ひと山越えサイクリングで、確定申告提出完了。
おだやかに晴れた春、8年前もそんな日だった。あの年は早めに申告を終えていたんだ。
2010年に、私は「あしおとでつながろう!プロジェクト」立ち上げのために研修を修了し、半年ほどガイドヘルパーの仕事をしていた。ガイドヘルパーとは、主に知的障害を持つ方の移動支援の時給仕事で、福祉施設や小学生の登下校や、土日の余暇活動支援としてグループで空港に飛行機をみにいきファミレスで食事して帰ってくるなど、移動専門のヘルパーである。
3.11の午後は、小学生の下校支援で2:40に学校玄関で担当する女の子を待っていた。この日初対面の彼女の名前を確認し、私も名乗って、「では帰ろうか、道順を教えてね」といって歩き出した。
広い国道を渡るため、少し緊張気味に信号待ちをしていた時、突然平衡感覚がくるった。道が波打っている。気のせいではなく、蛇行した乗用車が蛇行して道の端に次々止まった。私は女の子を抱えてそこにしゃがんだ。拒否することなく従ってくれ、「地震だから、しゃがんで少し待とう」と伝えると「はい」と答え、二人でまるでペンライトのようにゆらゆらしている電柱を眺めていた。
だいぶ経って、地面が動かなくなったので立ち上がり、なるべく道の真ん中を歩いて彼女を送り届けた。電線や塀が崩れてこないか心配だった。
横須賀線の踏切が下りて鳴りっぱなしのまま。おじさんが「停電してるだけ、電車も動いてないから通れる〜」と伝えてくれて、みな下をくぐりぬける。
コンビニでトラック運ちゃんがカーテレビを公開し「東北で地震、すごいでかい」と声を上げてくれている。
そのまま娘の小学校へ。みな校庭にいて、先生方が円陣を組み相談している。「東北で大地震だそう。通学路の踏切は鳴りっぱなしです」と伝え、娘をひきとり帰宅。
潰れていないか心配した古い昭和平家は、家ごと揺れたせいか、箪笥の上の人形が倒れていた程度だった。この家はボットン便所で、主に薪ストーブで調理していたので、携帯がつながらずパソコンが開かないほか、あまり不自由もなく。ご近所の無事も確認できて、津波のことを知ったのは夕方、隣人のカーテレビ。弟の伴侶の実家があるエリアが海に...
それ以上調べようがなかったので、薪ストーブで炊いたご飯でおにぎりをつくり学校に届けて、早めに寝た。
たくさんの心配を抱えてだれもがすごしていた。とくにスーパーの行列はものすごかった。
いろいろ自粛するなか、週末に予定されていたヨークカルチャーの発表会も中止の連絡があったが、ヨーカドー店内で「元気をだそうよ!チャリティイベント」を開かせてもらった。ご近所であるサファリパークDUOや、娘の担任の先生も協力してくださった。みるともなくベンチに腰掛けていたおばあさんが、「明るいのはいいねえ。もう、暗いのはいやだよ。」とこぼした。鎌倉は計画停電で夜になると真っ暗だったのだ。
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いざという時、できることはあまりない。
でも、あの時みんないろいろ考えた。
それは忘れちゃいけない。
おだやかに晴れた春、8年前もそんな日だった。あの年は早めに申告を終えていたんだ。
2010年に、私は「あしおとでつながろう!プロジェクト」立ち上げのために研修を修了し、半年ほどガイドヘルパーの仕事をしていた。ガイドヘルパーとは、主に知的障害を持つ方の移動支援の時給仕事で、福祉施設や小学生の登下校や、土日の余暇活動支援としてグループで空港に飛行機をみにいきファミレスで食事して帰ってくるなど、移動専門のヘルパーである。
3.11の午後は、小学生の下校支援で2:40に学校玄関で担当する女の子を待っていた。この日初対面の彼女の名前を確認し、私も名乗って、「では帰ろうか、道順を教えてね」といって歩き出した。
広い国道を渡るため、少し緊張気味に信号待ちをしていた時、突然平衡感覚がくるった。道が波打っている。気のせいではなく、蛇行した乗用車が蛇行して道の端に次々止まった。私は女の子を抱えてそこにしゃがんだ。拒否することなく従ってくれ、「地震だから、しゃがんで少し待とう」と伝えると「はい」と答え、二人でまるでペンライトのようにゆらゆらしている電柱を眺めていた。
だいぶ経って、地面が動かなくなったので立ち上がり、なるべく道の真ん中を歩いて彼女を送り届けた。電線や塀が崩れてこないか心配だった。
横須賀線の踏切が下りて鳴りっぱなしのまま。おじさんが「停電してるだけ、電車も動いてないから通れる〜」と伝えてくれて、みな下をくぐりぬける。
コンビニでトラック運ちゃんがカーテレビを公開し「東北で地震、すごいでかい」と声を上げてくれている。
そのまま娘の小学校へ。みな校庭にいて、先生方が円陣を組み相談している。「東北で大地震だそう。通学路の踏切は鳴りっぱなしです」と伝え、娘をひきとり帰宅。
潰れていないか心配した古い昭和平家は、家ごと揺れたせいか、箪笥の上の人形が倒れていた程度だった。この家はボットン便所で、主に薪ストーブで調理していたので、携帯がつながらずパソコンが開かないほか、あまり不自由もなく。ご近所の無事も確認できて、津波のことを知ったのは夕方、隣人のカーテレビ。弟の伴侶の実家があるエリアが海に...
それ以上調べようがなかったので、薪ストーブで炊いたご飯でおにぎりをつくり学校に届けて、早めに寝た。
たくさんの心配を抱えてだれもがすごしていた。とくにスーパーの行列はものすごかった。
いろいろ自粛するなか、週末に予定されていたヨークカルチャーの発表会も中止の連絡があったが、ヨーカドー店内で「元気をだそうよ!チャリティイベント」を開かせてもらった。ご近所であるサファリパークDUOや、娘の担任の先生も協力してくださった。みるともなくベンチに腰掛けていたおばあさんが、「明るいのはいいねえ。もう、暗いのはいやだよ。」とこぼした。鎌倉は計画停電で夜になると真っ暗だったのだ。
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いざという時、できることはあまりない。
でも、あの時みんないろいろ考えた。
それは忘れちゃいけない。