いつもお金がなかった。
その経験が福となってか、落ち着いて家の時を過ごしている。
チェリーセージの花蜜
家を出たばかりの19のころは、とにかく慎重にバイトとレッスンの往復で節約して暮らしていたが、20歳以降は水商売で働くことができた。ひとことで水商売といってもいろいろなお店があって、大きなお店ほどパワハラでコントロールされていた。深夜送りの車などシステムがあって安心なかわりに、売れっ子ホステスさんが閉店後に成績順に並ばされ、順位が落ちたとオーナーからバケツで水をぶっかけられているのもよく見た。ここで会ったって誰にも言わないでね、と念を押したバレエダンサーも働いていた。0時以降は系列店に移動すると朝4時まで働けて、明け方の町は目に痛かった。
小さなお店は居心地良さげだが、ある日いったら潰れていて連絡も取れず、その月働いたバイト料ももらえない、なんてことが何度もあった。そんな中「俺の貯金からカンパするんだからな」といって2万円くれた雇われマスターもいた。大人のさまざまな面をみた。
書いてみるとなんだか悲惨なようだが、周りにいる人は優しかったりおもしろかったり、ときどきヤバイ人ともすれ違ったが、悪い人にはあまり出会わなかった。
20代前半に、社会ってこういうとこなんだな、と学んだ。
20代も後半になると、働くお店選びも慎重になり、楽しくて居心地の良いお店で長くお世話になった。出店してきた私のボロボロの革ジャンをみたオーナーから「おい、なつこ、ちょっと一緒に来い」と近くのショップに誘われ、コートを買ってもらった。お姉さんたちと仲良くなり、日曜日にいっしょに犬の散歩に行ったりもし、このころは教えやライブもしていたので、みんなが、ダンスがんばって!と応援してくれていた。ただここは、お客さんもおもしろい人が多くて楽しすぎた。ダンサーやシンガー志望の子がチイママになりかけていくのをみて「このままじゃまずいかも」と水商売で生活を補填することをやめた。
20代は、同い年の従兄弟の死から大きな影響をうけてはじまり、おどりやめて1年ほど過食症と鬱で閉じこもっていた時期もあるのだが、あまり記憶が定かでない。人に会わないと記憶はつくれないのかもしれない。当時住んでいた日吉の坂道を自転車で下る時は、いつも目をつぶっていたことを覚えている。
20代で水商売をせずに暮らせたのは、校正会社と印刷会社に勤めた計10ヶ月とサーカスの裏方などしていた1年半だけ。日々仕事に行きさえすれば補償された働き方は、その後の人生でもこの2年ちょっとだけである。いつも綱渡りで、よく生き延びてこれたものだと思う。
この20代には、“ある集団、あるシステムに、依存して生きることは危険”ということをとことん身につけた。
そんな私にも子がやって来て、“集団やシステムと相対していかなければならない”場面が増えた。けれど、よい仲間がまわりにいつもいて、苦手なことを素直に言えたし、お互いに補いあいながら、30代は子と共に育てられた。20代とはすっかり逆の動きがはじまったのだ。人と出会うということが、どれだけ大きなことかと思う。
今、人に会うことがためらわれる状況になっている。
空白の2ヶ月と感じている人も多いかもしれない。
私は、人との出会いによって、学び、育てられてきたので、出会いそのものを無くさないようにしなければと考えている。お金が入らないこと、さまざまなタイミングが失われたことなど、人により大変さもそれぞれ違うだろうけれど。
出会うってつまり、なんだろう?
すれ違うのとは異なる
ぐっと心に届いて
視点が変わったり
次の何かにつながるようなことだ。
あとひと月。
世界は変わっていく。
誰かが何かと出会うチャンスを、なんとか生み出したいと思う。