「カヤト」と言われるものです(“火や止”の意か)。かつて道拵えしていたところを、戦後は道ではなく別の目的のカヤトとして維持したとは考えられないでしょうか。
「歴史の道調査報告書 信仰の道」の58ページに群馬町北部や榛東村、前橋の人は榛名神社に行くのにスルス峠を通ったとあり、明治時代以前からスルス峠が用いられていたようです。
それは明治に作られた馬道とは異なるルートだったと考えられます。おそらく遠くからも目印となる鞍部を通ったと思いますし、ガラメキ温泉も経由したかも知れませんが、それ以外は手がかりすらありません(黒髪神社すらなかった頃です)。
A1について
スルス峠から右京まで谷を上り下りしたことがないのですが、ヤマップを見ますと右京=十字渓の中俣の源頭部の情報と、右京=A1=鞍部直下の両方の情報があります。
相馬山、右京のムダ堀
https://yamap.com/activities/10621844
ジョーズ岩~スルス岩~右京の泣き掘-2021-03-27
https://yamap.com/activities/10396164
二つの記録の右京の位置はかなり違います(上の記録は写真の順番が違っている?)。
ヤマレコだと中俣の記録があります。
相馬山 黒髪尾根(修験の道)
https://www.yamareco.com/modules/yamareco/detail-3755352.html
私がhttps://blog.goo.ne.jp/harunakodou/e/9a7cc9327b11670e0a138932dfc845b5
の青いルートを通った時の経験からも、中俣には上流でも水があった(沢音が聞こえた)けれどA1は水のない小谷だったので、右京は中俣の源頭ではないかと思っています。
現行の地形図の峠南東の三つ固まった岩マークの右脇と思われます。C8からC9の間の道はA2の源頭より上を通っていて、その下でも道はA2と出合いません。図を見るとA渓谷本流と出合う前に別の谷に吸収されているように見えますので、道探索の目的から言うと重要度が低いです。
A3について
谷に沿って上り下りしていませんが、A1とA渓谷の間の最も大きい谷であることから、探索図2のOQ間で右(山側)から直角に出合うササのついた谷/ガリがあるのでそれではないかと思います。
明治40図について
この地域だけでなく、等高線はすべてズレていると言っていいです。ですが、空中撮影もなかった当時の地形図の作成方法を知ると、この程度のズレで済んでいるのは奇跡的と思えます。
(逆に道は時間をかけて踏査されてるので、戦後の地形図より確度が高い。)
個人的には等高線は「1100=>1110」というように10mくらいづつ嵩上げして読んでいます。
C8とC7の間について
ガ ―C8
岩 レ
場
C7―
こんな風になっている箇所があります。ガレ場は近年の崩壊でできたとしても、小さく二回切り返さないと馬が通れないような急斜面です。切り返しが小さすぎて図に表せなかったのか、それともルートが私の想定とは別のところを通っていたのかも知れません。
現地での調査はしていませんが、1050の等高線の四角の左上の角から北西の、1070のくぼみのことと思われます。ただのくぼみで沢ではない可能性はあります。
C6C5について
私が発見できなかった道跡を発見なされたようです。
「木が繁った」というのが私が迷ったFG間辺りで、「道っぽいガリ」というのが探索図1で言うGあたりではないかと思われます。
C3が見つからないことについての私の推測
C1=A渓谷の徒渉点で、右岸に黄色い「保安林」の標識があります。A渓谷の右岸をわずかに下ると右上(下流方向)に登っていくスロープのような地形があり、青い目印が続いています。探索図2のQ地点です。
最初は「整備された道(つまり古道)」と思いましたが、そのスロープを登って右に90度曲がると、すぐに進行方向の右前から左後ろに深いガリが横切っていて、道がなくなります。ガリの上流側の対岸に青い目印が続いていますが、両岸は険しく馬は通れなそうです。「整備された道」からすぐの難所。
このガリが、戦後に出来たものなのではと推測します。米軍の占領地の中だったので道拵えができない時期だった(そもそも道が通れなかった)上に、返還後も馬が使われなくなったので道拵えがされずに今に至っているのでは。それで、馬の通れない迂回路が勝手に付けられている(ガリの対岸の青い目印のルートもその一つ)。
そうすると先の「右に90度曲がる」がC2で、C3はガリが出来たことで崩壊した、あるいはガリでC2以下と分断されてヤブの中にある。C3から先もヤブになった。C4もヤブの中(あるいは「I」地点がC4で、展望がいいので通る人がおり、そこだけ道が残っている)。
黄色い標識の上の台地にある道跡について
C3C4あたりだと思われます。前後に崩落地点があり、そこだけ道が残っているのでは。そして迂回路の踏み跡がいくつもある。候補の①に近いのかと。あの付近は地形の変化が激しいのだと思います。