おどるなつこ 「あしおとがきこえる?」

タップダンサー・振付家おどるなつこの日常から浮かびあがることばを束縛せず書きとめています。2005年開設。

戦後70年のめぐりあい

2016-06-07 | おすすめ!
2009年に、ふっとというか、呼ばれるように心かられて、はじめて沖縄から久高島へいった。
友人の仕事に同行、付き添いだった小学生の女の子とただ閑な私は、早起きして久高島へ向った。
ついてみた久高島は、小学校設立50周年で島をあげてのお祭り。島中の路地で門付けのようにつぎつぎとエイサーが踊られている。泳ぐならどこそこの浜が一番だよとおしえてくれる。えっ、今日が祭りって知らないで来たの?そりゃあ招ばれたんだねえ。体育館にご馳走がびっしりあるから食べていってよ、と会う人ごとに言われる。
驚きのあまり言葉少ない過去のブログ

驚き三昧、脱水気味でぼーっとしつつ、久高島からの最後の船で沖縄本島に渡ったところで「なつこさ~ン!!」と声がした。あれ、私?沖縄に知り合いはいないはず..... なんと、同じ船から、その5年位前まで「鎌倉にプレーパークをつくる会」などでご一緒していた、地域の子育て仲間が手を振っていた。「あれ、まゆみさん?なんでここに?」


さて、2016年5月
目に飛び込んで来た記事があった。

“戦地で生きるで支えとなった「115通の恋文」稲垣麻由美作、扶桑社から出版された本の朗読公演:イッセー尾形ほか、日替わりの出演者により盛況のうちに終演。感無量、感謝”

まゆみさん?!なんてお仕事をされているのですか!




大正2年生まれのしづえさんが、結婚した直後に出征された夫へしたためた恋文。
稲垣氏は、この恋文の束を、鎌倉に住む娘の喜久代さんから預かり.....その背景を調べながら6年に渡りあたためてゆきます。
私たちの世代は、戦争は怖いこと、恐ろしい過去、二度とおこしてはいけないこと、その位しか知りません。なぜかというと、戦争を生きた人は、そのことのおおくを家族には語らなかったから。
徴兵から2年後、仙台陸軍教導学校で教官をし、ミンダナオ島で大隊長として隊を率い、終戦後は捕虜となってから復員した父が戦争について娘に語ったのも一言だけだそうです。
「お父さんはもう、竹刀が持てないのだよ」
この言葉の重みが、ゆっくりとあとから響いてきます。


「あの戦争はひどかったねえ」
大正元年生まれの私の祖母も、それ以上語りませんでした。むしろ、平和な今の世をいつも誉めていました。
「今はいい時代だねえ。何でもあって便利で。おばあちゃんたちなんか、終戦ではすっかり常識も変わっちゃうし、笑っちゃうよ。今は女の子だって教育を受けられて、いい時代だよ。」
私が2才の頃に亡くなった祖父は、日中戦争時代の軍人だったそうです...祖母は軍人年金をもらっていたはずだから。終戦のころ30才過ぎだった祖母は、同世代男子の出征を見送っていた側ではなかったか。赤ちゃん(父)を抱えて食べ物がなくて、ぎりぎり焼け残った永福町で暮らしていた祖母。明大前から先はすっかり焼け野原だったという、その時代について、もう聞くことはできない。

娘が中学時代剣道部でした。
竹刀が、本物の刀にかわって奨励された時代があったということを、一緒に伝えておかなければと思います。


そう、歴史を疑似体験して自分ごととして感じてみる...このテーマは、この5年、市民ミュージカルでご一緒していた山谷典子氏の脚本にも通じるのです。


「戦地で生きる支えとなった 115通の恋文」稲垣麻由美著 扶桑社発行 1300円
よかったらぜひ書店にてお求め下さい。

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